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思わぬ告白

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 週明けの商家は忙しい。
 店先が賑わうのは週末だけれど、経理が忙しいのはその翌日だ。この週末に売れた品の補充や発注にと忙しない中、奥の事務所で経理は目を凝らして帳簿つけに明け暮れる。

 おじさまが紹介してくれた勤め先はヘルヴェスでも指折りの商家で、取り扱うお金の桁数も多い。
 帳簿の管理も厳格で、会計実務は日々整備されていき、帳簿は二重三重に目を通すきまりとなっている。帳簿の確認には計算だけではなく、貴族の家門を覚えることや商品別の税率、在庫管理のきまりや流行を学ぶ必要があり、商家の奥は日々学びの連続だった。

 週末分の仕事を終えた頃には昼を過ぎていて、頭がじんわりと疲れていた。
 断りを入れて席を立ち、裏庭に回って持参した昼食を取る。今朝テオと一緒に作ったサンドウィッチには、低温で火を通した鶏肉が挟んであっておいしい。

 今日はおじさまの家に行く予定になっていたから、いつもより早めに仕事を終わらせるつもりでいないと、残業してしまうかもしれない。
 そう考えて早めに休憩を切り上げることにした私は、泣きながら廊下を駆け去って行く人とぶつかりそうになった。表のお仕着せである清潔なエプロンを着けたその人は、つい先頃働き始めたばかりの移民の一人だった。彼女はつと避けた私の頭のてっぺんから爪先まで眺めると、小さく睨むようにして去って行く。

「まったく強情なんだから!」
「ちゃんと働いてほしいものよね。これだから移民って嫌」

 廊下の角を曲がってきたのは、表で働く女性を指揮している二人だった。
 彼女たちは私の顔を見ると、あっと気まずげな顔をする。そうして、私が廊下の端にぴったり寄り添っているのを見て眉を立てた。

「セシル、もしかしてあの子にぶつかられたの?」
「いえ、きちんと避けてくれました」
「聞こえちゃったかしら。さっきのは、セシルのことを指して言ったわけじゃないのよ」
「セシルはよく働いているもの。むしろ、なんで奥にいるのかわからないくらい。セシルならすぐ人気になれるのに。旦那様からだって、表を勧められたでしょ?」

 この商家で働く若い娘は揃いのお仕着せを纏い、微笑みと会話で商品を売り込む。裕福な家や貴族とも取引の多い商家で働く彼女たちには、当然のごとく一定の器量が求められる。
 客から個人的にもらうチップはそのまま懐に入り、しばしば身分差を超えて妻に望まれることもあることから、表の仕事は王都の娘たちの人気を集めていた。

「上手に受け応えができる自信が持てないものですから。計算は落ち着いてできるんです」

 眉を下げて微笑むと、二人はしみじみともったいないわねえとため息した。

 別れ際に今日はちょっとお洒落してるのね、と言われたのは、いつもほとんど粧っていないと知っているからだろう。朝から何度もくり返している通り、後見人から夕食の招きを受けていると言うと、納得したような残念がるような頷きが返って来た。

 事務所に戻って帳簿を開きながら、私は泣いていた移民のことを考える。
 この商家で働く移民に、私を良く思わない人は多い。普通、移民には帳簿のような重要書類に触れる機会は訪れない。王家や貴族たちとも広く取引のあるこの商家では、奥向きの仕事ほど高給だ。何より、王立騎士団長直々の紹介で勤め始めた私の扱いは、どうしたって普通ではなかった。

 ヘルヴェスへ来てから、私は自分の見目が人の関心を惹きやすいことを知った。
 よく考えれば、お母様はお父様が成立しようとしていた婚約を邪魔してまで奪い去りたいと思ったほどの人だったのだ。髪と瞳の色こそお父様のものだったけれど、私は幼い頃から面差しがお母様に似ていると言われてきた。これが顔立ちも父譲りであったなら、お母様の関心は得られなかっただろう。

 次いで、移民の娘に不満を言っていた二人のことを思い出す。
 いま表で働く娘たちを取り仕切る彼女たちは、そう遠くないうちにいなくなる。艶やかな化粧で肌を整えた彼女たちは、みんな結婚と同時に仕事を辞めてどこかへ去って行く。

 街や市場で見かける働く女性は、みんな若いか、結婚しているかのどちらかだ。
 働き始めて間もないうちに、私は悟った。ずっと未婚のままで働き続けることは、ほとんど許されないのだと。

 だから今日みたいに少し凝った編み込みをして頬と唇に色を挿していると、しきりにどんな予定があるのかと聞かれもする。自ずと、外では目を伏せる癖がついていた。

「セシル、表に騎士様が迎えに来てるよ。旦那様が、残業しているなら早く引き上げるようにって」

 昼に言葉を交わした一人が事務所の扉を叩いたのは、ちょうど定時をわずかに過ぎたときのことだった。
 おじさまの家から招待を受けるときは、テオが迎えに来る習いだ。私は確認してもらった帳簿を鍵付きの棚にしまうと、退勤の挨拶をして彼女の後に付いていく。

「ねえ、セシルはあの坊ちゃんと好い仲なの?」

 少し親しくなると、得てして人は私を介してテオと親しくなろうとする。
 この商家で働くようになって、何度紹介を断ったかしれない。すぐに引いてもらえるだろうかと気がかりに思いながら、私は手土産の箱を抱え直した。

