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過ぎ去ってしまった
しおりを挟むどれほどの時間、旦那様の腕の中にいたのだろうか。
私の心の深い部分まで滲みてきそうな温もりも、旦那様の従僕のアデルによって終わった。
「──ジョエル様。そろそろ朝食のお時間です」
アデルの登場に驚いたのか、旦那様の腕が跳ね、力が緩んだ。触れてくれるなと責めても、逃れようともがいても引き寄せられて、心の距離を埋めるかのように強く囲われていた腕の中から跳びのいた。涙で濡れた顔を見られないようにアデルと旦那様に背を向けた。
「あぁ……アデルか。わかった」
旦那様の手が優しく肩へと乗せられた。
「君も一緒に行こう」
だめだ。蓋をしていたはずの感情が出口を見つけて溢れ飛び出してしまった。心と頭の中は掻き乱され、とてもじゃないが”公爵夫人”の顔を作れない。
「……私は支度をしてから食堂に参りますわ。先に始めていてください」
「そうか……では、食堂で待っているよ。ステファンも近くにいるんだろう」
声が震えないようにしたつもりだったが、まだ立て直せそうにないことが伝わったのか、労わるように旦那様の優しい手が肩を撫でた。私はその手を、まだ握り返すことが出来なかった。
「──旦那様。今朝、ミア様が別宅へ移りました」
アデルの声に旦那様の手が、私の肩の上でピクリと固まった。
「……あぁ、わかった。アデル、続きは歩きながら聞く」
肩に触れていた温もりが離れて行き、足音が遠ざかる。
遠ざかって行く足音とは反対側から、いつもの二人分の足音が聞こえて来た。
私と旦那様が何をしていたかなんて、ステファンとアビーが居た方向からは、きっと見えていただろう。
悪あがきだが、未だ止まらない涙を手で拭い軽く息を整えた。
*
その日の晩餐の時間にはクリフが戻り、ミア嬢は無事に別宅まで移されたと聞いた。
事前にお医者様を別宅に待機させていたが、どうにも興奮して取り乱したようで口頭の問診のみで終わったとのことだった。
ミア嬢は信頼できるお医者様なら診察を受けることはやぶさかではないらしく、私の息のかかった医師は信用ならぬと旦那様かせめて旦那様の従僕のアデルを呼んでほしいと訴えている。
その他、ミア嬢は別宅を気に入ったようで、外出を禁じられても粛々と受け入れたそうだ。
クリフから詳細を聞きながらティーカップを机に下し、細く長い息を吐くと体が少し軽くなったような気がした。
旦那様は気分が優れないらしく、早めに私室へと戻られたため
私一人で報告を聞くこととなったが、これでよかったのかもしれないと息をついた。
「──ようやく力が抜けたわ」
「そうだな。それで、朝なにか言いかけていなかったか?」
「ええ。そう、最近の旦那様についてよね」
今朝言いかけていた旦那様の様子について、クリフに説明した。
ミア嬢の歌が聞こえると、旦那様は何も映さない目になり様子がおかしくなること。
そして、それはミア嬢に最初についたメイドも同じ様子になる時があるということ。
それらを一息で説明する。
「なるほど」
クリフは持っていたワイングラスをテーブルに戻すと、脚を組み替えた。
動きが止まったタイミングを見計らって、言葉をつづける。
「でも、人によるのよ。邸内の全員がそうなるわけではないの。おかしいと思わない?」
「それはおかしいね。……まあ、ミア嬢も別宅に移ったから今後の心配は無用だと思うよ」
「……そうかしら」
確かにミア嬢を別宅へ移したのだから、もうあの歌は聞こえてこないだろう。
だけれど、そのままにしていいのだろうか……
「──”魔に魅入られる”」
「なんだって?」
あの時の出来事を今一度、思い返していたら口から漏れてしまった。
「あぁ、いえ……ステファンがね、言っていたの。"魔に魅入られる人間と、そうでない人間がいる"と。それを思い出しただけ」
クリフは言葉を反芻するように押し黙ってしまった。
その顔は少し、疲れているように見えた。
「クリフは朝早くから王宮とここへ行ったり来たりで大変だったでしょう。今日はもう早く休みましょう」
「……あぁ、そうだな。ティーナも、ゆっくりとおやすみ」
力なく笑ったクリフの表情からは感情が読めない。
クリフも昔ほどは何を考えているのかは、わからなくなってしまった。
それは、お互いに大人になったことも一つの理由かもしれない。
なんでも心の内を話すことが出来た、あの時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
今日は意図したタイミングでは無かったけれど……
私の気持ちを旦那様に話すことが出来た。引き出された、という表現が正しいけれど。
今度は旦那様の気持ちを知りたい。
旦那様の本心を。
普段より口数が減ってしまったクリフの様子が気になるものの、今日も律儀に部屋まで送ってくれた。クリフの様子が心配だけれど、いつか思考が整理出来た時に話してくれるようになるかもしれないと楽観的な結論を出した。
良い夢を、と挨拶もそこそこに部屋の中へと吸い込まれる私の背中を、じっと見つめるクリフの昏い瞳には気づかなかった。
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