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偽りの姫は戦勝国に嫁がされる 2
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「リリーシャ姫。もうご出発の時間です」
静かな声に促されて、リリーシャは庭園を眺めたまま頷いた。
リリーシャを姫と呼ぶのは、これから向かう異国の住人だけだ。ガネージュにおいて、リリーシャは王族のように遇されながらも決して姫と呼ばれることはなかった。
いまリリーシャの視線の先にある庭園は、あの懐かしい春の日とは異なり静かに降る雨に包まれていた。
戦の間手入れを怠られた庭園はところどころ荒れていて、思い出の中のように眩いままではない。リリーシャは、微かに息をつく。
つと顔を前へと戻しながらも頑なに隣を見ないでいるリリーシャに誰もが気づいていたが、表立って注意する人はいなかった。
皮肉なことに、リリーシャはいま、かつて母が王様に嫁いだ日に纏っていた白いドレスを身につけていた。
随分数の減った女官たちが仕立て直してくれたそれは、戦に疲弊したガネージュが用意できる精一杯の婚礼衣装だった。
こんなの、リリーシャ様がお可哀想です。リリーシャに親切にしてくれた数少ない女官の一人は、そう言って歯がみした。精霊の祝福もヴェールもない婚礼衣装だなんて、と。
いよいよ国を離れるのだという実感が押し寄せて、リリーシャは唇を噛む。
どんなに泣こうと思っても涙は出て来なかったはずなのに、今更こみ上げてくるなんてと自嘲しながら。
リリーシャにとって何より輝かしい太陽であった母も、そんな母を手に入れるために必死に時を費やした王様も、もういない。戦の責を取って、ふたり仲良く自死したからだ。
王様と母は、最期まで仲睦まじく、互いしか見ていなかった。慰み者にされるのを危惧してか、リリーシャもふたりから自死を促されたが、王子様は決して許さなかった。死にたいのなら勝手に死ねばいい。娘を巻き込むなと血を吐くような声で言われても、ふたりは優しく笑っていた。
数歩進み出たリリーシャは、王子様の――兄と慕うガネージュの王太子の後ろについた重臣たちが別れの挨拶もないのかと声をあげたのに振り向いた。
王太子から冷ややかな一瞥を受けた重臣へ向けて、リリーシャは微笑んで優美な仕種で礼を一つした。王族に準じた扱いを受けながらもまったき王族ではないリリーシャが身につけた処世術の一つである美しい所作は、その場に居合わせた人々の口を柔らかに閉ざさせた。
そう。優れた所作は口さがない人の発言を封じると教えてくれたのも、リリーシャの王子様だった。
お兄様はいつも正しい。リリーシャは内心でぽつりとそう呟く。
ようやくきちんと見つめた先で、王太子のリガードは喪に服しながらも婚礼に旅立つ「妹」を見送るに相応しい正装に身を包んでいた。こうして顔を合わせるのは、久しぶりだった。
リリーシャは、リガードの目に映る自分が美しいことを知っている。
母に似たリリーシャは十六になり、美しい娘に育った。戦で疲弊した国庫の負担を減らすために食事を減らしたその身体は細かったが、それでも尚盛りを迎えたみずみずしさは失われていなかった。淡く光を受ける銀の髪、大きな瞳は深い青、青ざめた肌すら装飾品のようだった。
見つめられているだけ、リリーシャも王太子を見つめ返していた。
リガードは、あの優しい静かな目でリリーシャを撫でていた。愛おしいと思われていることがよくわかるまなざしだ。いつもそうやって優しく見つめてくれる、落ち着いた一対の瞳が好きだった。柔らかな茶の瞳、落ち着いた笑みを結ぶ薄い唇。後ろで一つに結わえた漆黒の髪。少しだけ削げた頬。輿入れが決まってから面会を拒んでいた間に、リガードもまた痩せていた。
リリーシャは、リガードの顔立ちを胸に刻むように見つめた。
そんなリリーシャの静かな表情や瞳は、見る者に彼女がこれまで懸命に秘めていた想いをまざまざと伝えた。ずっとずっと隠していたというのに、リリーシャはいま何も隠し立てしてはいなかった。彼女の静謐で悲しい瞳は、リガードを愛しているのだと告げていた。
それでも、リリーシャの小さな唇から漏れたのは愛の告白ではなかった。
「お兄様。私は、これからもずっとお兄様の妹だと思っていてもいいですか?」
「もちろんだとも。リリーシャ、君の幸せを願っている」
リリーシャは微笑んだ。それは年頃になったリリーシャが身につけた、やわらかで貴婦人然とした笑みだった。そうして至極優美な所作で腰を折り、一礼する。
「お兄様、ごきげんよう。いままで血の繋がらない私を妹のように遇してくださって、感謝しています。
十年にわたるご恩を、この身をもってお返しいたします」
リリーシャは、王太子としての体面を保ちながらも兄の心が傷ついたことがわかった。兄ならばそうだろうと分かっていて言ったのだ。
殊更美しい笑みを浮かべたリリーシャは、つと身を翻した。
