「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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運命の生まれた日 1

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 ――もし本当に、運命というものがあるのなら。
 暗い地下室に眩いあの眩い光が差し込んだとき、アドリーシャのそれは決まったのだ。

 その日は、奇しくもこの国を創った弟神が兄神の伴侶を殺したと伝わる日のことだった。

 わざと音を立てて近づいてくる靴音を聞いたとき、アドリーシャの意識はまだぬかるんだ夢の中にあった。
 勢いよく上掛けを引き剥がされて見上げた先には、見慣れた乳母子めのとごの顔がある。

「おはようございます、お嬢様。お目覚めになったなら、さっさと寝台から降りてくださいよ」

 乳母子は鼻を鳴らすと、そばかす顔を歪めて代わり映えのしない諫めごとを言った。

「お嬢様は恵まれておいでなのですよ。ヒュミラ伯爵家のご温情を、よくよく理解なさるべきです。お嬢様のような淫乱ではしたない娘を守ってくださっているのですから」

 ――
 およそ貴族の娘が使用人から投げかけられるのにふさわしくない言葉だが、アドリーシャはいつも小さく頷くのみだった。

 三年前、アドリーシャがこの地下室に閉じ込められたとき、「ああ、なんてお可哀想なお嬢様!」と嘆いた娘はもうどこにもいない。環境はやすやすと人を変えてしまうもので、乳母子は不遇を招いた主を軽んじるようになった。

 乳母子は顔を洗うための水を用意してくれるが、どんと置かれた陶製のボウルから水がこぼれても見向きすらしない。乳母子はアドリーシャが顔を洗うと奪うように寝衣を脱がせて、きつくコルセットを締め上げた。

「いい子にしといてくださいよ。あとでお嬢様のお好きな本を持ってきてさしあげますから!」

 食事を置くと、乳母後は足音荒く踵を返した。
 不遇をかこつ己を憐れむ乳母子は、アドリーシャの世話係を脱しようと必死だ。
 乳母子は何かと理由をつけて一日のほとんどを本館で過ごすが、その努力は三年経っても実らないままである。

 地下室で過ごす日々は、判を押したように代わり映えがしない。
 変化があったとすれば、半年前にアドリーシャが初潮を迎えたことだろう。その日から、アドリーシャに与えられる食事の量は減らされた。おかげで、もう数ヶ月ほどアドリーシャの身体は足の間から血を流さないまま生きている。

 アドリーシャは、膝の上に載せた本をめくる。
 国で一番敬虔な家門として知られたヒュミラ伯爵家は、芸術支援の一貫で数年置きに神話にまつわる本を創らせていた。昨年作られたばかりのその本は、気鋭の銅版画家と吟遊詩人が共同で取り組んだ一冊である。

 この本が最初に語るのは、この国の成り立ちを教える神話だ。

 ――父たる弟神の眠りを守る天蓋、祈りと祝福の地ヴァルダノは、睦まじいことで知られた兄弟神の間に生じた亀裂から誕生した国である。

 大地に産み落とされてより、互いを互いの半身として愛し慈しんできた兄弟神の結びつきを乱したのは、小さくも鮮やかに芽吹いた恋だった。

 弟神は、己が半身である兄神が恋に落ちたと知って、初めはからかい、躊躇う兄神の背を押してやりさえした。けれども次第に、愛する兄神のまなざしが自分から逸らされたことに焦燥を覚えはじめる。

 弟神の苛立ちを知らぬ兄神は手にした花を慈しみ、初めての恋に溺れた。
 兄神が恋した娘を伴侶とし、弟神がただ人に過ぎない娘を憎むようになったのは、ごく当然の流れであった。

 弟神の身の内で燃えた憎悪は目映く燃えさかり、かと思えば暗くこごった。
 そうして、弟神はとうとうその伴侶――兄神が「私の果実」と呼んで可愛がった娘をひと思いに殺してしまうのだ。

 弟神は期待した。これで兄上の瞳は私を見てくださる、と。
 しかし、伴侶の亡骸の傍で泣き伏す兄神のまなざしが、弟神を以前のように愛することはなかった。

 ――我が弟よ。可愛そうに、お前は愛を知らぬのだ。

 愛を求めた弟神に兄神が示したのは、悲しみの滲んだ慈しみの情だった。

 欲した愛が手に入らないことに失望した弟神は、迸る激情のままに兄神の胸を光の翼で刺し貫いた。
 兄神を弑した弟神は、愛した兄神の身体を引き裂いて、泣きながらまだ温かい血肉を食べた。
 弟神の呻きが息吹となって土地と森を生み、目尻から流れた血の涙は忠実なしもべたちとなった。弟神はしもべに兄神の血肉を分け与えて国を守るように言いつけると、しばしの眠りについた。

