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いつも通りのお三時
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その屋敷は、ヴァルダノの王都フォルケスの中心部よりやや外れた場所にある。
初夏の鮮やかな緑に包まれた屋敷には穏やかな空気が満ちていて、騎士たちが訓練に励む声が遠く聞こえる。
甘い匂いが漂う厨の中心にいるのは、華奢な体つきの娘だ。
降り注ぐ光を梳いたらこうなるだろうと思わされる、まっすぐな淡い金の髪。同じ色の睫毛は長く、伏せていると慎ましやかに影を落としている。その淡い暗がりに隠されていた瞳は、澄んだ湖面の色を宿して優しい。なめらかな肌は白く、微笑むように結ばれた唇は朝露を受けた花びらのようだった。
「アドリ様、今日はペルスィコのタルトを焼きましたよ」
料理長のユーリが差し出したケーキスタンドに載せられているのは、強弱を付けて絞られたクリームで飾られたタルトだ。
「今日もおいしそうね。初物のペルスィコをこんなにたくさん使うだなんて、贅沢だわ」
タルトにたっぷりと使われたペルスィコの実は、顔を近づけなくとも甘やかに香る。
ペルスィコは、ヴァルダノの貴族の間でも人気高い初夏の果実だ。
熟したペルスィコの実は、口に含むと青みがわずかに残る甘やかさとともにみずみずしい果汁がじゅわりと広がって、なんとも言えない馨しさを残して喉に落ちる。その反面、熟れた実は軽く指で握っただけで指の跡がついてしまうほど繊細で、取り扱いには細心の注意を払う必要があると聞く。
「殿下とアドリ様のためのケーキですよ、ちっとも贅沢ではありません。春先に殿下がおっしゃったんです。アドリ様はペルスィコの実がお好きなようだから、今年はたくさん仕入れるようにと」
そうだったのと唇の先で呟いて、アドリーシャは目を伏せる。
彼女は強いて何が好きだと口にすることのない娘だったから、自分の好物が知られていたことにほんの少し驚いてしまう。
アドリーシャはそうねえと呟いて、このくらい切り分けてほしいとケーキの上で指をすべらせた。
「ほんとうにこれっぽっちでいいんですか? 俺の腹なんて、その倍でも満足できやしませんよ」
その場にいた人々の視線は、ユーリのふくよかな腹部に集中した。
「食べ過ぎるとドレスがきつくなってしまうわ」
まあと声を上げたのは、アドリーシャ付きの侍女ユニカである。
「アドリ様はただでさえ細身でいらっしゃるんですから、問題ありませんよ。ほら、エティケ様だって、そう思われるでしょう?」
ユニカが振り仰いだ先で肩をすくめるのは、この屋敷の主人の乳兄妹だ。
華のある臙脂の騎士服に身を包んだエティケは、数少ない女性騎士である。凜々しく結い上げた髪を揺らしたエティケは、そうですねと頷いた。
「恐れながら、アドリ様は大食らいの殿下とは違いますから。でも確かに、このくらい召し上がってもいいかもしれませんね」
ほらねとユーリとユニカが揃ってこちらを向いたのに、アドリーシャは眉を下げる。
ユーリとユニカを筆頭に、この屋敷の人々はアドリーシャにお腹いっぱい食べさせようとするのだ。
「皆の言うとおりにするわ。いつものように、殿下の分は多めに切り分けてちょうだい」
「殿下は甘いものに目がありませんからね。こうして事前に切り分けているのは、殿下がアドリ様の分まで召し上がってもおかしくないからですし」
ユニカのことばに、厨には笑い声が満ちた。そのくらい、主の甘党ぶりは屋敷で知られたことだったので。
ワゴンを押しながら先導するユニカと背後に付いたエティケに挟まれたアドリーシャは、執務室へ向かう。広く取られた窓から目映い光が差し込む廊下に落ちた影は濃く、夏の盛りが近いことを報せる。
アドリーシャは夏が好きではないが、春の名残がまぶしさに溶けると安堵するのも事実だ。
とりわけ、冬の名残を留めた春先はアドリーシャの心を暗い地下室へと連れて行く。その落ち着かない気持ちは、春が終わりかけるまで密やかにずっと続いた。
あの地下室から連れ出されてから、もう五年ほどが経つ。
五年。胸の奥で独りごち、アドリーシャは目を伏せる。もう五年。それとも、まだ五年なのかしらと。
