84 / 116
第十章 親子の対立
第十章 親子の対立 三
しおりを挟む
次男に与えられた美しい蕭氏を見て、太子・楊勇は日々不満を募らせていた。
弟の分際で、次期皇帝の正妃よりも美しい妃を娶るとは何事か。
辞退して兄に譲るのが筋ではないだろうかと憤っていたのだ。
弟に与えられた妃は儚なげで、南朝独特の優雅さがある。
清らかな容姿ながらも出るべきところは出て、紅く艶めく小さな唇にも品の良い色気が漂っている。
捨て子同然だったとはいえ、南朝後梁の尊い血筋であるところも良い。
美少女蕭氏は、実に太子好みであったのだ。
振り返って太子は己の正妃を見た。
お堅いばかりで本当に面白みが無い女である。
したり顔で論語などをそらんじて、色気のかけらもない。
しかも妃は『太子の浮気』をことあるごとに母に暴露するので、そのたびに太子が呼びつけられ、叱責された。
すでに太子妃・元氏がいるばかりに蕭氏をもらい損ねたと感じた太子はますます酒色にふけり、父母からの叱責もなんのその。
妖艶な美女を探させては愛妾を増やし、それらばかりに子を産ませ続けた。
完全に父母や次男広に対する当てつけである。
そして――――ついには邪魔な正妃に毒を盛って殺してしまったのだ。
伽羅の怒るまいことか。怒髪天を衝く勢いであった。
「許しませぬ。此度は絶対に許しませぬっ!」
元々伽羅は、実姉を逆臣・宇文護に毒殺されている。
愛娘・麗華をその夫である悪帝になぶられ、自身も痛めつけられたことのある身である。
可愛がって育ててきた愛息の姿が、その瞬間、悪辣だった亡き悪皇帝や宇文護と完全に重なった。
「もはや、看過するわけにはまいりませぬ。
太子を直ちに廃して下さいませ!」
伽羅は夫たる楊堅に廃嫡を願って迫りに迫り、楊堅はとうとう部屋の隅まで追い詰められた。
相変わらず妻には弱いのである。
皇帝堅も、この頃には太子勇を快く思ってはいなかった。
だから決して妻の意見に反対と言うわけではないのだ。
質素倹約・妃一筋を良しとする彼であるから、それも道理といえよう。
「しかし楊勇の『太子妃殺し』については、決定的な証拠が揃っていないのだ。
今すぐと言うのは流石に……」
野太くもか細い声に、伽羅も「うっ」と声を詰まらせた。
そうなのだ。毒であろうこと、太子妃が邪魔になって殺害したのであろうことは察しがついたが、どこから手に入れた毒をどのように飲ませたのか、まだはっきりとはしていない。
明白な証拠もないのに直ちに太子を廃嫡することは、宮中に動揺を呼んでしまうに違いない。
また、聡明であったはずの息子が『そんな人間』であると認めてしまうのも楊堅には苦しいことであった。
せめて証拠があがってからと言うのも無理はない。
しかし当時のことである。証拠品を隠され、しらを切られては真実を明らかにするのは難しい。
捜査しようと思えば『本人』または『下手人』を拷問にかけて吐かせるしかない。
下手人と疑われている宮女はすでに逃亡済みで、所在はわからない。
おそらくは楊勇が手引きして逃がしたか、始末してしまったのだろう。
ならば、拷問にかけることが出来るのは『我が子』のみ。
いくらなんでもそれは出来がたかった。
また、はっきりさせてしまうと、我が子を廃嫡どころか『罪人』にまで落とさねばならなかった。
楊堅は冷静な質であったが、やはり人の親である。
三男のように、官位を取り上げ庶人に落とすだけならともかく、我が子が罪人として獄に繋がれることにはためらった。
それも『太子妃殺し』となれば、大罪だ。
法に照らし合わすなら、最終的には処刑が妥当であろう。
綸言汗の如ごとしという。
皇帝が発した言葉は後から取り消すことは出来ぬのだ。
楊堅はここにきて、初めて皇帝邕の気持ちがわかった。
あのように『素養の無い嫡子』は早々に廃して、二度と日の目を見ない辺境にでも流してしまえば良いと思っていたのに、実際に自分が直面すると、ためらう気持ちが泉の水のように湧いてくる。
昔、忠誠を誓った賢帝――皇帝邕がそうだったように、楊堅も目をつぶれば、楊勇の幼少時代が浮かんだ。
無邪気で良く笑う子供であった。才気盛んで素直な子供でもあった。
共に書を読み、詩を作りもした。
この子の未来は素晴らしいと信じ、疑うこともなく可愛がったのだ。
まして初めての男児。
思い入れはどの子供よりも深い。
数日間、悩んだ楊堅は、僕射(宰相)を務める高熲という男に相談した。
この高熲は、揚堅がまだ皇帝ではなかった頃に請うて幕僚に加えた優秀な男である。
高熲は、
「安定した世では長男を太子に。動乱の時には一番に功ある男子を太子に、と古くから言われておりまする。
今の時代は陛下のご尽力のおかげで安定していると言えましょう。
