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「ちょっと、やりすぎたかな」

 詩織がトマトクリームスープに口をつけた瞬間、淳士は慌ただしく席を立って店を出ていった。もちろん、お会計は忘れていない。けれども、マスター特製のカツサンドもBLTサンドも手がつけられていなかった。
 何が起こったか詩織は分からなかった。しかし、したり顔でマスターがそう言っていた。わけを聞いたが、にこにこと笑みを浮かべるだけで教えてくれない。

「僕もそろそろ、ちゃんとしないとね」
「ちゃんとって……」
「居心地がいいままでは、居られないってことかな」

 マスターの言葉を、心の中で繰り返す。
 まるで自分のことを言われているように錯覚してしまった。

「僕の話だよ。気にしないでね」

 パチン、とウインクで返されて詩織はもう何も言えなかった。

 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪


「すみません~ハンコお願いします~」

 次々と届く荷物に、詩織はハンコ片手に裏口で腕組みして待っていたい気持ちになっていた。明日に迫ったセールに備えて、毎日毎日商品が搬入されているからだ。
 仕入れリストとにらめっこをする毎日で、中々店に立つ時間を持てない。しかし、それでも詩織は時間を見つけては接客をするように心がけていた。
 店に立つと、初心に戻れる。
 驕るべからず。客のニーズに応えられるように。
 seventh colorsの名に恥じないように。
 毎日頑張ろうと思える。

 色々なスタッフが増え、店の雰囲気も変わった。ここの所、梨花の精神状態が安定しているためか、店全体の雰囲気がとても明るい。
 詩織はスタッフに安心して店を任せ、自分が裏方に徹する事ができていた。

 いいことだ。と思う反面、梨花がもしマスターと上手くいったら……と考える。店長としての詩織ではなく、一人の女としての詩織が語りかけてくる。
 仕事中はなるべく考えないようにしていたが、それでも時々顔を出して語りかけてくる。

 マスターの気遣いで暖まった体が一気に冷え切ってしまいそうだ。

 ――そうなったら、私はどうなるんだろ。

 思いを告げることも出来ず、幸せそうな二人を見つめながら生きていく。
 考えるだけで、ゾッとしてしまう。
 けれども、梨花の態度が真っ当になるのならば……と店長としての自分が語りかけてくる。
 改めて自分は難しい立場にいると理解した。詩織は、たくさんの靴に埋もれて、大きなため息をついた。

 ――こんな時は。

 今しがた届いた荷物を一旦バックヤードに押し込む。そして、足早に倉庫へ向かう。

 ずらりと並んだカラフルな箱たちには目もくれず、一直線に目的地へ向かう。埃っぽいカーテンを開けて、奥にある赤い箱を取り出した。
 薄葉紙をそっとめくると、待ち焦がれた靴と対面する。薄暗い倉庫ではシルバーピンクの輝きはぼんやりとしていた。けれども、日の下でこの靴を履いて歩いたらどんなふうに輝くのだろう。

 詩織はそれを想像する。軽やかな音を立てるであろうヒールと、パンプスの輝きは、きっと詩織の落ち込んだ気持ちを拾い上げてくれるだろう。

 そして、そのまま、マスターの所へ行って……。

 そこまで想像して、マスターとの未来を考えようとした。

 けれども、隣にいるのはいつだって詩織ではない誰かだ。

 ――だめだ。どうしたって後ろ向きになってしまう。

 大切にしてきたはずの箱を、詩織はいささかぞんざいな手つきでしめる。

「あっ……」

 大切に思っていた存在への酷い扱いに、急に罪悪感が湧いてくる。

 ――ごめんなさい。

 謝罪を胸に、優しい手触りの赤い箱をそっと撫でた。

「この靴を履いて、マスターに告白したら……上手くいくって思ってたのかな」

 馬鹿な私。溢れ出しそうな涙を、唇を噛んで堪える。
 告白したあとの未来を考えたくないと言っていたのは嘘だ。考えれば、考えるだけ、マスターの隣にいるのは自分以外の誰かだった。
 そして、今は若くて、可愛くて、自分の意見をしっかり持っていて……詩織には無いものばかり持っている梨花がいるのだ。何度その考えを振り払おうとしても、頬を赤らめてマスターに寄り添う梨花が想像出来てしまう。

 ――七年は無駄じゃなかった。だけど、居心地のいい空間と片思いの恍惚感に胡座をかいていたのは、私だ。

「ほんと、馬鹿な私」

 誰もいない倉庫で呟いた言葉が静かに響く。赤い箱を胸に抱えても、以前のようなドキドキが無い。
 そこまで気持ちが落ちてしまったかと思い、詩織はまた大きくため息をついた。

 ――明日からセールが始まる。気持ちを切り替えないと。

 いつまでもここで油を売っているわけにはいかない。そう思ったときだった。

「店長ー?いますか?店舗の方に三岳さんからお電話が入っています」 

 今しがた頭の中でイメージしていた梨花の声に、詩織は我に返った。

 ――まさか、今の聞かれていた?

 そう思って振り返ると、今しがた自分を見つけたように詩織を指さす梨花がいた。

「あ、店長いた。お電話ですよ。店長専用の電話、出ないって言っていましたよ」

 そう言われて詩織は店長専用のスマートフォンを持ち歩いていなかったことに気づく。
 仕事に私情を持ち込んだ結果がこれだと、詩織は心の中で舌打ちをする。

 ――店舗にかけてくるなんて、急用?

「ごめんなさい。今行きます」
「はーい。頑張ってくださいね?」

 にこにこと笑う梨花と目が合う。いつになく機嫌が良さそうだ。
 なんとなく嫌な予感を抱えながら、詩織は店に戻って行った。
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