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第十三章 次男・楊広
第十三章 次男・楊広 七
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もし伽羅があと二十年生き延びていたら、きっと隋の歴史は変わっていたに違いない。
娘を助けるためとはいえ、怪しの術にすがった代償は途方もなく高くついてしまった。
さて皇后が可愛がった次男の広。
母の死に際してどうしたかと言うと、父や宮女たちの前では大いに嘆き慟哭した。
しかし、自宮に戻るといつもと変わりない様子で食事を楽しみ、美女たちと戯れた、と、書には残されている。
……さて、それは真実だろうか。
史書というものは、勝者が編じたもののみが残ることが多い。
中国随一の悪帝として知られる次代皇帝・煬帝(皇帝広)については、次に興った唐代に編まれ、後世に知られることとなった。
倒した国の『最後の皇帝』が善人では都合が悪い。
最初から最後まで悪人で、母の死さえも悲しむことが無かった『畜生』として書く必要があったのだろう。
実際、唐の史書においてはかなりの部分で改ざんがあったと専門家は見ている。
賄賂に弱いことで有名な『許敬宗』という者が書を編じているのだ。
また、隋の時代に書かれた個人の『伝』を精査することによって、はっきりとした矛盾点がいくつか指摘されている。
滅ぼした『隋の遺物』を基礎にして、唐の時代は長く―――約三百年もに渡って続いた。
『遺物』はきっと、贅沢の象徴としてのみ造ったわけではなく、隋の発展にとって必要なものだったのだろう。
例えば煬帝の作った大宮殿。
税を尽くして作られたというが、唐の時代にもそのままちゃっかりと使われている。
そのうえ、これを上回る規模の壮麗な宮殿が、唐の時代にも造られているのだ。
唐の新宮殿は、魔法で作られたとでもいうのだろうか。
いいや『税を絞って』『多くの民を使って』建てられたのだ。
そうして宮殿は唐の政治を行う場として活用され、諸外国に威容を示してきた。
大運河などもそうだ。
煬帝は大運河を作るために民衆を徴発し、苦しめもした。誇張はあれど、大部分は事実であろう。
冷徹なことで有名な秦の始皇帝ですら、女は徴発しなかったのに、煬帝は女でも構わず召し出し短期で工事を決着させた。
その大運河は唐の時代に最大限に活用され、中国全体の流通が著しく増大した。
特に食料を大量輸送できるのは大きかった。
皇帝堅の治世によって人口は大幅に増大したが、急激に増えすぎたため、もはや近隣地域の生産力のみでは首都の長安、副都の洛陽の食糧供給を支えることが危うくなってきていたのだ。
楊堅もそこは予想していて、運河をちびちびと伸ばしてはいたが、煬帝が一気に大運河を作り上げたことでそれらの食料問題は全て解決した。
大運河を航行する船の大量運送能力は、それほどまでにすさまじく、百万の民を犠牲にしてもそれを上回る民の口を癒し続け、遠い未来の現在でもなお、中国の大動脈として利用され続けている。
最後の隋皇帝、煬帝――皇帝広。
『煬』は悪い諡であり、古文書(逸周書)内には『好内遠禮曰煬』『去禮遠衆曰煬』『逆天虐民曰煬』と記載されている。
つまり、内(女性)好きで、禮(礼)を行わず、天に逆らい、民を虐げた悪帝ですよ、という意味だ。
無論、その名は唐王朝から、彼の死後におくられたものである。
楊家の『楊』という字は基本的には『柳』という意味であるが、同時に『大地を覆おおう木』もしくは『太陽が地上に上がる』という意味を持つ。
その吉字の『木』の部分を『火』と変え『煬』という悪名と成すところが、また何とも意地が悪いではないか。
煬帝は日本でもよく知られる天台宗に深くかかわり、帰依している。
信心深い一面もあったようだ。
多くの妃を持ったが、伽羅の死後も母の選んだ妻を最後まで皇后として尊重した。
そうして、反乱者に捕らえられて引き離されるまでは共に居たという。
数多の妃がいた割には、他の時代のような妃同士の陰湿泥沼な争いも筆記されていない。
