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懐かしい横顔 1

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「アドリ様、ご機嫌でいらっしゃいますね」

 わだちの音を聞きながら窓の外を見ていたアドリーシャは、ええと振り返る。微笑ましげにこちらを見つめるエティケの視線は柔らかい。

「今日は大学から神学の研究者が来る日だもの」

 先々代の王は教育制度の再建に身を捧げた人物で、子供に教育を受けさせる義務を法に組み込むことで、貴族に勉励を求めた。以来、余程の事情がない限り、貴族の子供に性別の隔てなく学校に通うことが義務づけられているのは、アドリーシャにとって幸いだった。

 学校側は王弟が自身の果実を学校に通わせようとしていることがわかると仰天したが、アドリーシャが貴族の家に生まれた娘であることは疑いようもなく、表だって反対の意を述べることはできなかった。

「私は早く騎士団に行きたい一心で勉強を片付けていましたので、アドリ様が勉強に励まれているご様子に過去を顧みることがあります」
「なら、授業中は退屈なのじゃない?」
「アドリ様をお守りする役目がなければ、眠っていたことでしょう」

 肩を竦めたエティケの様子に、アドリーシャは自分が授業を受けている間、懸命にあくびをかみ殺している彼女の姿を想像して笑ってしまった。どこか酷薄なところのある双子の兄と違って、エティケは真面目なのだ。

 本来ならば、貴族の家格に左右されない教育の場として造られた王立学校では、たとえ王太子であっても校門を越えて護衛を伴うことはない。それなのにアドリーシャがエティケを伴っているのは、入学してからこの方、諍いごとが絶えなかったせいだ。随分落ち着いてきたとは言え、貴族にとって蔑みの対象である果実が学校に通うのを快く思っていない生徒は依然として多い。

 馬車の動きが緩やかになり、ややあって停まる。
 エティケは窓越しに外にいる護衛の騎士と合図を交わす。エティケの手を取って馬車を降りたアドリーシャは騎士たちに礼を言うと、特別講義が行われる講堂へと足を向けた。

 先々代の王が造らせた講堂は、校門から少し歩いた場所にある。
 授業の始まりを告げる鐘が鳴るまではまだ時間があったが、講堂前にはすでに生徒たちが集まっている。今日の特別講義は学年の縛りなしに受けられるものであったから、見慣れない顔も多い。

 良い席がなくなっているのではと心なしか早足になったアドリーシャは、静かに立ち止まったエティケの背に隠される。
 エティケの背から顔を出したアドリーシャは、目を見開いた。
 こちらをめつけているのは、淡い金の髪に湖を思わせる瞳を持つ少年だ。わずかに幼さを残した頬の輪郭に、記憶の中の笑みが重なる。

「これは姉上。いつかはお目にかかるだろうと思っていましたが。お元気そうですね」

 ヒュミラ伯爵家次男ゲオルグは、声に滲んだ震えを噛みちぎるように言葉を切ると、きつく唇を引き結ぶ。

 馬車を降りたときから、こちらを観察しておいででした。エティケが低く囁いたのに頷いて、アドリーシャは久しぶりに会う弟の前に進み出る。

「会わないうちに随分大きくなったこと。よく私だと分かったわね」
「姉上は、学校で随分名が通っておいでですよ。それに、王弟殿下は毎年、わざわざ姉上の肖像画を送ってくださいますから」

 イルディオスは毎年画家を呼んで、肖像画を描かせる。アドリーシャを家族の一員と示すためだとばかり思っていたが、どうやらそれだけが理由ではなかったらしい。

「……学び舎に騎士を伴わせるとは。王弟殿下は、殊の外姉上が大事でいらっしゃるようですね」

 ゲオルグは低く囁いて、薄い唇を引き攣れさせた。軽侮と蔑みにまみれたその表情は、思い出の中のどこにもない色をしている。

「俺が今年高等部に上がることはご存じだったはずでしょう。入学から三月みつきですよ、顔を見に来ようとは思わなかったんですか?」

 アドリーシャを詰問するゲオルグの声は、次第に大きくなる。講堂に向かおうとしていた生徒たちが足を止めて、遠巻きにこちらを見つめだす。この様子では、すぐに噂になってしまうだろう。

