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地下室に射した光 2
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「なぜならば、君と俺に心があるからだ。世界の理がそうだからといって、心まで縛ることはできない。俺の果実であるからといって、君の意思のほかで勝手に食事をするなど、外道のすることだ。
俺はこの年まで、果実を口にすることなく生き存えていた。とうに生まれ持った力と心中する覚悟はできている」
苦々しくも力強く吐き出されたことばに、アドリーシャは悟った。
(……この方は、果実が見つかって欲しくなかったのだわ)
不可思議なことに、アドリーシャの内側には、ことりと錘を落としたような得心があった。目の前のこの人が、自分にとって運命なのだという確信と自覚が。
眩しい光に覆われているイルディオスの身体は、色濃い疲弊を帯びていた。
青ざめた肌は彼の鋭さを帯びた美貌を引き立てていたが、目の下に湛えられた隈はひどく濃い。いままでどのように飢えを凌いできたのかは、よく絞られた身体を見れば想像がついた。
「矛盾して聞こえるだろうが、君を俺の屋敷に招き寄せたい。少なくとも、ここよりは快適な暮らしを約束する。それとも、このまま親元で過ごしたいだろうか。君はどうしたい?」
――お前のためを思ってのことですよ。もしここを出たら、あっという間に無体を働かれてしまうでしょう。わたくしは、仮初めにも自分の娘がそんな目に遭うのは嫌です。
地下室に閉じ込められた日に母はそう言って、一度もアドリーシャと目を合わせなかった。
(どうして? 私に非道な振る舞いをするはずの方が、一番私に親切に思える)
「私は貴方の果実なのでしょう? 本当に、私を食べないのですか?」
「信じられないだろうが、そうだ。何を伝えれば、君は安心する? ……ああ、そうだな。俺は妻帯していないが、好きな人はいるんだ」
目の前の人のことを一切知らないというのに、確かにアドリーシャの胸はつきりと痛んだ。
「……いずれ娶られる奥方に蔑まれるのであれば、行きたくありません」
果実には過ぎた我が儘を口にしたのに、イルディオスは小さく笑んだ。そうすると、冴えた美貌が緩んで人間らしいあたたかみが滲む。
「到底叶いようもない恋だから、婚姻を結ぶこともないだろう。安心してくれていい」
そのとき、アドリーシャの目の端からこぼれ出たものがある。
理由の分からぬ涙にアドリーシャが瞬くと、イルディオスは慌ててハンカチを取り出して頬に押しあててくれる。どうすればいいか頭ではわかっていても慣れていないとわかる、無骨な手つきだった。
涙で滲んだ瞳で見つめると、目の前の人は淡く光り輝いていて本当にきれいに見えた。今まで知っている何よりも。
そして、アドリーシャの身の回りにいる誰よりも、アドリーシャのことを考えようとしてくれている。
このときアドリーシャの胸に兆したのは、密やかな悲しみだった。
まるで自分のものではないみたいに心が揺れ動いていて、アドリーシャだけが置いてけぼりになっているようだった。
「アドリーシャ。どこか痛いのか?」
名を呼ばれたとき、胸の底が密やかに喜んだ。
次に沸き起こったのは、小さな欲だった。何かに突き動かされるように、心が思考に結びつくよりも速く、アドリーシャの唇はひとりでに囁いた。
「殿下のもとへ参ります」
その瞬間、アドリーシャの小さな身体の内側はもう引き返せないのだという恐れで満たされた。
「許しをありがとう。君を連れていくのに、抱きかかえても?」
「は、い……」
どうしよう。そう思いながらも頷き、差し出された手のひらにおずおずと手を預けたとき。
身体を貫くようにほとばしった光に当てられて、アドリーシャの意識は透明な鋏の先に引っかけられた糸のように、ふっつりと途絶えたのだった。
俺はこの年まで、果実を口にすることなく生き存えていた。とうに生まれ持った力と心中する覚悟はできている」
苦々しくも力強く吐き出されたことばに、アドリーシャは悟った。
(……この方は、果実が見つかって欲しくなかったのだわ)
不可思議なことに、アドリーシャの内側には、ことりと錘を落としたような得心があった。目の前のこの人が、自分にとって運命なのだという確信と自覚が。
眩しい光に覆われているイルディオスの身体は、色濃い疲弊を帯びていた。
青ざめた肌は彼の鋭さを帯びた美貌を引き立てていたが、目の下に湛えられた隈はひどく濃い。いままでどのように飢えを凌いできたのかは、よく絞られた身体を見れば想像がついた。
「矛盾して聞こえるだろうが、君を俺の屋敷に招き寄せたい。少なくとも、ここよりは快適な暮らしを約束する。それとも、このまま親元で過ごしたいだろうか。君はどうしたい?」
――お前のためを思ってのことですよ。もしここを出たら、あっという間に無体を働かれてしまうでしょう。わたくしは、仮初めにも自分の娘がそんな目に遭うのは嫌です。
地下室に閉じ込められた日に母はそう言って、一度もアドリーシャと目を合わせなかった。
(どうして? 私に非道な振る舞いをするはずの方が、一番私に親切に思える)
「私は貴方の果実なのでしょう? 本当に、私を食べないのですか?」
「信じられないだろうが、そうだ。何を伝えれば、君は安心する? ……ああ、そうだな。俺は妻帯していないが、好きな人はいるんだ」
目の前の人のことを一切知らないというのに、確かにアドリーシャの胸はつきりと痛んだ。
「……いずれ娶られる奥方に蔑まれるのであれば、行きたくありません」
果実には過ぎた我が儘を口にしたのに、イルディオスは小さく笑んだ。そうすると、冴えた美貌が緩んで人間らしいあたたかみが滲む。
「到底叶いようもない恋だから、婚姻を結ぶこともないだろう。安心してくれていい」
そのとき、アドリーシャの目の端からこぼれ出たものがある。
理由の分からぬ涙にアドリーシャが瞬くと、イルディオスは慌ててハンカチを取り出して頬に押しあててくれる。どうすればいいか頭ではわかっていても慣れていないとわかる、無骨な手つきだった。
涙で滲んだ瞳で見つめると、目の前の人は淡く光り輝いていて本当にきれいに見えた。今まで知っている何よりも。
そして、アドリーシャの身の回りにいる誰よりも、アドリーシャのことを考えようとしてくれている。
このときアドリーシャの胸に兆したのは、密やかな悲しみだった。
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「は、い……」
どうしよう。そう思いながらも頷き、差し出された手のひらにおずおずと手を預けたとき。
身体を貫くようにほとばしった光に当てられて、アドリーシャの意識は透明な鋏の先に引っかけられた糸のように、ふっつりと途絶えたのだった。
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