2 / 40
運命の生まれた日 2
しおりを挟む
(お母様にとって、私はもう、淫らでふしだらな娘でしかない)
アドリーシャは瞼を伏せて、繊細に彩色された弟神の翼を指でたどった。
兄神と弟神は、それぞれ右肩と左肩に翼を生やしていたと伝えられる。弟神の翼はかつて澄んだ月光で編んだような色をしていたが、兄神の血を吸って深く暗い夜の色へと変じたという。
アドリーシャが生まれたヒュミラ伯爵家は、この百年の間に祭司長を幾度も輩出してきた家門である。
ここ数代でも随一の敬虔さで知られるヒュミラ伯爵夫人は、高位の祭司官を婿に迎えて三人の子を産んだ。兄弟の真ん中にあたるアドリーシャは、その早熟な賢さで母のお気に入りだった。
――良い子ね、アドリーシャ。貴女は賢く敬虔な娘。
かつて、母はそう言って柔らかい手で彼女の髪を撫でてくれた。
以前のアドリーシャにとって、母の温かい膝に頭を預けているときが最も幸せなひとときだった。いわゆる親らしい優しさが、そう頻繁に振る舞われるものではなかったせいもある。
ヒュミラ伯爵夫人は、アドリーシャが十を迎えた時に、愛する夫に願い事をした。
――わたくしたちの賢い娘の幸いを早く知りたいの。あんなに敬虔な子だもの、きっと強い子を産むわ。
還俗して祭司官としての神力を失ったヒュミラ伯爵は、愛する妻の願いを受けてかつての部下である祭司官を屋敷に招いた。貴族の間ではままあることであったし、祭司官もヒュミラ伯爵の早熟な長女の評判は聞き知っていたので、快く応じた。
誰一人として、将来を嘱望されたヒュミラ伯爵家の長女が、貴族には現れないはずの果実であるとは思ってもみなかった。
ヒュミラ伯爵はかつての部下に三度アドリーシャを検めさせたが、結果が変わることはなかった。
ヒュミラ伯爵家には箝口令が敷かれるとともに、社交界にはアドリーシャが病に伏せったという噂が振り撒かれ、彼女を視た祭司官は神殿へ戻る最中で命を落とすことが決められた。
アドリーシャは一夜にして生家の恥となったが、彼女を食べる男の家門へ大きな貸しを作れる存在でもあったから、すぐに殺されることはなかった。
アドリーシャは、静かに本を閉じた。
いつしか日は高くなり、あと数刻もすれば日も暮れて夜の冷たさが忍び寄る。
アドリーシャは、自分が幼さに見合わない程度に賢いのは不幸だと考えていた。
与えられた教育と知識が、このままの暮らしを続けていればいずれ痩せ細って死ぬだろうことを教える。
そうなる前に、誰かがアドリーシャを見つけてくれるだろうか。
――それで? 身体を曝かれて、その先は?
幾度くり返したかわからない問いを自らに投げかけて、アドリーシャは目を瞑る。
それは、未だ純潔のアドリーシャがなぜ淫乱と呼ばれるのかわからないのと同じくらい、答えのない問いだった。
アドリーシャは瞼を伏せて、繊細に彩色された弟神の翼を指でたどった。
兄神と弟神は、それぞれ右肩と左肩に翼を生やしていたと伝えられる。弟神の翼はかつて澄んだ月光で編んだような色をしていたが、兄神の血を吸って深く暗い夜の色へと変じたという。
アドリーシャが生まれたヒュミラ伯爵家は、この百年の間に祭司長を幾度も輩出してきた家門である。
ここ数代でも随一の敬虔さで知られるヒュミラ伯爵夫人は、高位の祭司官を婿に迎えて三人の子を産んだ。兄弟の真ん中にあたるアドリーシャは、その早熟な賢さで母のお気に入りだった。
――良い子ね、アドリーシャ。貴女は賢く敬虔な娘。
かつて、母はそう言って柔らかい手で彼女の髪を撫でてくれた。
以前のアドリーシャにとって、母の温かい膝に頭を預けているときが最も幸せなひとときだった。いわゆる親らしい優しさが、そう頻繁に振る舞われるものではなかったせいもある。
ヒュミラ伯爵夫人は、アドリーシャが十を迎えた時に、愛する夫に願い事をした。
――わたくしたちの賢い娘の幸いを早く知りたいの。あんなに敬虔な子だもの、きっと強い子を産むわ。
還俗して祭司官としての神力を失ったヒュミラ伯爵は、愛する妻の願いを受けてかつての部下である祭司官を屋敷に招いた。貴族の間ではままあることであったし、祭司官もヒュミラ伯爵の早熟な長女の評判は聞き知っていたので、快く応じた。
誰一人として、将来を嘱望されたヒュミラ伯爵家の長女が、貴族には現れないはずの果実であるとは思ってもみなかった。
ヒュミラ伯爵はかつての部下に三度アドリーシャを検めさせたが、結果が変わることはなかった。
ヒュミラ伯爵家には箝口令が敷かれるとともに、社交界にはアドリーシャが病に伏せったという噂が振り撒かれ、彼女を視た祭司官は神殿へ戻る最中で命を落とすことが決められた。
アドリーシャは一夜にして生家の恥となったが、彼女を食べる男の家門へ大きな貸しを作れる存在でもあったから、すぐに殺されることはなかった。
アドリーシャは、静かに本を閉じた。
いつしか日は高くなり、あと数刻もすれば日も暮れて夜の冷たさが忍び寄る。
アドリーシャは、自分が幼さに見合わない程度に賢いのは不幸だと考えていた。
与えられた教育と知識が、このままの暮らしを続けていればいずれ痩せ細って死ぬだろうことを教える。
そうなる前に、誰かがアドリーシャを見つけてくれるだろうか。
――それで? 身体を曝かれて、その先は?
幾度くり返したかわからない問いを自らに投げかけて、アドリーシャは目を瞑る。
それは、未だ純潔のアドリーシャがなぜ淫乱と呼ばれるのかわからないのと同じくらい、答えのない問いだった。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
すべてフィクションです。読んでくだり感謝いたします。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
六畳二間のシンデレラ
如月芳美
恋愛
8ケタの借金を残したまま、突然事故死した両親。
学校は? 家賃は? 生活費は? 借金の返済は?
何もかもがわからなくてパニックになっているところに颯爽と現れた、如何にも貧弱な眼鏡男子。
どうやらうちの学校の先輩らしいんだけど、なんだか頭の回転速度が尋常じゃない!
助けられているのか振り回されているのか、あたしにも判断不能。
あたしの生活はどうなってしまうんだろう?
お父さん、お母さん。あたし、このちょっと変な男子に任せていいんですか?
※まだ成人の年齢が18歳に引き下げられる前のお話なので、現在と少々異なる部分があります。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる