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顔も名前も捨てた

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「この辺りのはずだが……」
「何かお探し?」

 月の光も届かない闇夜に相応しくない音が静かな森に響いた。アイシャは大柄な男の背に向かって声をかける。人の声に反応した男は直ぐに振り向いた。

(……王家の紋章入りの鎧)

 真っ白な鎧の左胸部分に金の鷲の紋章。ルビス王国の近衛騎士である事の証だ。アイシャは素直に驚く。近衛騎士といえば、エリート中のエリート。そのような人物が、王国の外れにあるこの森にたった一人でいる自体おかしな事だった。それにくわえ、二度と見ることの無いであろう紋章を目にしたアイシャは少なからず動揺していた。しかし、森の平穏を脅かすであろう目の前の男をこのまま見過ごす訳にはいかない。本で手に入れた知識を生かすように、アイシャは妖艶な女を演じる。

「……君は」
「ふふふ。私も森に迷い込んでしまったの。困ったもの同士、助け合わない?」

 馬一頭分の距離を少しずつ詰めていく。男は微動だにせず、アイシャをじっと見つめていた。青く生い茂った草をわざと音を立てて踏みしめる。アイシャの存在を見せつけるように。豊満な体は薄布で覆われているのみ。陽の光の下では、裸体の細部までしっかりと見えてしまうだろう。しかし、今日は生憎の曇り空。月の光すら届かない森では、ほとんど見ることは出来ない。それが逆に男の劣情を誘うことをアイシャは知っていた。

 しゃくり、しゃくり。草を踏む音が響く。男との距離をどんどんと詰めていく。近くに行くと、男の容姿が想像以上に整っていることに気づく。漆黒の髪は、闇夜に紛れているが、常夜の道しるべとなりそうな艶を含んでいる。同じ色の瞳は、アイシャの目をじっと見つめ、瞬きを忘れているようだった。背も大きく、鎧の下には彫刻のような裸体が隠れているのだろうと容易に想像できる。
 アイシャと男の距離が、アイシャの細指一本ぶん程に近づいた時だった。アイシャは小さく変容の術式を唱える。そして、昼間に見せた、ぬめる鱗を持った恐ろしい化けものに姿を変えようとした時だった。

「見つけた……!」

 変容の際に感じる体の軋みがない。アイシャは驚きに目を見開く。男の手が、アイシャの腕を掴んでいた。すると、一度も失敗したことのない変容の術式が端から崩れていく。

「……えっ、え、?」

 こんなこと初めてだとアイシャはただ戸惑うだけだった。術式を紡いだ端から見えない何かに勢いよく吸い上げられていく。そんな感覚に襲われた。戸惑うアイシャは目の前の男を仰ぐ。すると、風が吹いて木々が揺れ、雲の隙間から月光が降り注いだ。漆黒と視線がかち合い、アイシャは身を震わせた。

「アイシャ」

 漆黒がアイシャの名を呼ぶ。アイシャの動きを封じるようなねっとりとした執着を含んだ声。掴まれた腕から伝わる熱。声。視線。男の全てがアイシャをがんじがらめにしていた。

「あ、ああ……」
「見つけた。アイシャ」

 どうして? と疑問を口にすることは出来なかった。腕をひかれ、硬い鎧に頬を押し付ける形になる。がちがちと金属の擦れる音が聞こえたあと、苦しい程の抱擁がアイシャを待っていた。

「会えた……アイシャ。ずっと探していた、僕の片割れ」
「はな、はなして」

 男は篭手を外したのか、外気温で冷えた金属とは程遠い生ぬるい体温が背中に回る。久しぶりの人間の体温に、アイシャは驚く。誰かに抱かれた記憶など、遠の昔に置いてきてしまっていたからだ。
 とかげのざらついてひんやりとした皮膚とも違う。小鳥の早い鼓動とも違う。
自分よりもほんの少しだけ早い鼓動と同じ温もり。アイシャの驚きと不安で揺れていた心が不思議と凪いだ。

「アイシャ。顔を見せて」

 偽物の顔と分かっていても、アイシャは男に逆らえなかった。鎧に押し当てられた顔を上げると、漆黒の目の中に戸惑いを見せるアイシャが映し出されていた。月がてっぺんにあがり、雲も晴れたのか月光が降り注ぐ。辺り一面明るくなり、戸惑う自分と視線が絡まる。漆黒の目が柔らかくほそめられると、戸惑いも見えなくなる。アイシャは、膝から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。誰かに笑みを向けられた記憶など、とうの昔に置いてきてしまった。

