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理性と本能
しおりを挟むアイシャの住処までの話のタネとして、アイシャは、エルネストの経緯を聞いた。何故か道筋を知ったようにエルネストの足取りに迷いは見られなかった。そして同じように迷いなく寝室へ向かった。
何故だろうと疑問を抱く暇もなく、アイシャはエルネストに寝台に押し倒されていた。両手を頭上に固定されたうえに、エルネストにのしかかられているせいで身動きひとつとれない。
「というわけだ」
「わけだ……じゃ、ありません!」
無魔力症。
血に飢えた日々。
溺れているように息苦しい毎日が、アイシャに出会って救われた。
エルネストの生い立ちに同情はすれども、今の状況はとても受け入れられない。
先程、温もりを確かめ合うように重ねた唇の熱はもうとうの昔に冷め切っていた。冷静になったアイシャは今の状況を打開しようと必死に考えを巡らせていた。
「どいて……!」
「無理強いはしないつもりだ。アイシャ」
王国の紋章入りの鎧は床に投げだされ、先程よりも距離が近い。
体のラインがしっかりわかるギャンベゾンのみのエルネストと薄布一枚のアイシャは互いの熱を分け合うほど密着していた。
騎士と名乗ったエルネストの胸板は、目に見えて分かるほど筋肉で盛り上がっており、見目麗しさも相まって、壮絶な色気を放っていた。仄暗い過去さえも彼の色気の引き立て役になっている。そう思わずにはいられない。
「どうして? 僕が気に入らない?」
「気に入らないも何も……初めて会ったのに!」
「リシャーナ。嘘をつかないで欲しい。僕はこんなにも君に惹かれているんだ。わかるか?心が繋がっているこの感覚を」
「……こ、ころ?」
確かにエルネストに触られると、不思議と気持ちが凪いだ。もちろん、嫌悪を感じることも無かった。ここで初めて、アイシャはエルネストと目線を合わせた。闇夜で月光を浴びて薄らと光る漆黒の髪と瞳。細められると柔らかく見えるが、今のようにじっと見つめられてしまうとそわそわと落ち着かなくなる。エルネストの気持ちも読めない上に、慌てる自分がありありと映し出されるからだ。
「僕は感じたよ。君の腕を掴み、肌を重ねた瞬間、探していたもの、欠けていたもの……やっと見つけたと思えたんだよ」
「……肌をっ、ご、ごかいを招くような言い方はよしてください!あなたとは、なんの関係も……!」
「エルネスト」
まるで懇願するように、エルネストがもう一度名前を口にした。耳元で囁かれ、アイシャは操られたようにエルネストの名を口にした。
「……エルネスト様」
「……リシャーナ」
「……っ!」
捨てたはずの名で呼ばれたアイシャは、目を見開く。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
「……お願いです。その名で、呼ばないで……」
今度はアイシャが懇願する番だった。全てを捨てたアイシャにとって「リシャーナ」と呼ばれるのは苦痛以外の何ものでもない。
「……わかった。今は、アイシャ、かな?」
「……」
エルネストの返答に、アイシャは小さく息を吐く。そして、遅れて小さく頷いた。アイシャ、ともう一度名を呼ばれ、今度はしっかりと漆黒に捕われた。聞きたいことは沢山あった。
しかし、この漆黒に見つめられると身を委ねたくなる。そんな魅力が目の前の男にはあった。そして、委ねたほうがきっと、楽だとも。
抵抗してもきっとどうにもならない。過去の経験がアイシャにそう語りかけていた。そして、「求められている」という事実が、より一層諦めに拍車をかけた。
「アイシャ。君の全てを僕のものにしたい」
アイシャは息を呑む。否定されないことを同意ととったのか、押さえられていた腕が静かに開放された。そっと動かすが、再度エルネストが捕まえてくるようなことは無かった。手首を摩る。肌はいつも通りの白さで跡もついてない。エルネストが注意して力を入れていたのが理解出来る。
「アイシャ……こんなことを言っても信じてもらえないかもしれない。……君をどうしても僕のものにしたい」