 一番目のしもべは生まれたての国の王となり、弟神の眠りを守る天蓋の名を国の名に冠した。
 分け与えられた兄神の血肉を口にしたしもべたちには、その他大勢のただびとにはない、不可思議な力が備わっていた。
 しもべたちの身体に溶けた兄神の血は、国を守り育てるのに有用だった。ある者は雨を降らせ、ある者は日差しを操り、ある者は天翔る稲妻となって反逆者を喰らった。

 しかし、しもべたちが弟神の祝福と呼んだ不可思議な力は、系図が連なるにつれて思いもよらぬ出来事を招くようになる。

 最初のしもべたちの血を継いだヴァルダノの貴族の男は、大なり小なり生まれつき神世の名残を受けた力を発現した。
 中でも、とりわけ強い力を授かった者は、力ある者と呼ばれた。
 力ある者たちには、人と神の狭間で生きる存在として特権が与えられたが、一方で、人の身に過ぎた力は祝福だけでなくわざわいをも伴った。
 生まれ持った力が強大であればあるほど、力ある者たちは神を喰らった血の祝福と肉体の器がぶつかった挙げ句、幻覚や幻痛に苛まれ、あるいは狂疾きょうしつに陥った。

 しもべたちの子孫は、力ある者が強すぎる力に振り回されて海を干してしまったとき、眠る弟神に伺いを立てた。この暴れ者を一体どうすればよいのでしょう、と。

 眠りから揺り起こされた弟神は、暴れ者と呼ばれた男が人ならぬ力を持っていると悟ると、忌々しげにこう嘯いたと伝わる。

「我が兄上は血潮となっても尚、己が果実を欲するか。
 なるほど、然程に果実との姦淫は甘やかなのだろうよ。我が兄上の執心に、我も応えよう。力ある半端者には、果実をくれてやろうではないか。人と神の狭間にある者には、たった一人の果実を探し出してやれ。どこに生まれるかは知らぬが、多少の差こそあれ同じ時に対となる果実を実らせてやる」

 時の王は、自身の息子である暴れ者の果実となる娘を探しだした。
 王の末息子であった暴れ者には既に伴侶も子供もいたが、彼にとって果実は特別な意味を持つ存在だった。兄神にとって、伴侶が生半なまなかならぬ存在であったように。

 果実を傍に置けば、国には平穏が訪れた。果実にくちづければ、暴れ者は優秀な世継ぎとなった。果実が伽をすれば、暴れ者は暴れ者ではなくなった。暴れ者が国を守るために力を振るうとき、果実をその力が尽きることはなくなった。

 以来、力ある者には果実と呼ばれる娘が宛がわれてきた。
 中央神殿には果実を探して育て上げる籠が編まれ、力ある者と対になる娘が探し出されてはその中に入れられて、よくよく躾けられながら飼われることとなる。

 ただし、弟神はあくまで神であったから、人の寿命が短いことにまで考えが及ばなかった。
 力ある者と対になる果実が、必ずしもちょうど良い頃合いに現れるという保証はなかったのである。不運なことに、早くて数年、遅くて十数年の隔てを経て自分のために生まれた果実と出会う前に、力を暴走させて死に至る者も少なくなかった。

 そのため、ヴァルダノに生を受けた貴族の男子には、十二の年を迎えた春に神殿に向かう習わしが生まれた。
 兄神の血がもたらす力が発現する年に神殿に詣でて、生まれ持った力の大小を判じられる。もし力が一定以上発現していれば力を伸ばす教育を施され、自分のための果実が実ることを願いながら過ごすきまりだった。

 時が下り、貴族の娘も同じように神殿に詣でるようになったが、それはあくまでおまけだった。
 たとえ兄神の血を濃く引いていたとしても、まるで透明な指先に選り抜かれたように、娘の中に力が根付くことはなかった。その代わり、神力の濃い娘には強大な力を持つ男子を孕む胎としての役割が担わされることとなる。

 果実となる娘は、兄神の血肉を受け継いでいない庶民の間からしか現れなかった。
 神殿は、この法則は弟神が初代の果実へ向けた妬心や蔑みの念に端を発するものと考えた。

 そうした推測と貴族としての体面から、力ある者は自分の果実を正式な伴侶として迎えることはなかった。時代が下るにつれて、果実は貴族にとって、有用性は認められながらも娼婦や側女とほとんど同義の存在になっていったのである。

 ……だから、アドリーシャが家族から疎まれるようになったのも自然ななりゆきだった。

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