「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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地下室に射した光 1

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 いつしか微睡まどろんでいたアドリーシャの温い眠りは、まだ冬の名残をたたえて冷たい夜の気配に妨げられた。

「……お腹が空いたわ。生きている証ね」

 そう呟くと、アドリーシャは小さく笑んだ。
 もし鏡があったなら、自分の笑みがぎこちないのが彼女にも分かっただろう。ほかに誰かがいたならば、彼女の舌がうまく回り切っていないことに気づいただろう。生憎、誰もいなかった。

 最低限の食事しか与えられていないせいで、アドリーシャはいつも空腹で、身体は常に倦怠感と微熱を帯びている。物を食べれば、嘔吐えずきもした。アドリーシャが吐いたと報告されて喜ぶ母の歓心を買うために、乳母子はしばしば甘いお茶菓子をくすねてくることさえあった。

 火を熾そうと思っても、アドリーシャの身体はなかなか動いてくれないでいる。
 仕方なく、アドリーシャは寝台に横になって、ただ細く息をしていた。

 それからいったい、どれくらい経っただろう。
 遠くの方で、耳慣れない物音がしたのにアドリーシャは瞼を震わせる。明らかに乳母子の帰りを報せる音よりも重たくて、金属音が混じった音が近づいてくる。
 地下室の暮らしには縁のない音の連なりを訝しんだアドリーシャは、重い身体を動かした。
 荒く息を乱した彼女がようやくのことで身を起こしたのと、扉が勢いよく開け放たれたのはほとんど同時だった。

「ああ、いましたよ! 弟神様の眠りを覚ました甲斐があったというものですね」

 突如として薄暗い地下室に響いた声の朗らかさに、アドリーシャは驚いた。
 あっと思うよりも早くに灯りが入れられて、細く長い人影が近づいてくる。
 顔が見えるよりも先に届いたのは、懐かしくもゆかしい薫香くんこうの香りだ。そんなはずもないのに、アドリーシャはいつもこの香りを漂わせていた父が迎えに来てくれたのではないかと勘違いしてしまいそうになる。

「……おやおや。無理もないとは言え、ひどいことをするものですねえ」

 アドリーシャの顔を覗き込んだのは、まだ年若い祭司官だった。
 ランプの灯りに照らされた祭司服の色は、最高位の次席にしか許されていない禁色である。アドリーシャをしげしげと眺める祭司官の細い目は、哀れみを浮かべて隠さない。

「貴族の娘としては不運ですが、果実としてのあなたは実にです。あなたを食べるのは、この国でもまったき血を引く御方ですよ。喜びなさい」

 にこりと笑んだ祭司官は、祭司服の袖を揺らして手を掲げる。祭司官から溢れ出た神力がひりりとアドリーシャの頬をくすぐった。

「弟神様の神託を賜った祭司官が、この場で宣言いたします。ヒュミラ伯爵家が一女アドリーシャ、彼女こそが神託によって示された王弟殿下の果実です!」

 祭司官特有の、艶やかに磨かれた楽器のように鳴った声に満ちた神力が、否応なしに畏れを抱かせる。高らかに宣言し終えた祭司官は、ああよかったとくり返し呟いて背後を振り向いた。

「王弟殿下。貴方様のために弟神がお授けになった果実を、どうぞ大切になさってください。
 収穫の場に立ち会う無粋はいたしませんが、ここで召し上がるのはお勧めしません。あまりに痩せ過ぎですし、休息と食事が必要な状態です。果実の教育については追って人を遣りましょう」

 祭司官が長い裾を翻した瞬間、アドリーシャは目の前に広がった眩さに撃たれた。手のひらで作ったささやかな影に隠れようとしたが、よろめいた身体が冷えた絨毯の上にくずおれる。

 静かに近づいてくる足音に、アドリーシャはそろそろと視線を向けた。
 ゆらゆらと揺らめきながら何色とも言い難い色彩を放つ眩さに目を凝らしていると、次第に光の中に人の輪郭が滲みだす。

 光はアドリーシャの目の前にやってくると、かすかにため息を落とした。
 それで、アドリーシャは光の主がまだ若い男性であることを知った。
 光がたわみながら低くなったと思ったら、ふわりと光が散じる。光の粒を纏いながら露わになったのは、床に膝をついた青年だった。

 まず目を惹いたのは、淡く輝く銀の髪だ。次いで、こちらを見つめる切れ長の瞳と視線が合わさる。夏の影が落ちたごとくに深い緑の瞳には、銀の星が散っている。光の粒をはらんだ瞳の目映さを際立たせているのは、目の下に滲んだ濃い影だ。すんなりと通った高い鼻梁と薄い唇の形の良さが、整った面立ちに冴え冴えと浮かぶ月のような鋭さを添えている。

 青年は、内側からうっすらと輝きを帯びていた。まるで、月の光から生まれ出た虹のように。

「俺はイルディアスという。このヴァルダノを統べる王を兄に持ち、人の身にそぐわぬ力を授かって生まれ落ちた」

 感情を抑制することに慣れた、静かな声だった。
 銀の星を湛えた瞳が、アドリーシャを見つめている。その瞳の奥にあるはずの意思はよく磨かれた輝石のように硬質で、この暗がりではよく見通せない。

 我に返ったアドリーシャは、よろめきながら王族に対する礼を取る。顎を引いて目を伏せる一瞬前、視界の隅に固く握りこまれた拳が見えた。

「王弟殿下にお目にかかります。ヒュミラ伯爵家が一女、アドリーシャと申します」

 顔を上げて楽な体勢を取るよう促されて、アドリーシャは静かに従った。

「どうやら、君は俺の果実らしい。君と俺の意思のほかでそう運命づけられている。理解できるだろうか?」
「はい、殿下」

 すぐそこにある瞳は、アドリーシャの痩せ細った身体を見て、苦しそうに細められる。

「アドリーシャ。君の意思を無視して無体を働かないと誓おう。俺は君を果実として食べることはしない」

 驚きに、乾いた喉がひゅっと音を立てた。

 アドリーシャの記憶が正しければ、ヴァルダノの王弟は今年二十五である。
 力ある者が果実を食べないまま無事に過ごせるのはせいぜい二十を超えた頃までと聞くから、イルディオスは相当無理をしているはずだ。

 だのに、イルディオスはごく当然のようにアドリーシャを食べないと言う。

 遠くの方で、なぜ? と心が呟いた。そう思ったら、口にしていたらしい。
 イルディオスは、静かに唇を歪ませた。それは、皮肉と自嘲の表情だった。

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