上 下
105 / 116
第十二章 高熲 

第十二章 高熲 八

しおりを挟む
 以前、高熲こうけいとその部下が、皇帝を追って山に分け入り、出家しゅっけを思い留まらせたことがあった。
 その際、高熲こうけいは皇帝堅にこう上言した。

「たかが『一人の婦人』を亡くしたがために、天下を軽々しく捨て去ってはなりませぬ」

 その『婦人』とはもちろん、皇帝と通じた尉遅熾繁うっちしょくはんを指す。
 身分もない没落した娘一人失ったぐらいで人民を置き去り、天より託された帝位を捨てるのはいけないことだと諭したのだ。

 これを高熲こうけいの政敵、王白成は、高熲の端下の部下に小金をやって詳しく聞き出していた。
 その時の話を『これは』と思う形にでっち上げて皇后に密書を送ったのだ。

 伽羅はふみを前に悩んでいた。

「さて、どうするべきか……差出人は王白成とあるな。
 対面したことはないが、名を聞いたことはある」

 伽羅はそう呟いた。
 そして悩んだ挙句、ついに、王白成の面会を許すことにした。

 後宮に住まう皇后であっても、正式な手順さえ踏めば面会は問題ない。
 もちろん、御簾を下ろしての面会にはなるが。

 さて、かしこまって現れたのは、もちろん王白成である。

「皇后様、最近の高僕射(高熲)は傲慢を極めておりまする」

 王白成は型通りの挨拶を済ませると、早速話を切り出した。

「今回も高僕射は皇后さまをないがしろにするお振る舞いをなさったとか。
 それが密かに漏れ聞こえてきたため、臣はこの胸をひどく痛めておりました。
 また、以前の話ではありまするが、文にしたためましたように、皇后様を『たかだか一人の婦人』とのたまい『愚妻の叱責におののいて天下を捨て去るのは間違っている』と陛下に上言した件は見過ごすわけには参りませぬ。
 皇后様が天下の才女であられ、常に陛下を心より支えていらっしゃることは世の人々も広く認めるところでございます。
 にもかかわらず、このような言いよう。
 まことに腹立たしく……いえ、そもそも皇后さまに対しての不敬に当たりましょう」

 そう言うのだ。

 伽羅は、わざとつれない態度をとってみた。
 どうにも胡散臭いのである。

「確かに高僕射はそう言ったのであろうな。
 このような話には『尾ひれ』がつくことが多かろう。
 また、わたくしのところにはそのような話は伝わってきてはおらぬ」

 伽羅はそう言ったが、王白成も中々の役者であった。
 皇帝の『山中逃走事件』は流石に隠しきれるものではなく、かん口令が敷かれたにもかかわらず、大方の事は宮中に漏れ広がっている。
 その決着のつけ方を見ても『皇后さまが陛下に直接問いただすことはあるまい』と考え、平然と言い放った。

「高僕射は用心深いお方です。
 なれど臣の従者の縁者がたまたま高僕射の側近と親交がありまして、その筋から聞きつけたのであります」

 伽羅はしばらく考え込んだ。

「……左様か。その話、覚えておきましょう。なれど他言は無用。
 ご苦労であった。もう下がって良い」

 伽羅はそう言って王白成を下がらせた。

 高熲こうけいには政敵が多い。
 そして、王白成は高僕射によって閑職に飛ばされたことを伽羅は記憶していた。
 だからこの言も、伽羅は直ちに信じたわけではなかった。
 たとえ信じたとしても――、

「高僕射を信頼していた頃であれば『陛下の出家しゅっけ』を思いとどまらせた功によって許しましたのに……」

 そう呟くと伽羅は深くため息をついた。

 しかし、すでに高熲に対しての信頼は消えている。
 むしろ憎いとさえ思っていた。

 高熲こうけいは太子勇の支持者であり、廃嫡にはひどく反対していたので今の伽羅にとっては面倒な存在でもある。
 それでも高熲の父は伽羅の亡父・独孤信の幕僚であり、楊堅を長く助けてもきた。
 親交も功も有ったので、無下にはしてこなかった。