煬帝の『贅沢荒淫』は事実であろうが、隋が傾いた直接の原因は三度にわたる高句麗遠征である。
面子にこだわり、判断を誤って国を傾けたが、個人としては、後の世で言われるほどの『暴君』ではなかったのではないだろうか。
勝者は敗者をどのようにでも書けるものなのだ。
さて、皇后から遅れること二年、皇帝堅も命を落とした。
彼は皇后の死後大変に嘆き、彼女のために立派な陵墓を作った。
新皇后を立てることもしなかった。
そこまでは良かったのだが、枷を解かれたかのように後宮に置いた美女二人に耽溺し、ついには政務さえおろそかになってしまった。
伽羅を失った寂しさゆえだったのか、老いてからの自由を堪能していたのか、今となってはもうわからない。
だが、過度に女性たちと戯れたために臥せりがちになり、寿命を縮めることとなってしまったのだ。
元々中国皇帝は妃を多く持ち、のめりこめば健康を害するレベルである。
そのために短命となった皇帝も多くいたので、書に通じていた楊堅ならば、おそらくその危険性は知っていたに違いない。
危篤になった皇帝堅は、そばにいたお付の者に、
「皇后が今も生きていたならば、このような形で病に倒れることもなかっただろうに(原文では『皇后在、吾不及此』)」
と、こぼしたと伝わっている。(隋書より)
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第十三章はこれにて終わりです。
お読みくださりありがとうございました!!
伽羅は嫉妬深い、キツい女性として既存の小説(ちょい役)や評に書かれることが多いのですが、史書には本当に妙善菩薩の生まれ変わりと言われたエピソードが書かれています。普段は物腰柔らかな、優しい女性だったのではないかと思います。また、史書にはほのぼのエピソードなども結構書かれています。(いくつかは作中にも活用)
たとえば、皇帝堅が朝廷に出勤するたび、伽羅は楊堅の輦車(皇帝が乗る車)と並べて自分も車を出して後宮を出、閣殿に到着すると、伽羅はそこに留まって、楊堅が戻るまでずっと待っていたそうです。
楊堅が政治を終えて退出し、伽羅のところに戻ると、二人は互いに顔を見合わせて喜び、そのまま一緒に後宮に帰ったそうです。すごいラブラブですね。
まあ、寵妃を膝に乗せたまま政務を執ったという某皇帝には負けますが。
え? 勝っちゃ駄目? ですよね~(^_^;)
楊堅を待っている間は、作中にもちょろと書きましたが、宦官に様子を見に行かせていたそうです。
その政策のうちにマズイものがあれば、そのつどそれを諫め、正したそうです。
皇帝堅は、独孤皇后のことを大変寵愛しながらも、畏敬の念を持ったと書かれています。(原文では『高祖甚寵憚之』とあり、高祖とは楊堅のことを指します)*参考『隋書現代語訳』勉誠出版
でも、帰りを待っている妻の顔を見て、とても喜んでいるのですから、失政を突っ込むだけでなく、良い判断をしたなら、そりゃあもう、褒め倒したんじゃないかと想像しています。
古今の知識を全て持っていたと史書にも書かれた博識な妻に認められ、褒められれば、凄く嬉しいですよね(⋈◍>◡<◍)。✧♡
それに当時の勤務の始まりは早朝で、起きるのさえ大変です。
そんなとき、ぐうぐう寝てないで、夫と共にキリッと支度をし、出勤のお供をしたわけですから、そういう一体感もあったのではないかと思います。
ちなみに楊堅は若い頃は博識と言うほどではなく、皇帝になって以後も臣下が話題に出してきた史書の話がわからなかったことも。
ですが、勉強熱心の働き者だったことは間違いないようで、滅ぼした他国の史書などにもしっかり目を通して研究していたことが書かれています。
そもそも、宮仕えだった楊堅ですから、仕事に、鍛錬に、と時間を取られます。
伽羅ほどには読書に時間を割くことは不可能だったでしょうね。
気になる書籍は伽羅に読んでおいてもらい、かいつまんで後で教えてもらったり……なんてことはあったかもしれません。