どうぞ孟子(孟先生)の『長幼の序』を思い出して下さいませ。
証拠もないのに太子殿下を廃するのはおやめくださいませ。国家の一大事に繋がりますぞ」
と囁く。
高熲の嫡男は、太子勇の娘と婚約が定まっていた。
また、末娘は太子勇の妃の一人として輿入れが決まったばかりだ。
失脚されては困るという腹もあったろう。
それを差し引いても、今や分立していた国々はすべて平定し、晋が倒れて以来、約三百年ぶりに中華の統一は成っている。
倹約を美しとする皇帝夫妻の心がけにより国庫はうるおい、民の心もつかんでいる。
これを『安定の世』と言わず何と言おうか。
だが伽羅の言う通り、現太子の乱行や奢侈、礼節に欠ける振る舞いはもはや行き過ぎている。
太子妃が亡くなったばかりというのに、まるで『祝いごと』でもするかのように、その夜から愛妾たちと宴会を開いていた。
そればかりではなく、蜀人の作った絢爛麗美な鎧などを試着して喜んでいたと間諜は伝えてきた。
報を聞けば聞くほど、証拠などはなくとも楊勇が太子妃を死に追いやったであろうと思われた。
皇帝堅の悩みは深かった。
弟の分際で、次期皇帝の正妃よりも美しい妃を娶るとは何事か。
辞退して兄に譲るのが筋ではないだろうかと憤っていたのだ。
弟に与えられた妃は儚なげで、南朝独特の優雅さがある。
清らかな容姿ながらも出るべきところは出て、紅く艶めく小さな唇にも品の良い色気が漂っている。
捨て子同然だったとはいえ、南朝後梁の尊い血筋であるところも良い。
美少女蕭氏は、実に太子好みであったのだ。
振り返って太子は己の正妃を見た。
お堅いばかりで本当に面白みが無い女である。
したり顔で論語などをそらんじて、色気のかけらもない。
しかも妃は『太子の浮気』をことあるごとに母に暴露するので、そのたびに太子が呼びつけられ、叱責された。
すでに太子妃・元氏がいるばかりに蕭氏をもらい損ねたと感じた太子はますます酒色にふけり、父母からの叱責もなんのその。
妖艶な美女を探させては愛妾を増やし、それらばかりに子を産ませ続けた。
完全に父母や次男広に対する当てつけである。
そして――――ついには邪魔な正妃に毒を盛って殺してしまったのだ。
伽羅の怒るまいことか。怒髪天を衝く勢いであった。
「許しませぬ。此度は絶対に許しませぬっ!」
元々伽羅は、実姉を逆臣・宇文護に毒殺されている。
愛娘・麗華をその夫である悪帝になぶられ、自身も痛めつけられたことのある身である。
可愛がって育ててきた愛息の姿が、その瞬間、悪辣だった亡き悪皇帝や宇文護と完全に重なった。
「もはや、看過するわけにはまいりませぬ。
太子を直ちに廃して下さいませ!」
伽羅は夫たる楊堅に廃嫡を願って迫りに迫り、楊堅はとうとう部屋の隅まで追い詰められた。
相変わらず妻には弱いのである。
皇帝堅も、この頃には太子勇を快く思ってはいなかった。
だから決して妻の意見に反対と言うわけではないのだ。
質素倹約・妃一筋を良しとする彼であるから、それも道理といえよう。
「しかし楊勇の『太子妃殺し』については、決定的な証拠が揃っていないのだ。
今すぐと言うのは流石に……」
野太くもか細い声に、伽羅も「うっ」と声を詰まらせた。
そうなのだ。毒であろうこと、太子妃が邪魔になって殺害したのであろうことは察しがついたが、どこから手に入れた毒をどのように飲ませたのか、まだはっきりとはしていない。
明白な証拠もないのに直ちに太子を廃嫡することは、宮中に動揺を呼んでしまうに違いない。
また、聡明であったはずの息子が『そんな人間』であると認めてしまうのも楊堅には苦しいことであった。
せめて証拠があがってからと言うのも無理はない。
しかし当時のことである。証拠品を隠され、しらを切られては真実を明らかにするのは難しい。
捜査しようと思えば『本人』または『下手人』を拷問にかけて吐かせるしかない。
下手人と疑われている宮女はすでに逃亡済みで、所在はわからない。
おそらくは楊勇が手引きして逃がしたか、始末してしまったのだろう。
ならば、拷問にかけることが出来るのは『我が子』のみ。
いくらなんでもそれは出来がたかった。
また、はっきりさせてしまうと、我が子を廃嫡どころか『罪人』にまで落とさねばならなかった。
楊堅は冷静な質であったが、やはり人の親である。
三男のように、官位を取り上げ庶人に落とすだけならともかく、我が子が罪人として獄に繋がれることにはためらった。
それも『太子妃殺し』となれば、大罪だ。
法に照らし合わすなら、最終的には処刑が妥当であろう。
綸言汗の如ごとしという。
皇帝が発した言葉は後から取り消すことは出来ぬのだ。
楊堅はここにきて、初めて皇帝邕の気持ちがわかった。
