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1巻
1-2
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公の位を持つ焔と、準皇族といわれる天聖君ならば、位階はほぼ、同格。
ならば今までまったく皇宮に顔を出してこなかった新参者の祥から礼をとったほうが角は立つまい。
「青祥と申します。名高い焔公とお会いできて光栄に存じます。山を降りて間もない身。皇宮は不慣れゆえ、何かあれば頼らせていただきたい」
一瞬間があったが、焔公はニヤリと笑う。次いで、表情をずいぶん親しみやすい微笑みに変えて丁寧に拱手した。焔公――焔皓也の挑むような空気が消えてやわらかくなる。
「私でよければ何なりと。とはいえ私も皇宮には不慣れだが。天聖君とは……いいえ、あなたとは親しくしたいもの。……焔皓也と申します」
誇り高い一族の長への挨拶としては間違っていなかったようだ、と祥は内心で胸を撫でおろす。にこ、と皓也が微笑みかけてきた。
「天聖君は、崑崙で仙になるべく学んでおられたとか。いかに一族のためとはいえ、仙になる修行を中断するのはさぞ残念であっただろう」
祥はこれには曖昧に笑った。
崑崙は、神族の中でも術に長けた者がその異能を伸ばすべく修行に励む場所。
仙術が得意だと思われるのも当たり前だ。実際は厄介者の妾腹の息子が父と義母に体よく追い払われて、たどり着いたのがたまたま山であっただけ。
「私は雑用係のようなものだ。仙術はたいして……」
「謙遜をなさるな」
邪気のない口調で皓也に言われ、真実、己に仙術の才はなかったのだが、と思いつつも、訂正はしないことにする。
迦陵頻伽の一族は異能持ちも多い。その当主であれば仙術の才能があると普通は思うだろう。祥がほっと一息ついたところで広場がわっと歓声でわいた。
「……何事か」
「ああ、試合をしているのだろう」
見てみるか、と誘われるまま足を進める。
人波の真ん中で、武官がふたり木刀を持って盛んに打ち合っていた。
大男ふたりは、それぞれ衣服の色が違う。ひとりは皇宮に勤める衛士だろう。もうひとりは黒を基調とした服。
「西域の兵だろう」
皓也が説明してくれる。
祥の視線の先で、黒い服の男が上段にかまえて剣を振り下ろす。衛士はうまく受けきれずに剣を落としてしまい、勝敗が決した。囲む人垣から歓声が上がる。
「さすが西域の兵は強い」
西域の神族は屈強な身体つきの者が多く、武芸を尊ぶ気風も相まって白兵戦であれば大華一、とも言われる。
西域と言えば、と祥はひとりの男を思い浮かべていた。
――煬真君。
西域を治める煬家の当主。地名を冠して西嘉真君とも、かつてそこにいた一族の名を冠して琅邪真君とも。あるいは、単に真君とも呼ばれる。皇帝劉文護の又従兄弟で、祖母は皇族という名門の青年だ。
皇帝いわく、「弟のような」存在であるらしい。
皇帝から「あとで紹介してやる」と楽しげに告げられたのだが……正直に言えば気が重い。
式典のあとにすれ違ったが、兜の下でよく見えなかった視線からは明らかに不満が感じられた。彼が入城したと聞いたときも使者を送って友好的に挨拶に向かおうとしたが、『今は忙しい、またいずれ』とにべもなく断られてしまっていた。
――貴様は誰だ、なぜそこにいる。たいした功もないくせに、なぜ主上の背後に控えるのか。
被害妄想だとわかってはいても、そうなじられているような気がしてならない。己の心の声だ、と理解してはいるが。