明日は一話のみ。第十四章『夫婦』最終話となります。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
娘を助けるためとはいえ、怪しの術にすがった代償は途方もなく高くついてしまった。
さて皇后が可愛がった次男の広。
母の死に際してどうしたかと言うと、父や宮女たちの前では大いに嘆き慟哭した。
しかし、自宮に戻るといつもと変わりない様子で食事を楽しみ、美女たちと戯れた、と、書には残されている。
……さて、それは真実だろうか。
史書というものは、勝者が編じたもののみが残ることが多い。
中国随一の悪帝として知られる次代皇帝・煬帝(皇帝広)については、次に興った唐代に編まれ、後世に知られることとなった。
倒した国の『最後の皇帝』が善人では都合が悪い。
最初から最後まで悪人で、母の死さえも悲しむことが無かった『畜生』として書く必要があったのだろう。
実際、唐の史書においてはかなりの部分で改ざんがあったと専門家は見ている。
賄賂に弱いことで有名な『許敬宗』という者が書を編じているのだ。
また、隋の時代に書かれた個人の『伝』を精査することによって、はっきりとした矛盾点がいくつか指摘されている。
滅ぼした『隋の遺物』を基礎にして、唐の時代は長く―――約三百年もに渡って続いた。
『遺物』はきっと、贅沢の象徴としてのみ造ったわけではなく、隋の発展にとって必要なものだったのだろう。
例えば煬帝の作った大宮殿。
税を尽くして作られたというが、唐の時代にもそのままちゃっかりと使われている。
そのうえ、これを上回る規模の壮麗な宮殿が、唐の時代にも造られているのだ。
唐の新宮殿は、魔法で作られたとでもいうのだろうか。
いいや『税を絞って』『多くの民を使って』建てられたのだ。
そうして宮殿は唐の政治を行う場として活用され、諸外国に威容を示してきた。
大運河などもそうだ。
煬帝は大運河を作るために民衆を徴発し、苦しめもした。誇張はあれど、大部分は事実であろう。
冷徹なことで有名な秦の始皇帝ですら、女は徴発しなかったのに、煬帝は女でも構わず召し出し短期で工事を決着させた。
その大運河は唐の時代に最大限に活用され、中国全体の流通が著しく増大した。
特に食料を大量輸送できるのは大きかった。
皇帝堅の治世によって人口は大幅に増大したが、急激に増えすぎたため、もはや近隣地域の生産力のみでは首都の長安、副都の洛陽の食糧供給を支えることが危うくなってきていたのだ。
楊堅もそこは予想していて、運河をちびちびと伸ばしてはいたが、煬帝が一気に大運河を作り上げたことでそれらの食料問題は全て解決した。
大運河を航行する船の大量運送能力は、それほどまでにすさまじく、百万の民を犠牲にしてもそれを上回る民の口を癒し続け、遠い未来の現在でもなお、中国の大動脈として利用され続けている。
最後の隋皇帝、煬帝――皇帝広。
『煬』は悪い諡であり、古文書(逸周書)内には『好内遠禮曰煬』『去禮遠衆曰煬』『逆天虐民曰煬』と記載されている。
つまり、内(女性)好きで、禮(礼)を行わず、天に逆らい、民を虐げた悪帝ですよ、という意味だ。
無論、その名は唐王朝から、彼の死後におくられたものである。
楊家の『楊』という字は基本的には『柳』という意味であるが、同時に『大地を覆おおう木』もしくは『太陽が地上に上がる』という意味を持つ。
その吉字の『木』の部分を『火』と変え『煬』という悪名と成すところが、また何とも意地が悪いではないか。
煬帝は日本でもよく知られる天台宗に深くかかわり、帰依している。
信心深い一面もあったようだ。
多くの妃を持ったが、伽羅の死後も母の選んだ妻を最後まで皇后として尊重した。
そうして、反乱者に捕らえられて引き離されるまでは共に居たという。
数多の妃がいた割には、他の時代のような妃同士の陰湿泥沼な争いも筆記されていない。
煬帝の『贅沢荒淫』は事実であろうが、隋が傾いた直接の原因は三度にわたる高句麗遠征である。
面子にこだわり、判断を誤って国を傾けたが、個人としては、後の世で言われるほどの『暴君』ではなかったのではないだろうか。