厚い扉が叩かれる密な音に、アドリーシャは顎を引いて姿勢を正す。
侍従が毎朝日も明けきらぬうちから磨く扉には、彫刻で大樹が浮き彫りされており、枝の先に咲く花が象眼で表現されている。この彫刻は、この屋敷の主人がまったきヴァルダノの王族であることを示すものでもあった。
応えの声を聞いたユニカが扉を開けると、部屋の奥にある開け放たれた窓から差し込む風がやさしく頬をくすぐった。
緑に囲まれた閑静な屋敷は、初夏でも涼やかに風を通す。風の薫りをたどって視線を伸ばした先で、執務室の奥に据えられた机に軽く腰掛けたその人の姿は、影に塗りつぶされている。けれども、アドリーシャにはその人が淡く微笑んでいるとわかっていた。
「アドリ、お帰り。今日の授業は楽しかったか? 昨夜は遅くまで小論文に取り組んでいただろう」
イルディオスは、いつだってアドリーシャの瞳を独り占めにする。
アドリーシャの瞳には、今のように逆光の影の中にあるときでさえ、彼が淡く光り輝いているように見えた。そう口にするとユニカは笑い、エティケは微笑ましそうに眉を下げる。エティケの双子の兄であるエブロがその場にいたら、にやりと唇を吊り上げるだろう。
でも、アドリーシャが言いたいのは、彼らが思っているような意味ではなかった。だって、アドリーシャにとってイルディオスは眩しい光そのものなのだから。
アドリーシャは軽くドレスの裾をつまんで膝を折り、王族への礼をとる。
「はい、殿下。今日もつつがなく授業を終えました。小論文は良い評価をもらえそうです」
イルディオスは、さすがはアドリだと笑った。
室内では剣を佩いてこそいないが、厳しい鍛錬によって鍛え抜かれた身体には厚みが、動きには重みがある。黙っていても自然と目を吸い寄せられる挙措は、鋭い爪を潜ませた獣のようにしなやかだ。
「殿下もお腹が空いていらっしゃるでしょう? お三時にしましょう」
「俺には出し惜しみするくせに、ユーリはアドリのためならせっせとケーキを焼く」
ほんとうに、とユニカとエティケが笑い声を立てる。
イルディオスは優しくアドリーシャをさし招き、長椅子に腰掛けるよう促した。
小机に茶器を並べ終えたユニカとエティケが辞すと、執務室はふたりきりになった。
初夏の鮮やかな緑に包まれた屋敷には穏やかな空気が満ちていて、騎士たちが訓練に励む声が遠く聞こえる。
甘い匂いが漂う厨の中心にいるのは、華奢な体つきの娘だ。
降り注ぐ光を梳いたらこうなるだろうと思わされる、まっすぐな淡い金の髪。同じ色の睫毛は長く、伏せていると慎ましやかに影を落としている。その淡い暗がりに隠されていた瞳は、澄んだ湖面の色を宿して優しい。なめらかな肌は白く、微笑むように結ばれた唇は朝露を受けた花びらのようだった。
「アドリ様、今日はペルスィコのタルトを焼きましたよ」
料理長のユーリが差し出したケーキスタンドに載せられているのは、強弱を付けて絞られたクリームで飾られたタルトだ。
「今日もおいしそうね。初物のペルスィコをこんなにたくさん使うだなんて、贅沢だわ」
タルトにたっぷりと使われたペルスィコの実は、顔を近づけなくとも甘やかに香る。
ペルスィコは、ヴァルダノの貴族の間でも人気高い初夏の果実だ。
熟したペルスィコの実は、口に含むと青みがわずかに残る甘やかさとともにみずみずしい果汁がじゅわりと広がって、なんとも言えない馨しさを残して喉に落ちる。その反面、熟れた実は軽く指で握っただけで指の跡がついてしまうほど繊細で、取り扱いには細心の注意を払う必要があると聞く。
「殿下とアドリ様のためのケーキですよ、ちっとも贅沢ではありません。春先に殿下がおっしゃったんです。アドリ様はペルスィコの実がお好きなようだから、今年はたくさん仕入れるようにと」
そうだったのと唇の先で呟いて、アドリーシャは目を伏せる。
彼女は強いて何が好きだと口にすることのない娘だったから、自分の好物が知られていたことにほんの少し驚いてしまう。
アドリーシャはそうねえと呟いて、このくらい切り分けてほしいとケーキの上で指をすべらせた。
「ほんとうにこれっぽっちでいいんですか? 俺の腹なんて、その倍でも満足できやしませんよ」
その場にいた人々の視線は、ユーリのふくよかな腹部に集中した。
