「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

文字の大きさ
上 下
6 / 40

いつも通りのお三時 2

しおりを挟む
 長椅子に向かい合って座し、アドリーシャとイルディオスはお三時を楽しむ。
 アドリーシャは、タルトの先に小さくフォークを差し入れる。そっと口に含むと、初夏の果実シトロノの酸味が加わったアパレイユと角切りにされたペルスィコの実の甘さが広がる。さくりと香ばしいタルト生地の食感は軽やかで、もとは宮殿パラグ勤めだったというユーリの腕の良さがよく表れていた。

 半分ほど食べたところで、アドリーシャは紅茶で喉を潤した。ちなみに、イルディオスはとうのとっくに一切れ平らげている。

「いつも言っていることだが、アドリーシャがおいしく食べられる分だけ食べればいい」
「頑張ってはいるのですけれど」
「食べられる量は人それぞれだろう。俺と兄上はかなりよく食べるほうだが、同じだけ食べるやつには出会ったためしがない」

 確かに、健啖家ということばでは到底覆い尽くせないほどに食欲が旺盛な兄弟の様子は、慣れた今でも少々驚いてしまうほどである。
 小さく笑ったアドリーシャに、イルディオスも唇の結びを緩めた。

「困ったことに、俺は今日も腹が空いている。アドリはどうしたらいいと思う?」

 ケーキスタンドに載せられたタルトは、まだ十分な量がある。だが、そんなことはふたりとも承知だった。
 アドリーシャは、芝居めいた仕種で、差し出された手のひらにケーキ皿を乗せる。

「では殿下、僭越ながら私のケーキをさしあげます」
「これはありがとう。君の特別な計らいに感謝する」

 調子を合わせたイルディオスは頷いて、勧められただけの量を食べきれないアドリーシャの罪悪感ごと、ぺろりとタルトを平らげた。あっという間に空になったケーキ皿は、剣だこのついた指で静かにアドリーシャのほうへと寄せられる。これで証拠隠滅だと言いたげに。

「明日、兄上と義姉上がお越しになるそうだ」
「三週間ぶりですね。楽しみです」

 イルディオスはうんと頷いて、アドリーシャが新たに切り分けたタルトにかぶりついた。
 
「お二人もアドリを会うのを楽しみにしていた。ああ、もうノードに支度するように言ってあるから、特に差配しなくともいい。お二人は気軽な集まりをお望みだ」
「ありがとうございます。明日は、いつもより早めに帰ってもいいですか?」
「もちろん。あんなところに長居する必要はない」

 アドリーシャは、週に四日王立学校に通い、週に一日神殿に通っている。明日は、神殿に行く予定の日だ。
 神殿を快く思っていないイルディオスは、折に触れてこうしてアドリーシャに確認する。

「本当に、意に染まないことはされていないな? エティケも神殿の授業には立ち会えないままだから、俺も子細を知らない」

 エティケは騎士としてアドリーシャの行く先々に同行し、どこで何が起こったのかを事細かにイルディオスに報告している。神殿は最初エティケの供すら渋ったそうだから、イルディオスは随分交渉したのだろう。

「神殿と関わっておくことも必要です。ご存じでしょう? 私と殿下は、抗おうとしているのですもの。利用できるものは利用しなくては」
 
 アドリーシャは立ち上がると、向かいに座るイルディオスに近づいた。
 静かにこちらを見つめる瞳を受け止めて、アドリーシャはイルディオスから拳ひとつぶんほど空けた隣に腰を下ろす。
 ゆっくりと息を吐き出して、また軽く吸って。イルディオスは喉の奥から苦しげに唸った。

「……すまない。あの日誓ったというのに、結局今日も俺は君を食らって生きている」
「本当の意味で食べられたことはありません」

 わざと冗談めかして言ったとわかったのだろう、噛んで含めるように名を呼ばれた。
 アドリーシャは、彼がそうして自分の名を唇に乗せているときの柔らかい音が好きだった。イルディオスに名前を呼ばれているときだけ、アドリーシャはほんの少し息をするのが楽になる。

「俺は、君を利用していることを自覚しなくてはならない」

 利用。イルディオスは、しばしば自分に言い含めるようにそう口にした。
 私だってそうですよとアドリーシャは微笑んだ。アドリーシャの生活は、イルディオスの厚意と庇護によって成り立っている。

 見つめた先で、イルディオスの星を抱いた瞳が揺らいだ。欲しがられているとわかる瞳だった。
 愉悦、さみしさ、諦念に喜び。この瞬間に走り抜けていく感情は複雑で、いつもアドリーシャの胸を静かに塞いだ。

 本来ならばアドリーシャはイルディオスに食べられる存在で、イルディオスはアドリーシャをほしいままにできる存在だ。でも、イルディオスはそうしない。

 アドリーシャは、隣り合ったイルディオスの右肩に頭を預けた。
 触れあったところから体温が重なって、呼気が重なる。そう思ったら、とくり、とくりと脈打つように身体の内側で熱が揺らめきだす。

「……っぐ、ぁ、」

 堪えきれずに呻き声を上げたイルディオスの身体が一度、大きく揺れる。

 ――深く、重たい音が、しんと静まりかえる執務室に響いた。
 それは、人がその身に備えるべくもない翼が奏でる羽振はぶきの音だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

勘違い令嬢の心の声

にのまえ
恋愛
僕の婚約者 シンシアの心の声が聞こえた。 シア、それは君の勘違いだ。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ すべてフィクションです。読んでくだり感謝いたします。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

六畳二間のシンデレラ

如月芳美
恋愛
8ケタの借金を残したまま、突然事故死した両親。 学校は? 家賃は? 生活費は? 借金の返済は? 何もかもがわからなくてパニックになっているところに颯爽と現れた、如何にも貧弱な眼鏡男子。 どうやらうちの学校の先輩らしいんだけど、なんだか頭の回転速度が尋常じゃない! 助けられているのか振り回されているのか、あたしにも判断不能。 あたしの生活はどうなってしまうんだろう? お父さん、お母さん。あたし、このちょっと変な男子に任せていいんですか? ※まだ成人の年齢が18歳に引き下げられる前のお話なので、現在と少々異なる部分があります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...