皇宮で衛士が負けては具合が悪い、となったのか今度は祥も見知った男が前に出た。皇帝のそば近くに控えるひとり、李将軍ではないか。
「我が部下が無様に負けたままでは我が軍の名折れ! 我とやり合う者はおらぬか」
宴の余興に出てくるには大物過ぎる、と少しばかり呆れたところで、再びわっと歓声がわいて人垣が揺れた。
「真君が出られるぞ」
「これは見物!」
人波がざわつき、祥はますます呆れた。
黒い皮甲に身を包んだ真君が進み出て、李将軍と何やら笑顔で言葉を交わしている。
どうやら、旧知の仲らしい。
「真君の剣の腕前を知っているか?」
「いや」
皓也の問いかけに祥は素直に首を横に振った。武術自慢が多い西域を治めるのだからそれなりに腕が立つのだろう、とは推察するが。
「真君いわく。『剣技だけならば自分が大華で一番強い』と嘯いている」
「……自信家だな。実際のところは?」
くすり、と皓也は笑った。
蠱惑的な笑みに、近くにいた女官が頬を染めているのが見える。
「真君もなかなかやる。まあ、私と同じくらいには」
皓也も負けずに自信家ではないか、と苦笑しつつ祥は将軍と真君の試合を見た。
ふたりが離れたところで剣をかまえる。
「始め!」
合図を送った途端、真君の身体が沈み込む。
あ、と思った次の瞬間には胸元に木刀の柄が強く叩き込まれ、李将軍の巨躯が吹っ飛んでいた。弾かれた李将軍の木刀がくるくると宙を舞って、皓也と祥のちょうど間に落ちてくる。狙い澄ましたかのようだな、と思いつつ祥は何の気もなくそれをパシッと取った。
周囲の人々がどよめく。
「……真君の一撃、あれは痛そうだ」
「李は動けぬが……大丈夫か」
祥は心配したが、吹っ飛んで仰向けに転がった李将軍は朗らかな笑顔で立ち上がった。頑丈でよかったなと思ったところで人垣が割れた。
「次は青家の若君が相手か!」
「天聖君が!」
「おお……素晴らしいっ!」
人々が一斉に祥を見る。
「……何を……」
戸惑いながら祥があたりを見渡すと、隣にいた焔皓也が人の悪い顔でくつくつと笑った。
「剣を拾ったのだから、貴殿が真君の次の相手だ。祥殿」
「なっ……!」
思わぬ成り行きに言葉を失う。
「宮廷の作法だよ」
「……私は」
やらぬ、と言おうとした背後でよく通る声が祥の名を呼んだ。
「これは失礼した、天聖君。剣も予期せぬところへ飛んで、恥じ入っているだろう」
真君の声だ。
祥がゆっくりと振り返ると男は兜の下、金色の瞳を獣のように光らせながら祥をにらんだ。
「それをお返しあれ。誤って貴殿のところへ飛んだのだ、怪我をするといけない」
「木の剣で怪我をする者などおるまい」
振り向きながら答えると、黒い衣服に身を包んだ屈強な一団が、くっとわずかに失笑した。
おまえならしかねない、というあざけりを感じる。
だが、特段怒る気にはならない。祥の生まれついての美貌は、焔皓也の貴公子然としたものよりもいささか中性的。それは男の集団にあっては、たびたびあざけりを受ける種類のものだ。これくらいでいちいち憤慨していては身が持たない。
「天聖君は剣がお好きだ、と主上から聞いたが……」
「たしなむ程度だ」
木刀を差し出そうと手を伸ばすと、真君はにやりと笑った。
「なるほど。たしなむか。そうであろうな。王の鳥は寝所で楽を奏でるのが似合う。剣は似合わぬ」
「……なんだと?」
軽口に、ぴり、と祥の空気がひりつき周囲の者たちが一瞬、目を泳がせた。
迦陵頻伽の一族が楽を好むことも、音曲に極めて優れていることも周知の事実だ。王のそばにあるため王の鳥と呼ばれるのも。
だが、寝所に侍るとは。
――陛下の稚児め。
と暗になじられたに等しい。
