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思い出したい
しおりを挟むアビーが扉を閉めた。シンと静まった寝室には先客がいなかった。
旦那様の寝室に繋がる扉に、自然と目がいった。
私と夫婦になりましょう、と告げた次の日から旦那様がこの扉を開けることが多かった。
最初、旦那様は「怖気づいたのか」なんて難しい顔をしていたのに、次第に私が寝室にいることを確認して安心したように目を緩めるようになっていたことには気付いていた。
きっと私も、振り向いたときに同じような顔をしているだろうと。
皺ひとつなく整えられた、冷たい寝具に手を沈める。
目を閉じたが、瞼の裏には今朝の旦那様がいた。それがどうにも気になって眠れそうにもなかった。
体調を崩したと聞いたから。だから。また、旦那様の寝室へ繋がる扉へと近づいた。
ドアノブを握り、ゆっくりと回したつもりだった。
鍵がかかっているのか、ドアノブすら動かない。
この扉の鍵を持っているのは旦那様しかいない。
そして今まで鍵をかけられたことのない扉に鍵をかける意味を邪推してしまいそうになり、体調不良だと聞いたはずだと頭をゆるりと振った。
もしかして、旦那様はミア嬢の待つ別宅へと行かれたのでは。
旦那様の帰りを待ったあの日よりも強い渇望と寂しさを打ち消そうと、旦那様の温もりを反芻しながら目を閉じた。
───翌朝、旦那様は朝の庭に現れなかった。
何度も何度も、遅くなったと姿を現すのではないかと振り返ってしまう。
しかし、何度振り返っても、旦那様は私の元へやって来なかった。
すっかり太陽が昇り切った庭から朝の支度が整った邸の中へ戻ると、旦那様の従僕であるアデルが忙しそうに目の前を横切った。
その時、またあの匂いがしたような気がした。
「アデル、奥様の前です。控えなさい」
「し、失礼いたしました!」
ステファンの声に驚いたように体が跳ね、勢いよく振り向いたアデルは顔面蒼白といった様子で壁際に寄り、頭を素早く下げた。
アデルは元々、アドラー公爵に──旦那様のお父様であり、今は領地にてご静養中──仕えていた従僕見習いで、アドラー公爵が領地へ居を移す際に王都に残る旦那様の従僕見習いへと配置された。
この度の件で旦那様に長年使えていた従僕の席が空き、見習いから正式に旦那様の従僕となったのだった。
アデルはまだ少年と言えるほど若く見えるが、落ち着いた働きぶりだと聞いている。
急に見習いから昇格することとなり、十分な引継ぎが出来ていなかったと思っていたが今のところ問題は無さそうだと思っていた。
そのアデルが、邸内にいるということは旦那様も邸内にいらっしゃるということであり
朝からこのように慌てているのは旦那様に何かあったのでは無いかと不安で心が落ち着かない。
「アデル、旦那様はどうされたの」
冷たい視線を送るステファンの横から視線を下げたままのアデルに声をかけると、一層俯いてしまって表情が見えない。
「奥様、申し訳ございません。ジョエル様は……昨夜からご気分がすぐれないようで、朝食も今朝は自室で取られるとのことです」
一晩休んでも体調が戻らないというならば、また医師を呼ばなくてはならない。
「そう……では、後ほどお見舞いに伺うわね。お医者様を呼ばなくては……」
「いえっ、し、しかし……」
アデルは弾かれるように顔をあげたが、何か言いづらそうに視線をうろうろとさせている。
「何かあったの?」
「その、医師は必要ないかとお見受けしました。体調では無く、あの、ご気分がすぐれないご様子で……ジョエル様は……あの、奥様には……お会いしたくないと……」
アデルの淡い眉がキュッと下がり、申し訳なさそうに言葉を続けた。
旦那様は私に会いたくないと、部屋に籠っているのか。
あの鍵は、そういう意味なのか。
私から逃げようと、私に背を向けようとしているのか。
私の心の内を暴いておきながら。
「──そう……旦那様がそうおっしゃっているのね。では、尚更会いに行くわ。今すぐに」
不思議と、会いたくないと聞いても悲しくは無かった。
もしかして、私は怒っているのだろうか。
ぐらぐらと煮えるような熱さを感じながら、旦那様の私室の方へ続く廊下へ向き直るとアデルが慌てたように前へ飛び出して来た。
ステファンがアデルと私の間に立ち、アデルの視線を遮る。
「し、しかし、あの、ミア様が別宅に移られたことについて、気持ちの整理がついていないご様子だと思われます。今だけ、ジョエル様のお気持ちの整理がつくまで見守って頂きたいのです……」
「アデル、どなたに向かって意見しているのかわかっていますか。弁えなさい」
私からはステファンの表情は見えないが、聞こえてくる声が更に低くなり温度を無くしていく。
「も、申し訳ございません……っ、ですが、ジョエル様はミア様のお立場に心を痛めているご様子で……っ」
アデルは細身の体をカタカタと震わせながら膝を床についた。その様子を見ていると、ステファンが弱い者をいじめているようでアデルが可哀想になってくる。
「──アデルが旦那様に親身になって仕えてくれているのはわかりました」
そう震えるアデルに伝え、旦那様の部屋へと向かった。
*
なおも食い下がるアデルをステファンに任せ、来たものの。
