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妻気取り

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もぞり

腕の中から温もりがスルリと抜けた。
温もりを追いかけるように瞼を上げると、困惑した顔の旦那様が身を起こしていた。

「なぜここにいる」

冷たい声だった。
昨夜、私の名を呼んでくださった旦那様の声とは違って硬質で冷たく、警戒を含む声だった。

見渡せば、ここは旦那様の寝室だった。
あれから暫く、また起きないだろうかと旦那様の背を撫でるうちにそのまま眠ってしまったのだろう。

「──さっそく妻気取りか」

耳を刺した言葉の鋭さに驚き弾かれるように顔を上げれば、こちらを見る旦那様の表情は苦々しく困惑気味に歪んでいた。

「妻気取りなどと……おっしゃらないでください」

なぜ。そのような言葉を浴びせた旦那様が、そのようなお顔をされるのですか。

「俺からしてみれば、君は知らない女だ。知らない女が勝手に寝室に入ってきていたら不愉快だろう」

「──おっしゃる通りですわね。ジョエル様のご様子を見に寝室に勝手に入室して失礼いたしました。でも、幼子のようにしがみついてきたのはジョエル様ですのよ。都合よく記憶を無くす人にこれ以上何を言っても困らせるだけですわね。失礼いたしました。人をお呼びしますわ」

その苦々しい表情が、愛する人以外と共寝してしまったというような表情に思えて
表情を崩してしまおうと、つい、憎まれ口を叩いてしまった。

旦那様は目を丸くし、「それは」だとか何か言おうとしていたが
私のドレスが緩んでいなかったことを見るとあからさまにホッと息をついていた。

旦那様の枕元にあるベルをチリンと鳴らすと、初々しい動作でまだ少年のように見える小柄な侍従──名前はアデル──が入室した。

「おはようございます。ジョエル様。奥様」
「ええ、おはよう。アデル、アビーは部屋にいるかしら?」
「はい。温かい湯を用意してお部屋で待っています」

アビーは幼い頃からの私の侍女だ。
昨日の混乱の中、ステファンと一緒に困惑する使用人たちを取りまとめてくれていた。

アデルにこの場を任せ、私も自室へ下がろうと旦那様の方へと視線を戻すと旦那様はアデルを確認するように見ると不安そうな顔を私へ向けた。

「アデルはまだ見習いだろう」
「──ジョエル様の従僕は今回の視察に同行し事故で……なので、見習いでしたが前従僕に細事教わっていたアデルが今後正式に従僕としてつくことになります」
「あぁ……そうだったな。そうか……」

長年の従僕の最期すら覚えていなかったことに思うところがあったのか、悲しげに目を伏せた。
アデルは元々、前アドラー公爵である義父の従僕だったが義父が領地で静養するにあたり
まだ若いアデルはそのまま王都に残る旦那様の従僕になることとなった。

幼いころからの旦那様の従僕の後について回るアデルの様子は雛鳥のようだった。その印象が強いのだろう。

細く長く息を吐くと、そばに控えるアデルに視線を戻した。

「いや、すまない。アデル。顔を洗いたい」
「はい。こちらにご用意しております」

二人のやり取りを確認しアデルにその場を預け、旦那様の寝室から続く扉を開け自室に戻った。

扉を閉めれば、いつの間にか力の入っていた体の疲労に気付く。

「──妻気取り」

「妻気取り、がなんですか?」

「アビー、おかえりなさい」

「おかえりなさい。お、く、さ、ま」

アビーは上から下まで舐めるように観察すると少し怒っていた顔を緩ませ、はーっとため息をついた。

「着衣の乱れもなくそのままのご帰還、安心しました」

「なにもないわよ」

「あったら驚きますよ! あの状況で! この流れで!」

「声が大きいわ。旦那様は倒れられたのよ、そんなことになるはずないわ」

「なった人がこの邸にいるのにですか?」

「……今、その意地悪はおもしろくないわ」

「私もおもしろくありません。大変だったんですよ、ミア様のお世話!」

アビーに背を押され、寝室から支度部屋へと足を動かす。

華やかな壁紙の手ごろな広さの支度部屋の壁際には大きく華奢な白い化粧台が置かれている。その前に立つとアビーは口を動かしながらも皺になってしまった簡素なドレスを手早く脱がせ、肩にローブをかけてくれた。このまま朝の身支度に入るのだろう。

「ジョシィの側にいかなきゃ、ジョシィが呼んでる、ジョシィジョシィ! なんですか、ジョシィって! よくもまあ、あのように品のないあだ名をこの公爵家で言えたものですね! 厚顔無恥とはこのことです!
 部屋の中で見張っていたはずのメイドに何を吹き込んだのか味方につけて邸の中を歩き回るわ、止めればお腹が張るからどうの、私の体はジョシィの物だから触れるなどと! 振り回されるメイドもメイドです。また見習いからやり直しです! 騎士様に見張られやっと部屋の中で落ち着いたかと思ったら歌い出して……」

よほど鬱憤が溜まっていたのか、不満を吐き出す口は止まらない。
しかし、手も止まらないのだから私の侍女は有能だ。

「ええ。聞こえたわ」

「なんとも不思議な歌声でしたね」

「──歌姫だそうよ」

化粧台のスツールに腰をおろすと、鏡に少し疲れた顔の女が映った。
旦那様を聖母のように包み抱いていたミア嬢の横顔を思い出して、鏡の中の自分から目を逸らした。

アビーは私の──ミア嬢より暗い色の赤毛をゆるりと解し、丁寧に櫛を通していく。

「まぁ! 王都では聞いたことがありませんが、有名な方なんですかね?」
「ルートンで活動されていたのですって」

ルートン、という単語に何か思うところでもあったのか、アビーの手が一拍止まった。
どうしたの? と鏡越しにアビーの目を覗けば、またゆっくりと櫛が髪をするりと撫でた。

「──またルートンですか。歌姫といい、クピド様といい、ルートンは話題にこと欠きませんね」
「クピド様?」
「ええ、はい。最近若い娘たちの間で有名みたいですよ。なんでも恋に悩む乙女を導いてくださるとか、運命の相手を教えてくれるだとか、惚れ薬だの……まあ、ただの行商人でしょうね」

運命の相手を教えてくれる、だなんて。確かに若い娘たちが喜びそうな宣伝文句だ。

「それはそうと奥様。ご朝食は食堂にご用意しておりますが、よろしいでしょうか」
「ええ。旦那様はどちらでお食事をなさるご予定かしら……」
「……ミア様のお部屋です」
「そう……、では私は食堂で問題ないわ」

化粧台の鏡越しに、アビーの心配そうな顔が見えた。



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