「迎えに来たのは、私の従兄でしょう?」

 ははあ。夕方でも何ら白粉の崩れていない頬に笑みを浮かべて、彼女は小さく声を立てた。

「違うよ。近衛騎士の坊ちゃん! 王立騎士団長の次男坊。今、旦那様がお相手してる」

 彼女の言葉は嘘ではなく、商家の主と談笑していたドミニクは私に気づくと、朗らかに微笑みかけてくる。近衛騎士の制服姿のドミニクはひどく目立っていて、私は内心ため息をこらえなければならなかった。


「なあ、それ手作りだろ?」
「あっ、もう……夕食前ですよ」  

 馬車に乗り込むと、ドミニクは私の手から奪い取った箱のリボンを躊躇いもなく解いた。
 まったくと思いながら、箱を取り返してリボンを結び直す。多めに持ってきてよかったと思っていると、ドミニクはあっという間にマフィンを半分ほど食べてしまう。

「うん、うまい。セシルはお菓子作りが上手いな」
「それは良かったです。テオと一緒に作りました」

 むしろ、テオの手を借りていない部分の方が少ない。そう告げると、ドミニクはからりと笑った。そういうことは黙っておけばいいんだよ、と。

「坊ちゃん、テオに何かありましたか?」
「いや。今日は、僕がセシルを迎えに行きたいと言って交代してもらったんだ」

 なぜと思ったのが伝わったのだろう、ドミニクは片眉を上げた。

「このところ、セシルと話せていなかっただろう。ほら、先頃のご不幸があって僕も忙しかったし」

 うっすらとした予感が忍び寄るのに、私は膝に抱いた箱を抱え直した。
 組んだ足に頬杖をついたドミニクは、昔と変わらないまっすぐな瞳で私を見つめてくる。

「なあ、坊ちゃんって呼ぶなよ。
 ……父さんから、テオの縁談の話を聞いたよ。父さんはセシルに縁談を支度するつもりでいたけど、待ってもらうことにした。セシルは今後、どうするんだ?」

(おじさまとドミニクの間では、既に私が身を引く前提で話が進んでいるんだわ)

 そうと悟って、私は苦く笑んだ。久しぶりに、お人形として扱われた気がした。
 同時に、それはそうだろうと理性が囁く。彼らにとって私たちは、元が貴族だっただけの移民だ。気さくに接してもらっていても、身分の差は歴然として横たわっている。

「なあ、セシルはどうして僕がこんな話をすると思う?」
「……わかりません」

 嘘だと囁いて、手袋をはめた手が箱の上に載せた私のそれに重ねられた。
 セシル、と名を呼ぶ声がして、ぴくりとも動くことができないでいる私を落ち着かせるように、ドミニクは微笑んだ。

「驚かせた? でも、僕がセシルのことが好きなのは知っていただろう? セシルは賢いから」

 ぎゅっと指先を握る手は微かに震えていて、ドミニクが少しと言わず緊張していることを知らせた。

 ……そう、私は知っていた。
 だって、ドミニクは自分の気持ちを隠そうとはしなかったから。

 テオの後ろばかり追いかけていたはずのドミニクは、森の中では私から奪うように彼に纏わりついていたのに、いつしか少しずつ私を視界に入れるようになった。

 それは、故国で従騎士として一通りの訓練を終えていたテオが王立騎士団で働きだしてからのことだったように思う。私は変わらずドミニクの妹の話し相手を務めていたけれど、日増しにドミニクから話しかけられるようになると、侍女や侍従たちから意味ありげに見つめられることが増えた。

 ――移民のくせに可愛がられてると思ったら、坊ちゃんに色目を使って。ちょっと綺麗に生まれたからって、いい気なもんよね。

 ――まあ、坊ちゃんのお気持ちもわからなくもない。俺たちが声を掛けても靡かなかったんだ、最初から坊ちゃん狙いだったんだろうさ。

 もともとテオとはいずれふたりで暮らそうという話をしていたし、使用人たちは騎士である彼の前では大人しかったから、そろそろ外で働きたいと言っても不思議がられなかったのは幸いだった。

 ただ、おばさまからは猛反対を受けた。おばさまは私を貴族の娘として扱ってくださっていたから、到底市井では働けないと考えたのだろう。
 やんわりとながらもくり返し理由を聞かれるうちに、おばさまの耳にも使用人の噂話が届いてしまった。おばさまにも思い当たる節があったらしく何度も謝ってくれ、使用人は指導するし、もしドミニクと恋仲になっても反対しないとまで言ってくださった。

 でも、私はその厚意に首を縦に振ることはできなかった。
 陰口がつらかったわけではない。城では、側妃や義兄たちからもっと直接的な意地悪をされていたのだ。私はただ、あのままお屋敷にいれば、なし崩しにドミニクの好意を受け入れざるを得なくなるだろうことが恐ろしかった。だって、身分差とはそういうものだから。

 ふっと思い出から醒めた私は、こちらを見つめる瞳の強さに肩を揺らした。

 近くにいたからたまたま目に入っただけで、距離を置けば自然と関心も薄れるだろう。それに、私は移民だから持参金も期待できない。おじさまの長男は騎士ではなく文官の道に進み、騎士の家門を継ぐのは次男であるドミニクだと目されていたから、そのうち縁談が調うはずだ……。

 そう思っていた私が軽率で、人の気持ちを軽んじすぎていたのかもしれない。ドミニクの表情は真剣で、彼が本気であることを教えた。

「僕なら、セシルにこんなことはさせない」

 清潔な手袋をはめた指が、私の指に巻かれた包帯をなぞる。
 こんなこと。唇の先でくり返した言葉に、うまく林檎の皮を剥けたときの喜びがひと息に褪せてゆくように思われた。

 次はどの果物で練習しましょうか、と微笑んだテオの横顔を思い出したのがわかったみたいに、ドミニクが囁いた。
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