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第六章 楊麗華と幼妻

第六章 楊麗華と幼妻 九

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 それから間もなく、皇帝ようは太子を枕元に呼びつけた。
 この頃は、三十代の若さもあって体調も回復していたが、突如重病のふりをしたのにはわけがある。

「病床にある朕の代わりに、太子であるそちが大軍を率いて『吐谷渾とよくこん』を征服して見せよ。
『絹の交易路』を確保するためには、敵対するこの『吐谷渾とよくこん』を屈服させねばならぬ。
 朕も大事な戦には必ず親征して将兵の意気を大いに上げさせたものじゃ。
 なに、北斉征伐に比べれば、小国の『吐谷渾とよくこん』を落とすなぞ、簡単なこと。
 これをもって宮中にはびこるお前の汚名を晴らすのだ。
『次期皇帝』としての『真価』を輝かすのは今であるぞ」

 と、そう言ったのである。

 太子は帝位を継ぐために存在する。
 たとえ皇帝が親征したとしても、跡を継ぐべき太子が共に出征するのは稀と言えよう。
 まして、青海一帯を支配する『吐谷渾とよくこん』は身体能力の高い猛将がそろっていて、混戦が予想される。
 このような危険な場所には『跡継ぎ』を行かせぬのが定石だ。

 もちろん、国の興亡を決するときや、太子自身がよほど武勇に優れて自ら望む場合は例外であるが、それでもやはり稀である。
 皇帝が壮健である頃に『お飾り』として危険のない場所にちょこっと行く程度が精々であるから、この場合は――太子自ら遠征に行く必要などなかったのである。
 それでもあえて命じたのにはわけがあった。

 太子の暗殺。

 親である皇帝ようがそれをとうとう決断し、けじめをつけることにしたのだ。
 その決断は、すでに内々に尉遅熾繁の関係者たちに伝えられている。

 さすがにそこまでの決意を聞かされては、宇文温やその一族、尉遅一族も黙るしかなかった。
 もちろん、そんな乱暴な手段を使わずとも公的に太子を廃することは出来た。
 だが、罪状をなんとする。
 臣下の婦人を寝取ったからだとでも言うか。

 それでは尉遅熾繁は以後も名を辱められ、史書にさえ残るだろう。
 親族も赤っ恥をとどろかせることになる。

 では酒に酔うを罪とするか。
 それも到底無理だ。廃嫡はいちゃくに足る理由ではない。
 あんな太子でも援護する勢力があり、臣たちの心が二つに割れては国力を削ぐことになる。

 ならば、手は一つしかない。
 それは愚息を戦に赴かせ、その間に暗殺することであった。

 太子の罪は重く、もはや生かしておいては国のためにならぬ。
 懲罰杖で散々に打ち据えたところで『反省』などもしない。
 太子が東宮に戻って早速やったのは、反省ではなく、鬱憤晴らしとして少女たちに暴力を振るうことであった。
 廃位して名ばかりの爵位を与えても、愚息は必ずや騒動を起こし、次に立てる太子の足を引っ張るであろう。
 皇帝ようはそう考えた。

 戦自体は、上開府儀同大将軍の王軌おう きと宮正の宇文孝伯うぶん こうはくを太子に随行させることで、勝利の算段はすでにつけてあった。
 いずれも皇帝邕が逆臣の傀儡であった時代から尽くしてくれた忠臣たちである。

 しかし、太子にだけは、戦で死んでもらわねばならぬのだ。
 死なぬならば、密命を帯びた刺客が食事に毒を盛る。
 もしくは乱戦の中、敵に紛れて太子を殺す。

 それは一種の親としての思いやりでもあった。
 醜聞によって刑に処するより、国のために出征してこうずる(死ぬ)方が後世の評価も高くなる。
 親を困らせてばかりの愚息とはいえ、最低限の名誉だけは守ってやるつもりであった。

 しかし皇帝ようも人の親。
 子の幼かったころを思えば涙腺も緩んだ。

「思えば朕は情けない父であった。
 いんが物心ついてより十二年。みっともない姿ばかりを見せ続けてきた。
 兄帝たちの仇である宇文護に礼を尽くし、奴が座して朕が傍らに立つことすらあった。
 ……傀儡としてしか生きられぬ父を見るのは、さぞつらく、惨めであったことだろうよなぁ」

 そう呟いて涙を落とした。

 また、宇文護を排斥して間もなくやった、仏教の大弾圧についても振り返った。
 その頃の仏教は大いに腐敗しており、人々は税や兵役逃れ、労働の免除を狙って次々と私度僧しどそう(公式な許可を受けることなく出家した僧)となっていた。
 あまりの有様に、仏尼の乳母を持つ楊堅ですら眉をしかめるほどであった。

 ついに国家の財政や兵員の確保を脅かすほどの事態となったので、皇帝はやむなく仏教を弾圧し、私度僧を強制的に還俗げんぞくさせることにした。
 そうして一国民としての義務を全うさせたのである。

 結果、仏教徒の大部分は皇帝邕ようを恨んだ。
 崇高な志のある僧は粛々しゅくしゅくと受け入れたが、大部分の僧の目当ては別にある。
 適当に経などを唱えておれば、貴族や富裕層の喜捨きしゃ(お布施)に頼って暮らせ、しかも兵役まで逃れることが出来るのに、その道を閉ざされてしまったのだ。
 それは逆恨みの類と言えるが、仏教を支持する人々は太子が暗愚に育っていく様子を見て、

『それみたことか、仏教を弾圧した報いだ。
 仏罰が下って長男は悪太子に育ち、次男までもがろくでもない』

 と、噂した。

 実は、太子だけでなく、父を敬わぬ兄に習って次男までもが酒色に溺れたロクデナシに育ちつつあったのだ。
 皇帝にとって、それも頭痛の種であった。

 仏教の大弾圧を行わねば、太子は幼いころの素直さを持ったまま大きくなったのであろうか――と、ふと思いを馳せる。
 言葉を舌っ足らずに話し始めたあの頃。よちよちと歩いて抱き着いてきた幼き日。
 すべてが懐かしく思い出される。

「いや、今更もう、何も言うまい」

 彼は首を左右に振ってわが子への思いを絶ち切った。
 仏教の大弾圧を行わねば、そもそも国家は破たんしていたのだ。今更惑うて何になる。

 そして、

「必ずとどめを刺すように。
 見事、尉遅迥や宇文温の恨みを晴らし、我が国を助けて見せよ」

 と、刺客に命じた。
 雪のちらつく冬の日のことであった。
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