歩いているうちにどんどん怒りの火力が萎んできてしまった。
会いたくないという言葉に触発されて、つい今すぐ行って話を聞こうなんて言って。
旦那様は私に会いたくないとおっしゃっているのに。
鍵までかけて。
でも、どうしても直接聞きたいと突き動かされたのだ。誰かから間接的に聞かされる話では無く、旦那様から直接聞きたいのだ。何を考え、何を感じ、これからどうしたいのかを。
私の私室を通り過ぎ、旦那様の私室へと近づく私に気付いたクリフの部下の騎士が、旦那様の扉をノックした。返事は無かったが、扉を開くように指示し私一人だけ部屋の中へと身を滑り込ませた。
居間には姿が無く、朝食の支度も整っていない。
旦那様はどうやら寝室にいるようだ。
寝室に続く扉に向かって息を整え、声をかけた。
「──旦那様、クリスティーナです。ご気分は……」
頭の中で準備していた言葉の途中だというのに、間を置かずガタリと扉が開き驚いた表情の旦那様が見えた。
「君か。どうして……あぁ、いや、今朝は会えないかと思っていたよ。入って」
手を引かれるまま寝室の方へと足を踏み入れると、長椅子の前の机に書類が広がっていた。どうやら、寝室で仕事をしていたようだ。
私の手を握ったままの旦那様の表情には憂いや影が見えず、拍子抜けしてしまった。
詰まっていた息を吐きながら旦那様へ向き直る。
「旦那様、ご気分がすぐれないとアデルから聞きましたわ。お加減はいかがですか? それに私には会いたくないとも聞きましたが、私から逃げるのですか? 昨日は私に隠し事をするなと詰め寄ったのは旦那様ですのに──」
なぜだか少し頬を緩めていた旦那様を真っすぐ見つめ、怒っていると伝わるように詰め寄るが、旦那様は目を丸くした。
「ちょっと待ってくれ。君に会いたくないと聞いた? 俺が君に?」
「はい。アデルから聞きました。ご気分がすぐれないことと……わたくしには会いたくないとおっしゃっていると……。アデルは旦那様を気遣って、心の整理がつくまで会いに来てくれるなと進言がありましたけれど、昨日の今日で私を避けるのは、私から逃げるということです。そんなの……悔しいじゃありませんか。私は正直に心の内を見せたのに……」
旦那様は手を顎にやると、何か考える様な間が出来た。
「──そうか。それで、君から会いに来てくれたんだね。嬉しいよ」
考えがまとまったのか、調子を戻してまたニヤリと笑う。
「……旦那様を問い詰めるためです。なぜ私に会えないのですか。アデルからおおよその話は聞きましたが、私は旦那様から直接聞きたかったのです。旦那様の言葉で」
少し、拗ねたような口調になってしまった。昨日から調子が狂う。
「そうだね。昨日から君にばかり話せと言って、自分は話さないなんてずるいな。──しかも、早速すれ違うところだった。君が来てくれて本当にうれしいよ」
旦那様に長椅子に座るよう促され、旦那様と並んで腰かけ次の言葉を待った。
「……昨日、君と話して気付いたことがあるんだ」
「なんでしょうか」
「──俺は正直、まだ君のことを思い出してはいない」
わかっているという麻酔をかけたはずの胸が、それでも痛んだ。
「事故から回復して邸に戻ったら、妻だと名乗る見知らぬ女性がいて……驚いた。それに、ルートンでの歌姫──彼女がミアだったことや、子どもが出来ていたということも教えられて……混乱していた。混乱していたとは言え、君には辛く当たってしまったことを申し訳なく思っている。君は……俺の帰りを待ってくれていたのだろう。それなのに……」
先ほどまでの表情を消して、ポツリポツリと話す旦那様の横顔は嘘を言っているようには見えなかった。
「あの日、もう一度夫婦にならないかと言われて……戸惑った。でも、同時になぜか嬉しかったんだ。それに、最初から……なぜだか君を見ていると、言葉にならない気持ちが沸いて来るんだ。その理由が知りたいのに君とは上手く話すことが出来なくて──クリフに嫉妬したよ」
私の手を握っている、旦那様の手の力が少し強くなった。
「クリフにですか?」
「あぁ。俺の妻だと言うのに、クリフの方がよっぽど上手く話せているんだ。……羨ましいと思った」
見られている気がして、握られた手から視線を上げると、旦那様が私の方を見ていた。
旦那様の蒼い瞳に、私が映っていた。
「そして、自分の中にある嫉妬に気付いて、君と過ごし、昨日の君の涙を見て……思い出したいと思ったんだ」
旦那様の指が、私の右手首にある金の鎖を撫で揺らした。
「君に……以前の俺はプロポーズをしたんだろうか。なんて言ったんだろうな。きっと君の花嫁姿は綺麗だっただろう。……君と過ごした日々はどんな時間だったのだろう。……俺だけが知っていただろう君のことがあったのだろうと……思い出したくて、仕方なかった。でも、どうしても思い出せないんだ。自分が情けないよ」
旦那様が滲んでいく。
パタパタと落ちる涙が、旦那様と、私の手を濡らした。
「君を、今の君を知りたいんだ。もう泣かせたくない。君を大切にしたいんだ……。どうしたらいいだろう」
掠れ、絞り出すような声だった。
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