「不敬であろう」
「なんのことだか」
顔の上半分は兜でよくわからないが、ニッと笑った口元から犬歯が覗く。
明らかに楽しんでいる様子に祥は唇をかみしめた。
返すつもりだった剣を握りしめて人垣をかきわける。屈強な神族たちが作った丸い囲いの中にしずしずと進み出た。
「三本でよいか」
「何?」
「真君。あなたから先に二本取れば勝ちか」
ざわめきが大きくなり、先ほどまで真君とやり合っていた李将軍が心配そうに駆け寄ろうとするのを片手で制した。
「はっ……! 勝つつもりか」
おかしそうに真君が笑う。祥は眉根を寄せたが軽口は無視した。
対面し、互いの足で十歩ほどの距離を取って向かい合う。
「その通り。怖くなったら言うがいい。すぐに解放してやる」
「勝てば何をよこす」
「何なりと。そうだな。貴殿の命令をなんでも聞く、というのはどうだ」
「わかった」
祥は剣をかまえた。兄の急死から一年あまり。木でできたものとはいえ、剣を握るのはずいぶんと久しぶりだ。
同じくかまえた真君を眺める。歴戦の猛者だというのもうなずける。どこにも隙というものが見当たらない。どうするか、と祥は逡巡した。
「始!」
言葉が発せられた次の瞬間、あっさりと祥の剣は弾き飛ばされた。
人垣から悲鳴とも、あざけりとも聞こえる声が漏れる。
……腕力も並ではない。
瞬殺に気をよくしたのか真君は親切にも剣を拾って渡してくれた。
「さぞや手が痛むだろう。やめてもかまわんが」
「……いや」
祥は剣を受け取って頭を下げた。
「大華一の剣豪と名高い真君と試合うなど、なかなかないこと。もうひと勝負、お付き合い願いたい」
澄ました顔と声で言えば、真君はいいだろう、と気分よさげに笑った。
祥は再び元の位置に戻って同じかまえをした。
「始!」
同じ軌道で同じ斬撃が来る。
それをはっきりと見ながら祥は素早くうしろに跳んだ。
「あっ」
悲鳴が起こる。
高貴なる天聖君の胴を容赦なく薙ぎ払う……かに見えた一撃は、勢いよく空振りした。背後に逃げた祥はそのまま地上を蹴って、くるりと右に反転する。
「……なっ!」
不意を突かれた真君が体勢を立て直そうとするのを許さず、強く二の腕に剣を打ちつけた。ガンッと大きな音がして、今度は真君の剣がくるくると宙を舞う。
ゆっくりと落ちてくるそれを、わざと靴で蹴って自分の目の高さで取る。
「……なんと。真君から一本取った」
「これは……兄君にも劣らぬ」
「いやいや……まぐれやも」
観客のざわめきを聞き流しながら、祥は真君に向かってにこりと微笑んで見せた。
「ここでやめようか。さぞや腕が痛むであろう」
「……っ……、貴様、先ほどはわざと……っ」
わざとあっさり負けてみせたのか、という問いであれば、そうだと答えるしかない。弱い若造よと侮って油断したのは、真君の咎だ。
悔しげに真君が剣をもぎ取る。
「思いついた」
いたずら心がわいて、祥は口の端を上げた。
「何?」
真君がこちらをにらみつける。
「なんでも私の命令を聞く、と貴殿は言ったな?」
「言ったが、それがなんだ」
先ほどと同じ位置で互いににらみ合う。
「私が勝ったなら、私の寝所で子守唄でも歌ってもらおう」
「貴様」
「何を怒る。貴殿が先ほど私に言ったことだ――朝まで歌え」
ふたりの殺気がびりびりと周囲を巻き込む。
祥の視界の端で、皓也がやけにおもしろそうにしているのが見えた。
「貴様が勝てばな」
「勝つとも」
ただの余興を超えた一触即発の空気にどうしようかと周囲が困惑し始めたとき、のんびりとした声が割り込んできた。
「真君、祥。何をしておるのだ、ふたりとも」