そうして、二度と後ろを振り返ることなくガネージュの城を後にしたのだった。
静かな声に促されて、リリーシャは庭園を眺めたまま頷いた。
リリーシャを姫と呼ぶのは、これから向かう異国の住人だけだ。ガネージュにおいて、リリーシャは王族のように遇されながらも決して姫と呼ばれることはなかった。
いまリリーシャの視線の先にある庭園は、あの懐かしい春の日とは異なり静かに降る雨に包まれていた。
戦の間手入れを怠られた庭園はところどころ荒れていて、思い出の中のように眩いままではない。リリーシャは、微かに息をつく。
つと顔を前へと戻しながらも頑なに隣を見ないでいるリリーシャに誰もが気づいていたが、表立って注意する人はいなかった。
皮肉なことに、リリーシャはいま、かつて母が王様に嫁いだ日に纏っていた白いドレスを身につけていた。
随分数の減った女官たちが仕立て直してくれたそれは、戦に疲弊したガネージュが用意できる精一杯の婚礼衣装だった。
こんなの、リリーシャ様がお可哀想です。リリーシャに親切にしてくれた数少ない女官の一人は、そう言って歯がみした。精霊の祝福もヴェールもない婚礼衣装だなんて、と。
いよいよ国を離れるのだという実感が押し寄せて、リリーシャは唇を噛む。
どんなに泣こうと思っても涙は出て来なかったはずなのに、今更こみ上げてくるなんてと自嘲しながら。
リリーシャにとって何より輝かしい太陽であった母も、そんな母を手に入れるために必死に時を費やした王様も、もういない。戦の責を取って、ふたり仲良く自死したからだ。
王様と母は、最期まで仲睦まじく、互いしか見ていなかった。慰み者にされるのを危惧してか、リリーシャもふたりから自死を促されたが、王子様は決して許さなかった。死にたいのなら勝手に死ねばいい。娘を巻き込むなと血を吐くような声で言われても、ふたりは優しく笑っていた。
数歩進み出たリリーシャは、王子様の――兄と慕うガネージュの王太子の後ろについた重臣たちが別れの挨拶もないのかと声をあげたのに振り向いた。
王太子から冷ややかな一瞥を受けた重臣へ向けて、リリーシャは微笑んで優美な仕種で礼を一つした。王族に準じた扱いを受けながらもまったき王族ではないリリーシャが身につけた処世術の一つである美しい所作は、その場に居合わせた人々の口を柔らかに閉ざさせた。
そう。優れた所作は口さがない人の発言を封じると教えてくれたのも、リリーシャの王子様だった。
お兄様はいつも正しい。リリーシャは内心でぽつりとそう呟く。
ようやくきちんと見つめた先で、王太子のリガードは喪に服しながらも婚礼に旅立つ「妹」を見送るに相応しい正装に身を包んでいた。こうして顔を合わせるのは、久しぶりだった。
リリーシャは、リガードの目に映る自分が美しいことを知っている。
母に似たリリーシャは十六になり、美しい娘に育った。戦で疲弊した国庫の負担を減らすために食事を減らしたその身体は細かったが、それでも尚盛りを迎えたみずみずしさは失われていなかった。淡く光を受ける銀の髪、大きな瞳は深い青、青ざめた肌すら装飾品のようだった。
見つめられているだけ、リリーシャも王太子を見つめ返していた。
リガードは、あの優しい静かな目でリリーシャを撫でていた。愛おしいと思われていることがよくわかるまなざしだ。いつもそうやって優しく見つめてくれる、落ち着いた一対の瞳が好きだった。柔らかな茶の瞳、落ち着いた笑みを結ぶ薄い唇。後ろで一つに結わえた漆黒の髪。少しだけ削げた頬。輿入れが決まってから面会を拒んでいた間に、リガードもまた痩せていた。
リリーシャは、リガードの顔立ちを胸に刻むように見つめた。
そんなリリーシャの静かな表情や瞳は、見る者に彼女がこれまで懸命に秘めていた想いをまざまざと伝えた。ずっとずっと隠していたというのに、リリーシャはいま何も隠し立てしてはいなかった。彼女の静謐で悲しい瞳は、リガードを愛しているのだと告げていた。
それでも、リリーシャの小さな唇から漏れたのは愛の告白ではなかった。
「お兄様。私は、これからもずっとお兄様の妹だと思っていてもいいですか?」
「もちろんだとも。リリーシャ、君の幸せを願っている」
リリーシャは微笑んだ。それは年頃になったリリーシャが身につけた、やわらかで貴婦人然とした笑みだった。そうして至極優美な所作で腰を折り、一礼する。
「お兄様、ごきげんよう。いままで血の繋がらない私を妹のように遇してくださって、感謝しています。
十年にわたるご恩を、この身をもってお返しいたします」
リリーシャは、王太子としての体面を保ちながらも兄の心が傷ついたことがわかった。兄ならばそうだろうと分かっていて言ったのだ。
殊更美しい笑みを浮かべたリリーシャは、つと身を翻した。
そうして、二度と後ろを振り返ることなくガネージュの城を後にしたのだった。
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