「そういえば、高僕射は盛んに自分の娘を『次の太子妃に』と売り込んでいた……」

 伽羅はふと思い出して呟いた。

 高熲こうけいの娘は母に似ず軽薄で、学問が嫌いだっだ。
 だが出自の卑しい女ばかりはべらすよりは良かろうと、高熲の顔を立て、妃の一人として入れていたのだ。

 果たしてこれは『良きこと』であったのだろうか。

「太子妃であったげん氏……隋の祖とも言える『北魏ほくぎ皇族』の血を引く『身分高き太子妃』を暗殺して……一番得をするのは誰であろう?」

 伽羅は考えを巡らせた。
 太子妃を毒殺するように太子に勧めた犯人は、太子勇の寵妃『雲昭訓』であろうとちまたでは囁かれていた。
『昭訓』というのは太子の妃としての地位を現す言葉で、位としては高くない。
 何故高い位につけないのかというと、彼女の素性が極めて怪しいことに由来する。
 それでいて太子の寵を一身に集めているのも彼女である。
 男児も生んだ。
 なるほど、真っ先に疑われるのも無理はない。

「しかし雲昭訓では『太子妃』となるには『家格』が足りぬ。
 慣例から言えば、勇が皇帝となっても皇后ではなく、三妃のいずれかになるのが精々であろうな。
 それは男児を生んでいたとしても覆されることでは無い」

 太子勇が即位して、例の悪帝のような振る舞いを始めたなら雲昭訓が皇后となることも可能だったが、まだまだ目を光らせている父母が健在だ。
 そのため雲昭訓を皇后の前段階であると言える『太子妃』に立てること自体がまず不可能だった。
 臣下たちも激烈に反対したので太子勇も諦めたのだった。

「太子の持つ妃の中で一番家格が高く、太子妃に近いのは――今であれば――いや、今後も『僕射ぼくや』を父に持つ『高氏』が一番太子妃に近い。
 彼女は親に似ず学問嫌いで、到底太子妃の器ではないが……身分だけを見るならそうだろう」

 実は太子妃毒殺を画策したのは、雲昭訓ではなく高氏だったのでは?
 高熲こうけいが後ろから糸を引いていたのではないか。
 突如そう思えてきた。
 高熲こうけいは皇帝皇后を平然と騙し、正妻の供養すらおろそかにして祝い事を秘密裏にするような男なのだ。

「どのみち勇に跡は継がせられぬ。
 悪帝のようになるのは目に見えておるのに、どうして殿方にはそれが見えぬのか。
 もはや高僕射に遠慮の必要は無し。
 勇を廃するためには高熲が邪魔だ。
 隋王朝――――そして、末永い国民の平安のためにも失脚してもらおうぞ。
 それが国の母たるわたくしの役目」

 伽羅は両手を握り締めた。
 しかし、長年僕射を務めてきた高熲である。皇帝からの信頼は厚い。

「どうするのが良いかの……。
 隠していた妾に子を産ませたぐらいで、陛下が高僕射を退けられるであろうか?
 わたくしの力を持ってしても、これは難事である」

 伽羅はしばらく考え込んだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

愛を伝えたいんだ

el1981
歴史・時代
戦国のIloveyou #1 愛を伝えたいんだ 12,297文字24分 愛を伝えたいんだは戦国のl loveyouのプロローグ作品です。本編の主人公は石田三成と茶々様ですが、この作品の主人公は於次丸秀勝こと信長の四男で秀吉の養子になった人です。秀勝の母はここでは織田信長の正室濃姫ということになっています。織田信長と濃姫も回想で登場するので二人が好きな方もおすすめです。秀勝の青春と自立の物語です。

秦宜禄の妻のこと

N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか? 三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。 正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。 はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。 たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。 関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。 それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。

平治の乱が初陣だった落武者

竜造寺ネイン
歴史・時代
平治の乱。それは朝廷で台頭していた平氏と源氏が武力衝突した戦いだった。朝廷に謀反を起こした源氏側には、あわよくば立身出世を狙った農民『十郎』が与していた。 なお、散々に打ち破られてしまい行く当てがない模様。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜

蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

妖怪引幕

句外
歴史・時代
稀代の天才画師・河鍋暁斎と、小説家・仮名垣魯文。その二人の数奇な交友を描いた短編。(フィクション)

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

処理中です...