真君と天聖君。この国でも上位の位を持つふたりを公衆の面前で呼び捨てにできる者など、ひとりしかいない。
ふたりはそろいもそろってびくり、と肩を震わせた。示し合わせたかのように瞬時に殺気を引っ込めると、声の主のほうへおもむろに向き直る。
「主上」
声を合わせてふたりして同じ動作で頭を下げる。
「何をしていたのか、とたずねたのだが?」
声の主は劉文護。皇帝その人である。趙大司空が背後にいて、羽扇で顔を隠しつつこちらを見ている。
祥は悪びれもせず拱手したまま顔を上げた。澄ました顔に戻って堂々と嘘をつく。
「大華一の剣の使い手と名高い真君に、教えを乞うておりました」
――教えを乞う態度だったか? と真君は小さくぼやいたがそれは聞き流す。
真君も真面目くさった態度で祥の言葉を継いだ。
「天聖君は崑崙で剣術を学んでおられたとか。私のほうが教えを乞うていたところです」
「ほう。それで互いに学ぶことはあったのか?」
「是」
「山ほど」
先ほどまでの刺々しい空気を覆い隠して穏やかに微笑む青年ふたりを見比べ、皇帝はまあよいと苦笑した。
「今日は我が即位十年の式典。そなたらは共に我が弟とも思う者。これを機会に友好を深めるように。みな、こちらへ来るとよい。旅の舞姫が音曲を披露してくれるとか」
ふたりして再び頭を下げると、皇帝は笑って去っていった。
観客も皇帝を追って散り散りになり、真君はゆっくりと顔を上げると無言で部下たちのところへ踵を返す。が、何を思ったか数歩歩いて足を止めて振り返った。
「天聖君。三本目はいつ試合う?」
「誰がするか」
苦虫を噛み潰した顔で祥が応じると真君は、ふん、と鼻を鳴らして去っていった。笑ったように見えたのは錯覚か。
「なるほど。剣術をたしなむと言ったのは嘘ではないな、天聖君、怪我はないか」
皓也が、しれっと再び近づいてきたので祥はわずかばかり鼻に皺を寄せた。
「怪我はなどと。しらじらしい。おもしろがって見ていただろう。私が叩きのめされる光景が見られず、残念か」
皓也はふふ、と笑った。
「そう怒るな。真君に勝てるかはともかく、一方的に負けることはないだろうと思っていた」
「なぜ」
「当代の天聖君は、剣聖の愛弟子だったというのは崑崙では有名な話らしいな?」
「……」
祥は言葉を失う。山でどういう生活をしていたのか、皇宮の人間が知るすべはない。焔皓也は崑崙の中に親しい人間がいるのだろう。
「警戒しなくてもよい。一族のはぐれ者が山にいるだけだ」
「それは誰だ? 私の知っている方だろうか」
「それは言えんな。ふふ、まあ、楽しい余興であった。主上の即位の式典に歓迎されぬ我ら一族が参加しても、さぞやつまらぬだろうと思っていたが、貴殿と知り合えたのは僥倖であった。真君もたまには人前で恥をかくのがいいだろう。あいつはたまに調子に乗る。またいずれ」
口調からすると皓也と真君は親しいらしい。どこか蠱惑的な雰囲気の貴公子は微笑むと、彼もまた一族の者らしき一団のもとに戻っていく。
はあ、と祥はため息をついた。
天聖君は王の宰相、王の鳥。
冷静沈着に仁愛の心を持って皇帝を正しい道へ導かねばならぬ……とされているが。
「早々に売られた喧嘩を買ってしまうとは」
屋敷に帰ったら、義姉にさぞ怒られるだろうなと思って胃が痛い。
「……あとは、おとなしくしていよう」
心に決めて目立たぬように、そろそろと移動すると、祥がひとりになったのを見計らったように、また周囲に人垣ができた。
「天聖君! 先ほどはお見事でございましたな」
「粗野な西域の主のあの顔をご覧になったか。はは、いい気味だ」