「ゲオルグ……」
「名前を呼ばないでください。姉上のせいで、ヒュミラ伯爵家がどれだけ迷惑を被っているか!」

 穢らわしいと吐き捨てる語気の鋭さに、辺りがしんと静まった。

 ――淫乱、あばずれ。売女に娼婦。

 ゲオルグが思い浮かべた言葉は、きっとこんなところだろう。学校で、陰に日向に数え切れないほどそう罵られてきたから、よくわかる。

「だから会いに行かなかったのよ。それに、あなたが一通でも手紙を送ってくれたことがあって?」
「俺たちにかかる迷惑は当然だと仰るのですか? 姉上のせいで、分家からも軽んじられている始末です。それもこれも、姉上が卑しい果実になってしまわれたせいで……!」

 気を昂ぶらせたゲオルグは、自分を見つめ返すアドリーシャの表情がいっそ不可思議なまでに静けさを保ったままでいることに気づいて、ふっと口を告ぐんだ。

 違和感を紐解こうとするように顰められた眉、訝しむように視線を投げかけてくる瞳は、アドリーシャによく似た造りをしていた。兄弟の中でも母に似た顔立ちのアドリーシャとゲオルグは双子のように似ていて、かつての彼はそのことを誰よりも喜んでいたものだった。

「私の運命をお決めになったのは、ほかならぬ弟神様でいらっしゃるのよ。敬虔なヒュミラ伯爵家とあろう者が、弟神様の御意志に異議立てしようとはね」

 ゲオルグは、アドリーシャを責めればすぐに泣いて謝るか、感情のままに反論するとでも思っていたのだろう。唇を噛んだ表情は、こんなはずではなかったと告げている。

 生憎、そうするにはアドリーシャが置かれた境遇は複雑であったし、悲劇の主人公に身を投じられるほど考えなしの娘ではいられなかった。
 アドリーシャは、周囲から期待されるほどには自分の感情を高く見積もってはいない。彼女にとって、感情は胸の最奥に秘すべきものだ。たとえ、冷たいと罵られたとしても。

 ゲオルグは、きっと両親とイルディオスの間に結ばれた取引のことを知らされていないのだろう。
 王弟から金銭を受け取っていると知っていたならば、いくら幼いとはいえ、こうしてあからさまに突っかかってはこないはずだ。
 母は、自分が求める優秀さを備えた子供にしか関心を示さず、情報を分け与えない。兄弟の中で、ゲオルグの優先度は一番低かった。

「現状の責を私に問うならば、もう少し勉学に励みなさい。利を手にするためには、根拠を元に順序立てて論を述べなければならないのよ。あなたが発言の仕方を覚えたら、討論の相手を務めましょう。最初に採り上げる問題は、果実の是非にしましょうか?」

 遠巻きにこちらを囲んでいた生徒の間から、苦笑が漏らされる。
 入学して以来、アドリーシャが自分に突っかかってきた教師や生徒と討論を行い、貴族でありながら果実でもある身で学校に通うことへの反論を説き伏せてきたことは、今やすっかり知られた話であった。

 アドリーシャは、ゲオルグのように禍根を残すような喧嘩の売り方はしない。
 あくまでも机上の問題として取り扱い、どんなに挑発されても乗ることはしないことで、学校における立場を固めてきた。討論に乗じて投げかけられる悪意に満ちた口撃や品性のない野次に比べれば、幼気なゲオルグの挑発など、何も怖くない。

 思っていたものとは違ったのだろう周囲の反応に、ゲオルグが眉を立てたそのとき。
 そこまでだ、と声が飛んだ。

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