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⑨
しおりを挟む右見て。左見て。
正面よし。
後ろ、よし。
もう一回右を見て、左を見て。
誰もいないことを確認して、詩織は大きく息を吐く。そして、久しぶりに古ぼけたドアの扉を開けた。
カランカラン
カウベルが大きな音を立てて詩織を迎えてくれた。きょろ、と見回すが、客は誰もいなかった。いつものようにマスターが「いらっしゃいませ」と穏やかな笑顔で迎えてくれる……そう思っていた。けれども、件のマスターは、カウンターに突っ伏していた。心なしか体が震えている。
「こ、こんにちは?」
詩織が来たことに気づいていないのだろうか。そう思い、恐る恐る声をかける。すると、マスターが右手を挙げて応えてくれた。
「っ、う、ん。ごめ、ちょっと、待って」
返ってきた声が震えている。どうしたのかと思い近寄ると、ぷくく、と笑い声が聞こえた。
「マスター?笑ってる?」
「っ、外で……挙動不審な、」
挙動不審?
詩織は首を傾げる。少し考えていると、自分の行動を思い出した。
「……あっ」
「な、何かに、追われてるの……?」
見られていた!と詩織の頬に熱が集まる。ここの所梨花が喫茶ひだまりに入り浸っていると知っていたため、何となく来づらくなっていた。久しぶりの来店になったことと、梨花に見つからない(マスターを独り占めしたい)という思いから、先程の確認行動となった。
「ご、ごめんなさい。ちょっと私事なんですが……っ」
「うう、んいいよ。ごめんね、笑って」
あー、笑った。と、マスターが顔を上げた。すると、珍しいものが目に入った。
「マスター、メガネするんですね」
あまりの珍しさに、思わず口にしてしまった。しまったと、口を押さえるが飛び出した物は取り返せない。
「ああ、ちょっと別の仕事しててね」
「……別の?」
「そうそう。前に働いてた所の名残」
「前の仕事……」
そう言ってマスターはメガネを外す。前の仕事?とは何だろうと気になった。しかし、それ以上聞くことは何となくはばかられた。前の仕事のことなど客に聞かれたくないだろう。そろそろといつもの席に座ると、震える手で水とおしぼりが出された。
マスターの笑いに貢献出来たのであれば、先程の確認行動も無駄ではなかったと思える。
自分も大概惚れ込んでいるなぁと、改めて自覚させられた。
「笑ってごめんね」
「いいえ、私もその、怪しかったと思うので」
「いや、楽しかったよ。……君の足音が聞こえると、嬉しくなるよ」
嬉しくなる。
マスターは今、そう言ったのだろうか。一瞬何が起こったのか分からず、詩織は口をあんぐりと開ける。その顔を見たマスターがまた吹き出した。
「あはははっ、もうダメだ!」
「あっ、やだ、もう~!」
「あはは、ごめん、でも……許して、サービスするから」
「……マスター特製のコンソメスープにしてください」
「うん、わかった。任せてよ」
涙が出てきたのか、マスターが目じりを擦っている。そんなに酷い顔だったのかと詩織は思わず自分の頬をぐにぐにと押した。すると、頭上からまた吹き出す音が聞こえた。
「ちょっと……僕を笑い死にさせるつも……り?」
「えっ!そんなに酷かったですか?」
「いや、違うよ……はは……はぁ、もう、可愛いなぁ」
「かわ……っ!」
久しく言われていなかった言葉に、詩織の頬はまた熱を持った。思わずスツールから勢いよく立ち上がる。すると、勢いそのまま、がらがらとスツールが後ろに倒れた。
「ぎゃー!ごめんなさい!」
「あははは!大丈夫、大丈夫」
久しぶりに会えたのにどうしてこうなってしまうんだろうと詩織は自分を責めた。倒れたスツールを直そうと試みたが、思いのほか重たく手間取ってしまう。
「これ、結構重たいんだよ」
スツールを持つ詩織の手に、誰かの手が重なった。店内に客は誰もいない。という事は。詩織はその手が誰のものか直ぐに気づく。
「っ!」
「大丈夫?怪我してない?」
重なった手の大きさに詩織は驚く。いつもはカウンター越しの距離だった。こんな近くにマスターがいるなんて。全身の血液が沸騰したように、体が熱くなる。
「っ、だ、だいじょぶ、です」
混乱した頭ではそう答えるのが精一杯だった。スツールを元の位置に二人で戻す。一瞬の沈黙が二人を包む。そろり、とマスターを見上げると何か言いたげに口を開いていた。
「あの、さ」
マスターがそう言った瞬間、やたらと大きなカウベルが店内に響いた。
「マスター!お腹空いた~!あ、詩織ちゃん!久しぶり!」
顔を出したのは、詩織もよく知る常連のサラリーマンだった。名を呼ばれて詩織は勢いよくその声に返事をする。
「あっ、お久しぶりです!」
「最近見なかったね。あ、マスターハンバーグランチひとつ!」
「……はい。ただいま」
「あ、私は、いつもの……」
「うん。コンソメスープつきね」
常連客が来てしまったことで、有耶無耶になってしまった。けれども、マスターは何か言いかけていた。何を言いたかったのだろうと思いつつも、それを聞くことは出来なかった。
いつもはもっと柔らかい笑顔なのに、今日はいつもと違うような気がする。詩織はまた、首を傾げた。
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