「やはり皇帝のそばには王の鳥がいなければ……!」
先ほどまではおそらく祥を馬鹿にしていただろう口で、今度は下手な世辞を言う。
うんざりだ、と思って適当に流しながら、祥は黙々と美食と美酒にまみれることにした。
視界の端で皇帝を追う。彼は宴席の首座に戻って、玻璃の盃をかたむけて重鎮たちと歓談しているところだった。機嫌がよさそうだ。
あと一刻もせぬうちにみな、それぞれ帰るだろう。
なんとなくほっとして、祥は勧められた盃を何気なく口にした。
冷えた甘い液体はするすると喉を滑り落ちる。胃までたどりついて、慌てて吐き出そうとしたが遅い。もはや、胃の腑の中に納まっている。
「……うっ……」
「い、いかがなさいました、天聖君!?」
酌をした女官に怯えの色が走る。あからさまに様子がおかしくなった祥に、毒でも入っていたかと思ったのだろう。
「い、いやすまぬ。……甘い飲み物は好かぬのだ。こ、これは何の」
女官はほっと安堵しながら答えた。
「桃の果実を酒にしたものでございます」
やはりか、と絶望が襲う。すっくと立ちあがると、祥はその場を離れることにした。
「ど、どうなさいました?」
「厠だ。ついてくるな」
あからさまな物言いに周囲は戸惑いながらも、ついてこようとはしなかった。
足早に庭を抜けて人のいない方向へ、いない方向へと逃げるように進んでいく。人波とは逆へ逆へと避けて逃げるように走っていく。
身体が燃えるように熱い。
「しくじった」
屋敷ではそもそもアレは食卓に上らないし、山では気を遣って食卓から遠ざけられていた。
迂闊な自分を呪いつつ、祥は目についた堂に身を滑り込ませた。
「ぐっ……はっ……!!」
喉に指をつっ込んで吐こうとするがうまくいかない。
「……っ……朝までここにいるしか、ないかっ……」
カッと熱くなった頭を振りつつ、ずるずると壁にそって崩れ落ちた。頭の中で音がガンガンと鳴るような気がする。息が荒くなり汗が滝のように流れていく。
「はっ……」
祥は目を閉じた。つらい。
「まさか、桃の酒があるなど……」
一族以外には知られていないことだが、いいや、伝えていないことだが、迦陵頻伽の一族は桃に酔う。どういう理屈でそのような体質になっているのかはわからないが、桃を食すると動悸が激しく、息は荒く、身体のどこもかしこも熱くなる。
要するに、媚薬をあおったようになるのだ。
子作りに励む迦陵頻伽の番同士は好んで食べる時期もある。だが、妻を持たない祥には縁遠いものだ。少年のころ好奇心に駆られて、桃を丸ごと一個食べたときは、どうにもならない、突如としてわいてきた性衝動に半日は苦しんだ。
「酒を一杯飲んだだけ、あのときよりは身体も大きい……すぐ、治まる……はず、……だ」
朝までここで過ごせばなんとかなるのではないか……
それまで誰にも会わずに……
目を閉じると下腹部に熱が集まるのを否が応でも認識してしまう。歯の隙間から漏れてしまう切ないうめき声をなんとかやり過ごしつつ、うめいていると。
「おい、そこにいるのか」
堂の外からいぶかしむ声がした。
「……っんぅ」
祥は慌てて袖を噛んだ。冷や汗が背中に流れる。
――このような場で、皇帝の即位を祝うめでたい場で、発情していたとでも知られたなら死ぬしかない。人がいるのは勘違いだと思って去ってくれないだろうか。
汗をかきながら耐えていると、扉の向こうも沈黙した。しかし、願いは虚しく堂の扉はドンと開かれた。
「おい、生きているか」
眩暈がして乱入してきた人物の姿が把握できない。
「天聖君?」
「……っ」
だが、呼びかける声で誰なのかがわかってしまい祥は絶望で喘いだ。
真君!