アイシャの変容した姿である金糸の髪を掬いあげられる。目の前でサラサラと落ちる金糸をどこか他人事のようにアイシャは見つめる。
(……ああ、そういえば)
エルネストには自分の魔術が効かないことも思いだした。エルネストの漆黒に映る自分はどんなものだろうと想像する。
とうの昔に置いてきた本当の自分。
髪の色も、瞳の色も、肌の色も、唇の色も……鼻の形、指の長さ……全て胸の中に閉じ込めてある。
(それも後で聞かないと……)
「アイシャ。こっちを見て」
ぼんやりと思考の海を漂っていたアイシャは、また漆黒に捕われた。無骨な手がアイシャの頬に添えられた。しばらく見つめあったのち、薄い皮膚の熱を分け合うように、唇が重ねられた。
「……っ」
今日初めて重ねた唇。しかし、慣れとは恐ろしいもので、侵入してきた舌に不慣れながらも自分のものを重ねる。ゆっくりと、たどたどしい動きは、とても稚拙なものだった。自由になった手で、エルネストのギャンベゾンを握りしめた。伸びの悪い綿が、握られた刺激できゅ、と小さな摩擦音を放つ。小さく震える手に、エルネストはきっと気づかないだろう。
初めてのキスに驚く唇を、エルネストは容赦なく貪った。押し付けられ、吸われ、時に甘く噛まれる。拭えることのできない恐怖を胸に、アイシャは必死にエルネストの愛撫に耐えていた。
「っ、アイシャ……」
熱を帯びた吐息が混ざる。はふはふ、とアイシャは必死に息を整えた。その間もエルネストは真っ直ぐにアイシャだけを見つめていた。それが堪らなく嬉しい。アイシャはそっと目を閉じてエルネストの首に手を回した。
(魔力だけでもいい。エルネスト様が、私を望んでくれるなら)
そんなエゴの塊がアイシャの体の奥底から湧き上がる。
「エルネストさま……」
初めて意志を持ってエルネストの名を呼ぶ。その瞬間、アイシャの体にエルネストが覆いかぶさってきた。これから先どうなるのかアイシャは想像もできなかった。それでも、アイシャは全て受け入れるつもりでいた。ギュッと目をつぶり、エルネストの次の動きを待った。
「……?」
しかし、当のエルネストは、身動きひとつしない。しばらく待ったが状況は変わらない。
すると、肩口あたりで小さな寝息が聞こえてきた。
「……ねて、る?」
エルネストが覆いかぶさっているせいか、首を少ししか動かすことが出来ない。それでも必死に首を動かすと、漆黒の髪が目に入った。規則的に揺れる髪でエルネストが寝ていることに確信をもてる。
「……うそでしょ?」
心構えが無駄になったアイシャは大きくため息を吐く。最初こそはそのままエルネストの下敷きになっていたものの、次第に苦しさを覚える。何とか隙間を見つけて脱出した頃には、月が沈み、夜が明ける頃だった。
男性が眠るには小さいベッド。アイシャはしばらくエルネストを見つめていた。そして、おずおずと手を伸ばす。漆黒の髪を掻き分けると、穏やかな寝顔の青年がアイシャの目に飛び込んできた。
(無魔力症……)
『いつも水に溺れているような息苦しさ』『満たされない飢え』『血を見ると安心する』どれを聞いてもアイシャにはピンと来なかった。
しかし、エルネストの口から聞いただけでも身震いがするほどの恐ろしさは理解出来た。魔力が有り余るアイシャには知ることの出来ない恐ろしさ。それがアイシャに触ることで、楽になったとエルネストは言っていた。
「……わたしが、いるだけでいいんだ」
穏やかな寝顔がアイシャの存在意義を教えてくれる。
孤独と共に生きてきたアイシャにとって、自身の存在を望まれた。受け入れていいわけないと思いながらも、仄暗い喜びにアイシャは包まれていた。
(……嬉しいなんて、わたし……)
アイシャは唇を噛み締める。弾けるような感触のあとに、口の中に鉄の味が広がった。
(だめよ……私は、アイシャ。もう、あの頃の私はいない)
空が白ばみ始めたのを認める。アイシャは一人懇々と眠る青年を置いて、寝室をあとにした。
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