「食べ過ぎるとドレスがきつくなってしまうわ」
まあと声を上げたのは、アドリーシャ付きの侍女ユニカである。
「アドリ様はただでさえ細身でいらっしゃるんですから、問題ありませんよ。ほら、エティケ様だって、そう思われるでしょう?」
ユニカが振り仰いだ先で肩をすくめるのは、この屋敷の主人の乳兄妹だ。
華のある臙脂の騎士服に身を包んだエティケは、数少ない女性騎士である。凜々しく結い上げた髪を揺らしたエティケは、そうですねと頷いた。
「恐れながら、アドリ様は大食らいの殿下とは違いますから。でも確かに、このくらい召し上がってもいいかもしれませんね」
ほらねとユーリとユニカが揃ってこちらを向いたのに、アドリーシャは眉を下げる。
ユーリとユニカを筆頭に、この屋敷の人々はアドリーシャにお腹いっぱい食べさせようとするのだ。
「皆の言うとおりにするわ。いつものように、殿下の分は多めに切り分けてちょうだい」
「殿下は甘いものに目がありませんからね。こうして事前に切り分けているのは、殿下がアドリ様の分まで召し上がってもおかしくないからですし」
ユニカのことばに、厨には笑い声が満ちた。そのくらい、主の甘党ぶりは屋敷で知られたことだったので。
ワゴンを押しながら先導するユニカと背後に付いたエティケに挟まれたアドリーシャは、執務室へ向かう。広く取られた窓から目映い光が差し込む廊下に落ちた影は濃く、夏の盛りが近いことを報せる。
アドリーシャは夏が好きではないが、春の名残がまぶしさに溶けると安堵するのも事実だ。
とりわけ、冬の名残を留めた春先はアドリーシャの心を暗い地下室へと連れて行く。その落ち着かない気持ちは、春が終わりかけるまで密やかにずっと続いた。
あの地下室から連れ出されてから、もう五年ほどが経つ。
五年。胸の奥で独りごち、アドリーシャは目を伏せる。もう五年。それとも、まだ五年なのかしらと。
厚い扉が叩かれる密な音に、アドリーシャは顎を引いて姿勢を正す。
侍従が毎朝日も明けきらぬうちから磨く扉には、彫刻で大樹が浮き彫りされており、枝の先に咲く花が象眼で表現されている。この彫刻は、この屋敷の主人がまったきヴァルダノの王族であることを示すものでもあった。
応えの声を聞いたユニカが扉を開けると、部屋の奥にある開け放たれた窓から差し込む風がやさしく頬をくすぐった。
緑に囲まれた閑静な屋敷は、初夏でも涼やかに風を通す。風の薫りをたどって視線を伸ばした先で、執務室の奥に据えられた机に軽く腰掛けたその人の姿は、影に塗りつぶされている。けれども、アドリーシャにはその人が淡く微笑んでいるとわかっていた。
「アドリ、お帰り。今日の授業は楽しかったか? 昨夜は遅くまで小論文に取り組んでいただろう」
イルディオスは、いつだってアドリーシャの瞳を独り占めにする。
アドリーシャの瞳には、今のように逆光の影の中にあるときでさえ、彼が淡く光り輝いているように見えた。そう口にするとユニカは笑い、エティケは微笑ましそうに眉を下げる。エティケの双子の兄であるエブロがその場にいたら、にやりと唇を吊り上げるだろう。
でも、アドリーシャが言いたいのは、彼らが思っているような意味ではなかった。だって、アドリーシャにとってイルディオスは眩しい光そのものなのだから。
アドリーシャは軽くドレスの裾をつまんで膝を折り、王族への礼をとる。
「はい、殿下。今日もつつがなく授業を終えました。小論文は良い評価をもらえそうです」
イルディオスは、さすがはアドリだと笑った。
室内では剣を佩いてこそいないが、厳しい鍛錬によって鍛え抜かれた身体には厚みが、動きには重みがある。黙っていても自然と目を吸い寄せられる挙措は、鋭い爪を潜ませた獣のようにしなやかだ。
「殿下もお腹が空いていらっしゃるでしょう? お三時にしましょう」
「俺には出し惜しみするくせに、ユーリはアドリのためならせっせとケーキを焼く」
ほんとうに、とユニカとエティケが笑い声を立てる。
イルディオスは優しくアドリーシャをさし招き、長椅子に腰掛けるよう促した。
小机に茶器を並べ終えたユニカとエティケが辞すと、執務室はふたりきりになった。
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