先ほどまで敵意を向けてきた相手が目の前にいて、自分はうずくまって痴態をさらしている。なんと情けない姿かとあざけりを受ける覚悟で薄目を開けてみた。
「な、なぜこここに」
「……いや……ええ、と。たまたまだ」
「……っう」
「俺がなぜここにいるかはどうでもいい。毒を盛られたか? 侍医を呼んできてやる。そこにいろ」
第一印象が最悪だった男は意外にも祥のそばに寄って様子がおかしいことにたじろぎ、親切に申し出る。どうも宴席で祥が誰かから毒を盛られた、と勘違いしているようだ。
「よい、……やめてくれっ」
「そうはいくまい」
祥は四つん這いになったまま、立ち上がった真君の足をはっしとつかんだ。
「ど、毒ではないっ……!」
「うん?」
「い、命には、関わらぬ……。捨て……ふ……ぅ……、置いて……! 立ち去ってくれ……っ」
「……へえ」
真君はしばらく考え込んで祥の様子をつぶさに観察する。ややあって、ふうん、とおもしろそうにつぶやいた。
「なるほど。妙に顔が赤くて息が荒いと思ったら」
息が荒いのはともかく、こんなに暗くて顔の赤さも何もわかるものか! と毒づきたかったが、声を出すと妙な声音になりそうなので、うつむいたまま荒い息を繰り返す。
すぐ近くに真君の気配がする。しゃがみ込んで覗き込まれて確かめるように指で顎をつかまれる。左右から値踏みをするかのように眺められた。
「……盛られたのは毒薬でなくて――媚薬か」
「……っ」
盛られたわけではない。勝手に飲んでしまったのだが、まあ勘違いされたほうが都合がいいので、祥は曖昧にうなずいた。
「わかったら、放って……くれ」
断続的に瞼の裏で何かがチカチカと光るような気がする。何やら考え込むふうな真君の指が、顎から離れる。視界の向こうで彼の衣服が見えた。皮甲を脱いで官服に着替えたのだな、とぼんやりと思う。
「誰に一服盛られたかは知らんが、面が無駄にいいと大変だな」
真君は妙に感心した口調で言った。
「いや、しかし、朝までそれではつらいんじゃないのか」
「……んぁっ……」
指が明らかな意図を持って、首筋を撫でる。
妙な声をあげてしまって祥は慌てて自分の口を塞いだ。
「……貴様……っ……」
ならば今までまったく皇宮に顔を出してこなかった新参者の祥から礼をとったほうが角は立つまい。
「青祥と申します。名高い焔公とお会いできて光栄に存じます。山を降りて間もない身。皇宮は不慣れゆえ、何かあれば頼らせていただきたい」
一瞬間があったが、焔公はニヤリと笑う。次いで、表情をずいぶん親しみやすい微笑みに変えて丁寧に拱手した。焔公――焔皓也の挑むような空気が消えてやわらかくなる。
「私でよければ何なりと。とはいえ私も皇宮には不慣れだが。天聖君とは……いいえ、あなたとは親しくしたいもの。……焔皓也と申します」
誇り高い一族の長への挨拶としては間違っていなかったようだ、と祥は内心で胸を撫でおろす。にこ、と皓也が微笑みかけてきた。
「天聖君は、崑崙で仙になるべく学んでおられたとか。いかに一族のためとはいえ、仙になる修行を中断するのはさぞ残念であっただろう」
祥はこれには曖昧に笑った。
崑崙は、神族の中でも術に長けた者がその異能を伸ばすべく修行に励む場所。
仙術が得意だと思われるのも当たり前だ。実際は厄介者の妾腹の息子が父と義母に体よく追い払われて、たどり着いたのがたまたま山であっただけ。
「私は雑用係のようなものだ。仙術はたいして……」
「謙遜をなさるな」
邪気のない口調で皓也に言われ、真実、己に仙術の才はなかったのだが、と思いつつも、訂正はしないことにする。
迦陵頻伽の一族は異能持ちも多い。その当主であれば仙術の才能があると普通は思うだろう。祥がほっと一息ついたところで広場がわっと歓声でわいた。
