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第七章 悪皇帝

第七章 悪皇帝 六

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禅譲ぜんじょう』というのは、皇帝が、血縁者ではない有徳の人物にその地位を譲ることを指す。
 悪皇帝の場合は、太子に譲るのだから、単に『譲位じょうい』が行われたと言う。
 譲位した中国皇帝は大変少ないが存在し、通常は『上皇じょうこう』または『太上たいじょう皇帝』という尊号で呼ばれる。

「そうだ、ちんは良いことを思いついたぞ!」

 臣下たちもそうだが、周りに控えている宮女たちですら不安げに瞳を揺らした。
 また悪帝が『ろくでもないこと』を思いついたと悟ったのだ。

「『上皇』や『太上皇帝』では今一つ尊厳が足らぬ。
 これから朕は『天元てんげん皇帝』と名乗ることにしよう。
 ゆえにこの場所も『天台てんだい』と称するのがふさわしかろう」

 皇帝いんはにんまりと笑った。

天元てんげん』は囲碁用語として親しんでいる方も多いのではないだろうか。
 この場合は碁盤の中心点を指す。
 そのことからもわかるように、一般的には天子、君主、または『万物成育の源』などを現す意味となる。

 次に個々の漢字の意味を探ると『天』という字ははもちろん、天帝の『天』を現している。
『元』という字は、民に義を説き、立派に育て、国都を創建し、徳のある政をおこなう――という意味を持つ。
 悪帝はどれも行っていない。天帝でもない。全くの虚飾である。
 仕事はせず、浪費と女で時間を費やしているのに、上辺を飾ることには抜かりが無いところがまたいんらしい。

「ふむ……『天』という字は今後、朕のみが使うことにして……そうだ、臣下には『天』だけではなく『高』『上』『大』などの称号を使うことを許さぬことにしよう。
 臣下が思い上がるのは良くないことだ。
 思うに、このような字を使うからこそ思い上がりの心が生まれるのに違いない。
 これらの字を使った官職名が有れば、即刻、改称させよ!」

「はは。直ちにそのようにはからいまする」

 臣下は冷や汗を流しながら拝命した。
 うかつに逆らったら死をたまわることになってしまうからだ。
 どうやら、いんは、息子に帝位を譲って面倒なことを押し付け、しかし実権は全く譲らず益々頭を高くする気のようである。
 周囲の者は皆、皇帝に気づかれぬようにそっと溜息を吐いた。
 そして、密かに集っては、

「『元』の上に『天』の文字までつけるとは、なんたる厚かましさか。
 民を可愛がることもせず、仕事もせず、常に女と虚飾にまみれていらっしゃる。
 これでは天帝様の怒りに触れてもおかしくないぞ。
 近いうちに『易姓革命えきせいかくめい』が起こるに違いない」

「そうとも。『易姓革命』は必ず起こる。
 我等も身の振り方を考えるときが来ているように思えるぞ」

 こう、囁きあった。

易姓えきせい』とは姓がわるという意味である。
これに『革命』という字が加わるのであれば、天意に沿わない愚王朝を、天帝が見込んだ傑人けつじんに倒させ、新たな王朝が興おこることを指すのだ。

 しかし左右の佞臣ねいしんにお追従を言われて過ごす、悪皇帝本人だけは天帝を気取って『大満足』であった。
 悪皇帝の評判とは正反対に、宮中では伽羅と揚堅の娘、天元てんげん太后こと楊麗華の名声が高まっていた。

「伽羅よ。今日も宮中で我等が娘、麗華のことが評判となっていたぞ。 
 麗華は心優しく、嫉妬深くもなく、その上、後宮の女性たちの尊敬を一心に集めて立派に後宮を取り仕切っているともっぱらの噂なのだ」

 さて、夫から聞かされたその噂を、伽羅はどう思ったろうか?

「そのような褒め言葉は不要にございます」

 伽羅は柳眉をあげて、そっけなく楊堅に返した。
 娘の逆境に気を揉む妻の、せめてもの慰めとなればと楊堅はそのように口にしたのだが、かえって怒りをかってしまったようである。

 確かに、宮廷人たちは楊麗華を誉めそやす。

「太后様におかれましては、後宮のすべての者にお優しくしておいでだとか」

「いつも質素にしておられるそうだ。品のある貴人というのは、まさにあのような方のことを言うのだ」

「私財を投じ、健康を損ねた者たちを医師に見せておられるとか」

 それらの噂はまるで、悪皇帝への不満を表に出せぬ『代わり』だとでもいうようだった。
 だからこそ伽羅は、心から喜ぶことが出来なかったのかもしれない。
 麗華が欲しているのは美辞麗句ではなく、苦労を共にしている後宮の少女たちの安寧である。
 必死で少女たちの待遇を何とかしようとしているのが間諜の報からも伝わって、それは伽羅の胸が痛むほどであった。

 悪皇帝は、今や国で一番の貴人。
 もはや娘を助けたくとも助けられはせぬ。
 後宮に押し込められた少女たちのことも救えぬ。

 夫の揚堅は能力を認められて幼帝の補佐と決められた。
 外戚でもあるので本来なら相当の権力を持つ。
 しかし、愛娘を人質に取られているようなものなので、何一つ動けない。
 苦言一つ呈しただけで、あの皇帝は麗華のことを『天杖』で激しく打つだろう。

 童女でありながら嫁した愛娘のために、何一つ出来ることがない。
 それは伽羅にとって、身を焼くような苦しさであった。
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