勝者は敗者をどのようにでも書けるものなのだ。
さて、皇后から遅れること二年、皇帝堅も命を落とした。
彼は皇后の死後大変に嘆き、彼女のために立派な陵墓を作った。
新皇后を立てることもしなかった。
そこまでは良かったのだが、枷を解かれたかのように後宮に置いた美女二人に耽溺し、ついには政務さえおろそかになってしまった。
伽羅を失った寂しさゆえだったのか、老いてからの自由を堪能していたのか、今となってはもうわからない。
だが、過度に女性たちと戯れたために臥せりがちになり、寿命を縮めることとなってしまったのだ。
元々中国皇帝は妃を多く持ち、のめりこめば健康を害するレベルである。
そのために短命となった皇帝も多くいたので、書に通じていた楊堅ならば、おそらくその危険性は知っていたに違いない。
危篤になった皇帝堅は、そばにいたお付の者に、
「皇后が今も生きていたならば、このような形で病に倒れることもなかっただろうに(原文では『皇后在、吾不及此』)」
と、こぼしたと伝わっている。(隋書より)
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第十三章はこれにて終わりです。
お読みくださりありがとうございました!!
伽羅は嫉妬深い、キツい女性として既存の小説(ちょい役)や評に書かれることが多いのですが、史書には本当に妙善菩薩の生まれ変わりと言われたエピソードが書かれています。普段は物腰柔らかな、優しい女性だったのではないかと思います。また、史書にはほのぼのエピソードなども結構書かれています。(いくつかは作中にも活用)
たとえば、皇帝堅が朝廷に出勤するたび、伽羅は楊堅の輦車(皇帝が乗る車)と並べて自分も車を出して後宮を出、閣殿に到着すると、伽羅はそこに留まって、楊堅が戻るまでずっと待っていたそうです。
楊堅が政治を終えて退出し、伽羅のところに戻ると、二人は互いに顔を見合わせて喜び、そのまま一緒に後宮に帰ったそうです。すごいラブラブですね。
まあ、寵妃を膝に乗せたまま政務を執ったという某皇帝には負けますが。
え? 勝っちゃ駄目? ですよね~(^_^;)
楊堅を待っている間は、作中にもちょろと書きましたが、宦官に様子を見に行かせていたそうです。
その政策のうちにマズイものがあれば、そのつどそれを諫め、正したそうです。
皇帝堅は、独孤皇后のことを大変寵愛しながらも、畏敬の念を持ったと書かれています。(原文では『高祖甚寵憚之』とあり、高祖とは楊堅のことを指します)*参考『隋書現代語訳』勉誠出版
でも、帰りを待っている妻の顔を見て、とても喜んでいるのですから、失政を突っ込むだけでなく、良い判断をしたなら、そりゃあもう、褒め倒したんじゃないかと想像しています。
古今の知識を全て持っていたと史書にも書かれた博識な妻に認められ、褒められれば、凄く嬉しいですよね(⋈◍>◡<◍)。✧♡
それに当時の勤務の始まりは早朝で、起きるのさえ大変です。
そんなとき、ぐうぐう寝てないで、夫と共にキリッと支度をし、出勤のお供をしたわけですから、そういう一体感もあったのではないかと思います。
ちなみに楊堅は若い頃は博識と言うほどではなく、皇帝になって以後も臣下が話題に出してきた史書の話がわからなかったことも。
ですが、勉強熱心の働き者だったことは間違いないようで、滅ぼした他国の史書などにもしっかり目を通して研究していたことが書かれています。
そもそも、宮仕えだった楊堅ですから、仕事に、鍛錬に、と時間を取られます。
伽羅ほどには読書に時間を割くことは不可能だったでしょうね。
気になる書籍は伽羅に読んでおいてもらい、かいつまんで後で教えてもらったり……なんてことはあったかもしれません。
明日は一話のみ。第十四章『夫婦』最終話となります。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
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