「……何事か」
「ああ、試合をしているのだろう」
見てみるか、と誘われるまま足を進める。
人波の真ん中で、武官がふたり木刀を持って盛んに打ち合っていた。
大男ふたりは、それぞれ衣服の色が違う。ひとりは皇宮に勤める衛士だろう。もうひとりは黒を基調とした服。
「西域の兵だろう」
皓也が説明してくれる。
祥の視線の先で、黒い服の男が上段にかまえて剣を振り下ろす。衛士はうまく受けきれずに剣を落としてしまい、勝敗が決した。囲む人垣から歓声が上がる。
「さすが西域の兵は強い」
西域の神族は屈強な身体つきの者が多く、武芸を尊ぶ気風も相まって白兵戦であれば大華一、とも言われる。
西域と言えば、と祥はひとりの男を思い浮かべていた。
――煬真君。
西域を治める煬家の当主。地名を冠して西嘉真君とも、かつてそこにいた一族の名を冠して琅邪真君とも。あるいは、単に真君とも呼ばれる。皇帝劉文護の又従兄弟で、祖母は皇族という名門の青年だ。
皇帝いわく、「弟のような」存在であるらしい。
皇帝から「あとで紹介してやる」と楽しげに告げられたのだが……正直に言えば気が重い。
式典のあとにすれ違ったが、兜の下でよく見えなかった視線からは明らかに不満が感じられた。彼が入城したと聞いたときも使者を送って友好的に挨拶に向かおうとしたが、『今は忙しい、またいずれ』とにべもなく断られてしまっていた。
――貴様は誰だ、なぜそこにいる。たいした功もないくせに、なぜ主上の背後に控えるのか。
被害妄想だとわかってはいても、そうなじられているような気がしてならない。己の心の声だ、と理解してはいるが。
皇宮で衛士が負けては具合が悪い、となったのか今度は祥も見知った男が前に出た。皇帝のそば近くに控えるひとり、李将軍ではないか。
「我が部下が無様に負けたままでは我が軍の名折れ! 我とやり合う者はおらぬか」
宴の余興に出てくるには大物過ぎる、と少しばかり呆れたところで、再びわっと歓声がわいて人垣が揺れた。
「真君が出られるぞ」
「これは見物!」
人波がざわつき、祥はますます呆れた。
黒い皮甲に身を包んだ真君が進み出て、李将軍と何やら笑顔で言葉を交わしている。
どうやら、旧知の仲らしい。
「真君の剣の腕前を知っているか?」
「いや」
皓也の問いかけに祥は素直に首を横に振った。武術自慢が多い西域を治めるのだからそれなりに腕が立つのだろう、とは推察するが。
「真君いわく。『剣技だけならば自分が大華で一番強い』と嘯いている」
「……自信家だな。実際のところは?」
くすり、と皓也は笑った。
蠱惑的な笑みに、近くにいた女官が頬を染めているのが見える。
「真君もなかなかやる。まあ、私と同じくらいには」
皓也も負けずに自信家ではないか、と苦笑しつつ祥は将軍と真君の試合を見た。
ふたりが離れたところで剣をかまえる。
「始め!」
合図を送った途端、真君の身体が沈み込む。
あ、と思った次の瞬間には胸元に木刀の柄が強く叩き込まれ、李将軍の巨躯が吹っ飛んでいた。弾かれた李将軍の木刀がくるくると宙を舞って、皓也と祥のちょうど間に落ちてくる。狙い澄ましたかのようだな、と思いつつ祥は何の気もなくそれをパシッと取った。
周囲の人々がどよめく。
「……真君の一撃、あれは痛そうだ」
「李は動けぬが……大丈夫か」
祥は心配したが、吹っ飛んで仰向けに転がった李将軍は朗らかな笑顔で立ち上がった。頑丈でよかったなと思ったところで人垣が割れた。
「次は青家の若君が相手か!」
「天聖君が!」
「おお……素晴らしいっ!」
人々が一斉に祥を見る。
「……何を……」
戸惑いながら祥があたりを見渡すと、隣にいた焔皓也が人の悪い顔でくつくつと笑った。
「剣を拾ったのだから、貴殿が真君の次の相手だ。祥殿」