あのように『素養の無い嫡子』は早々に廃して、二度と日の目を見ない辺境にでも流してしまえば良いと思っていたのに、実際に自分が直面すると、ためらう気持ちが泉の水のように湧いてくる。
昔、忠誠を誓った賢帝――皇帝邕がそうだったように、楊堅も目をつぶれば、楊勇の幼少時代が浮かんだ。
無邪気で良く笑う子供であった。才気盛んで素直な子供でもあった。
共に書を読み、詩を作りもした。
この子の未来は素晴らしいと信じ、疑うこともなく可愛がったのだ。
まして初めての男児。
思い入れはどの子供よりも深い。
数日間、悩んだ楊堅は、僕射(宰相)を務める高熲という男に相談した。
この高熲は、揚堅がまだ皇帝ではなかった頃に請うて幕僚に加えた優秀な男である。
高熲は、
「安定した世では長男を太子に。動乱の時には一番に功ある男子を太子に、と古くから言われておりまする。
今の時代は陛下のご尽力のおかげで安定していると言えましょう。
どうぞ孟子(孟先生)の『長幼の序』を思い出して下さいませ。
証拠もないのに太子殿下を廃するのはおやめくださいませ。国家の一大事に繋がりますぞ」
と囁く。
高熲の嫡男は、太子勇の娘と婚約が定まっていた。
また、末娘は太子勇の妃の一人として輿入れが決まったばかりだ。
失脚されては困るという腹もあったろう。
それを差し引いても、今や分立していた国々はすべて平定し、晋が倒れて以来、約三百年ぶりに中華の統一は成っている。
倹約を美しとする皇帝夫妻の心がけにより国庫はうるおい、民の心もつかんでいる。
これを『安定の世』と言わず何と言おうか。
だが伽羅の言う通り、現太子の乱行や奢侈、礼節に欠ける振る舞いはもはや行き過ぎている。
太子妃が亡くなったばかりというのに、まるで『祝いごと』でもするかのように、その夜から愛妾たちと宴会を開いていた。
そればかりではなく、蜀人の作った絢爛麗美な鎧などを試着して喜んでいたと間諜は伝えてきた。
報を聞けば聞くほど、証拠などはなくとも楊勇が太子妃を死に追いやったであろうと思われた。
皇帝堅の悩みは深かった。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~
黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。
新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。
信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。
秦宜禄の妻のこと
N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか?
三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。
正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。
はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。
たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。
関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。
それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。
愛を伝えたいんだ
el1981
歴史・時代
戦国のIloveyou #1
愛を伝えたいんだ
12,297文字24分
愛を伝えたいんだは戦国のl loveyouのプロローグ作品です。本編の主人公は石田三成と茶々様ですが、この作品の主人公は於次丸秀勝こと信長の四男で秀吉の養子になった人です。秀勝の母はここでは織田信長の正室濃姫ということになっています。織田信長と濃姫も回想で登場するので二人が好きな方もおすすめです。秀勝の青春と自立の物語です。
平治の乱が初陣だった落武者
竜造寺ネイン
歴史・時代
平治の乱。それは朝廷で台頭していた平氏と源氏が武力衝突した戦いだった。朝廷に謀反を起こした源氏側には、あわよくば立身出世を狙った農民『十郎』が与していた。
なお、散々に打ち破られてしまい行く当てがない模様。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜
蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる