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あなたの妻です

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「驚いたな。君は若いのに実務経験があるのか」

重厚で歴史を感じるが、丁寧に手入れされ大切に使用されて来た家具や
何代もこの公爵家の執務室にいたであろう古い本が並ぶ本棚。
本来の主人の帰宅を喜ぶかのように、今日の執務室は明るく感じられた。

旅の疲れも落ち着いた頃合いを見計らい、旦那様が不在の間に行った当主代行としての執務内容を報告することにした。

処理別に仕分けした書類の文字に目を通す旦那様の面差しは以前と変わらない。
目を伏せた時に出来る、頬に落ちた金の睫毛の影も変わらない。
私の書いた文字を辿る指先も、変わらないのに。

「これほどしっかりとした妻がいれば、クリフが婿入りしても安心だな。クロッシェン侯も安心なさるだろう。ほら、弟は真面目だが騎士一辺倒だから。職業柄、妻を迎えるのはと躊躇していた様子だったから心配していたんだよ」

旦那様は書類から目を離さず、ほっとしたように口端だけ持ち上げた。

実家のクロッシェン侯爵家に跡継ぎはいない。
私と旦那様の間に出来るであろう二番目の子が、未来のクロッシェンを名乗る取り決めだとお父様から聞いていた。

それなのに、人生とは計画通りにはいかないものだ。

神の御前で誓った夫婦より先に産まれる、ミア嬢と旦那様の子の立ち位置。
そして実家のクロッシェン侯爵家とアドラー公爵家はどうなるのか……

家のことだけではなく、自分の内面も不安定な今
旦那様の言葉に上手く反応できない。

しっかりしている、だろうか。
自傷気味な笑みが出てしまった。

旦那様がお戻りになる予定だった日。
私は今か今かと窓の側に立ち、旦那様一行の帰りを待っていた。

いつまでも見えてこない馬車の影にだんだんと不安が胸を黒く染めていった。
執事のステファンが迎えの馬を飛ばしても行方がわからない。足取りもわからない。

ようやく一報が戻ったと思えば、崖に続く車輪の跡に大破した馬車の発見……もう、もしかしたら二度と会えないのかもしれないと喪失感が身体を震わせた。

”まだ旦那様の一部も見つかってはいない”

それだけが私の希望で、終わりの見えない悪夢の入り口だった。

最悪の想像に眠れぬ夜を幾夜過ごしたか
無事を知らせる報にどれほど安堵したか
やっと、やっと、旦那様に会えると。どれほど、嬉しかったか。

そして、手と手を取り合う旦那様とミア嬢を見て。
会いたかった旦那様に忘れられ。
私の知っている「旦那様」は幻だったのではと思い始め……

何度も何度も気持ちを揺さぶられ、おかしくなりそうだ。
期待に振り回され、何度も不安に潰れそうになるのだ。

私が縋り付いているのは、「私の旦那様」との思い出の時間だ。
私が知っている旦那様自体が幻だったとすれば、私は……

こんなにも旦那様やミア様に振り回されている私が「しっかりしている」?
今の旦那様にはそう見えるのだろうか。

本当の私はしっかりなどしていない。
今すぐ、泣いて、わめいてしまいたい。
そんな気持ちに、また一つ、鍵をかけた。

「────大丈夫か?」

すっかり黙りこくり俯いていた私の様子を不審に思ったのか、旦那様が気づかわし気に表情を曇らせていた。

いけない。旦那様に、言わなくては。
勇気が欲しくて、ブレスレットをまた撫でた。

「ジョエル様。重要なお話しがあります」
「なんだい?」

旦那様は余所行きの顔で続きを促してくる。

あの日の、プロポーズの時よりも固いお顔。
あの日、私たちは”始まった”のだ。

婚約式の時でも、婚姻の宣誓や、証書へのサインからではない。
あの時、2人の未来を見た時に始まったのだ。

「まず、あの、椅子にかけてお話ししましょう」
「ああ」

応接用の長椅子に、机を挟んで向かいにかける。
今の2人の距離感は、この距離。

これから私の話を聞いた旦那様は、どんな反応をされるだろうか。

思い出す?
疑う?
喜ぶ?
悲しむ?
怒る?

また、続きを始められるだろうか。

私たちの、未来へ続く道の続きを。

短く息を吐き、少し下がっていた顔を旦那様へと向ける。
こちらを見やる蒼色の瞳をまっすぐ見つめ返した。

「先ほどは気が動転してしまって伝えられなかったのですが、
 私の本当の名前はクリスティーナ・アドラー。
 
 ────あなたの妻です」


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