「む、む、むり」

 男の微笑みに、アイシャは思わず顔を逸らした。しかし、すぐに頬をおさえられ正面を向かされる。

「アイシャ」
「やっ、どうして私の名前を知ってるの?」
「僕の片割れだからさ」

 意味がわからないとアイシャは紋章に向けて拳を振り下ろす。しかし、硬い鎧が勝り、アイシャの手にじんじんと鈍い痛みが残る。
 アイシャの名を知っているのは限られた人達のみだ。変容し、名前も変えて生きてきた。アイシャの名を知っているのは、両親と……。そこまで考えて、アイシャは記憶に蓋をするように首を横に振る。家族のことを思い出すと、芋づる式に出てきてしまう、悲しい記憶。

「アイシャ……」

 アイシャが過去と戦っている間にも、男の手がアイシャの細い腰を撫でる。その時初めて、自分が男を誘惑するために薄布一枚の姿だったことを思い出す。

「ちょ! 離れて!」
「無理だ。君に触れていると心地いい。ああ、こんなにも満たされることなど初めてだ……」

 恍惚とした口調で語られ、アイシャの肌が粟立つ。けれども、何故か嫌悪感は感じなかった。異性に触れるなど十八年生きていて初めての経験だった。もちろん、望まれることも。

「ダメだ、もう我慢できない」
「っ、あ!」

 アイシャが何も出来ないでいると、痺れを切らした男の顔が近づいてくる。何が起こるのか予想がつかず、恐ろしさに思わず目を閉じる。すると、生暖かい何かが唇に触れた。柔らかく、次第に熱を帯びていく何かが、角度を変えて幾度となくアイシャの唇に触れていく。

「アイシャ……」

 吐息の混ざる距離で囁かれる。アイシャは「何か」が何かをやっと理解した。おとぎ話の中でしか見たことのない、愛し合うもの同士がすること。

「っ、き、すを! あなた、一体何を!」
「エルネスト」
「……え?」
「僕の名はエルネスト。貴方の片割れになりたいと望む男」
「な、ななな、なにを!」
「美しい人。どうか僕に女神の祝福を」

 ダメだと否定する暇もなく、もう一度唇が重ねられた。目を閉じる暇も与えてもらえなかった。食まれ、ねぶられる。どうしたらいいのか分からず、息を止めてしまう。

(く、く、苦しい!)

 ぶは、と息を吐き出した瞬間に、何かが侵入してきた。何が何だか分からないアイシャは、口内の隅々を舐る何かに翻弄される。

「っ、ん、ん」

 硬い鎧に囚われるように抱きしめられ、かつ呼吸もままならず、アイシャはただ戸惑うばかりだ。口の端から漏れる声は言葉をなさない。何かを口にしようと少しでも舌が動けば、何かに絡め取られた。ちゅく、と水音が響き、アイシャは羞恥に身をよじらせた。

「……甘い」

 吐息の絡まる距離で囁かれる声に淡い色が含まれていた。初めての経験に、アイシャはされるがままだった。

「アイシャ。足りないんだ。もっと君を味わいたい」
「……そん、な」
「『否』の返事はいらないよ。もう決定事項だからね」

 漆黒を片方だけ閉じて、急に子供のような笑顔になった男にアイシャはぱちり、とまばたきを落とす。

「……惚けた顔も可愛い。さあ、君の住処に向かおう」

 はい? と首を傾げる。すると、急激な浮遊感を覚える。縋るように伸ばした手の先には、男の逞しい首があった。

「可愛らしい人だ。大地の美しさを全て備えたような髪色に、良く肥えた大地の祝福を受けた瞳……ずっとあなたを探していた」

 目尻に冷たい感触。場所を変え、何度も唇が落ちてくる。アイシャはエルネストの言葉に疑問を抱く。今のアイシャの見た目は、金髪と黒色の瞳だ。エルネストの例えには見た目が合致していない。首を傾げると、左の口の端だけを上げたエルネストと視線がかち合った。

「リシャーナ・アルブケル」
「っ!?」

 久しぶりに聞く名に、アイシャの血の気が引く。かちかちと歯が当たり、冷たい汗が顔から吹きでてくる。

「アルブケル伯爵家の失われた子女、だったかな?」
「ち、ち、ちが……」
「ダメですよ? その態度は肯定してるも同然です」
「ち、違います。私は、アイシャ……この森に住む……魔女」
「いいえ、貴女はリシャーナ・アルブケル。この僕が言うんだから間違いない」
「だ、だって、わたし、は……」

 姿かたちを変えているんだから。わかるはずがない。アイシャはそう思っていた。元の姿を隠すように心の奥底にしまい、忘れただった。

「僕に魔術は効かないよ。リシャーナ、君が姿を忘れたというのであれば僕が教えてあげよう。世界で僕しか今の君の姿を知らないのだから」
「……!」

 魔術が効かない。その言葉にアイシャは目を見開く。

「美しいリシャーナ。欠けていた、僕の片割れ」

 抱えあげられたまま、また唇が重なる。久しぶりの温もりを片隅に感じながらアイシャは思う。

 魔術が効かないなんて……!聞いた事ありません!
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