「なっ……!」
思わぬ成り行きに言葉を失う。
「宮廷の作法だよ」
「……私は」
やらぬ、と言おうとした背後でよく通る声が祥の名を呼んだ。
「これは失礼した、天聖君。剣も予期せぬところへ飛んで、恥じ入っているだろう」
真君の声だ。
祥がゆっくりと振り返ると男は兜の下、金色の瞳を獣のように光らせながら祥をにらんだ。
「それをお返しあれ。誤って貴殿のところへ飛んだのだ、怪我をするといけない」
「木の剣で怪我をする者などおるまい」
振り向きながら答えると、黒い衣服に身を包んだ屈強な一団が、くっとわずかに失笑した。
おまえならしかねない、というあざけりを感じる。
だが、特段怒る気にはならない。祥の生まれついての美貌は、焔皓也の貴公子然としたものよりもいささか中性的。それは男の集団にあっては、たびたびあざけりを受ける種類のものだ。これくらいでいちいち憤慨していては身が持たない。
「天聖君は剣がお好きだ、と主上から聞いたが……」
「たしなむ程度だ」
木刀を差し出そうと手を伸ばすと、真君はにやりと笑った。
「なるほど。たしなむか。そうであろうな。王の鳥は寝所で楽を奏でるのが似合う。剣は似合わぬ」
「……なんだと?」
軽口に、ぴり、と祥の空気がひりつき周囲の者たちが一瞬、目を泳がせた。
迦陵頻伽の一族が楽を好むことも、音曲に極めて優れていることも周知の事実だ。王のそばにあるため王の鳥と呼ばれるのも。
だが、寝所に侍るとは。
――陛下の稚児め。
と暗になじられたに等しい。
「不敬であろう」
「なんのことだか」
顔の上半分は兜でよくわからないが、ニッと笑った口元から犬歯が覗く。
明らかに楽しんでいる様子に祥は唇をかみしめた。
返すつもりだった剣を握りしめて人垣をかきわける。屈強な神族たちが作った丸い囲いの中にしずしずと進み出た。
「三本でよいか」
「何?」
「真君。あなたから先に二本取れば勝ちか」
ざわめきが大きくなり、先ほどまで真君とやり合っていた李将軍が心配そうに駆け寄ろうとするのを片手で制した。
「はっ……! 勝つつもりか」
おかしそうに真君が笑う。祥は眉根を寄せたが軽口は無視した。
対面し、互いの足で十歩ほどの距離を取って向かい合う。
「その通り。怖くなったら言うがいい。すぐに解放してやる」
「勝てば何をよこす」
「何なりと。そうだな。貴殿の命令をなんでも聞く、というのはどうだ」
「わかった」
祥は剣をかまえた。兄の急死から一年あまり。木でできたものとはいえ、剣を握るのはずいぶんと久しぶりだ。
同じくかまえた真君を眺める。歴戦の猛者だというのもうなずける。どこにも隙というものが見当たらない。どうするか、と祥は逡巡した。
「始!」
言葉が発せられた次の瞬間、あっさりと祥の剣は弾き飛ばされた。
人垣から悲鳴とも、あざけりとも聞こえる声が漏れる。
……腕力も並ではない。
瞬殺に気をよくしたのか真君は親切にも剣を拾って渡してくれた。
「さぞや手が痛むだろう。やめてもかまわんが」
「……いや」
祥は剣を受け取って頭を下げた。
「大華一の剣豪と名高い真君と試合うなど、なかなかないこと。もうひと勝負、お付き合い願いたい」
澄ました顔と声で言えば、真君はいいだろう、と気分よさげに笑った。
祥は再び元の位置に戻って同じかまえをした。
「始!」
同じ軌道で同じ斬撃が来る。
それをはっきりと見ながら祥は素早くうしろに跳んだ。
「あっ」
悲鳴が起こる。
高貴なる天聖君の胴を容赦なく薙ぎ払う……かに見えた一撃は、勢いよく空振りした。背後に逃げた祥はそのまま地上を蹴って、くるりと右に反転する。
「……なっ!」
不意を突かれた真君が体勢を立て直そうとするのを許さず、強く二の腕に剣を打ちつけた。ガンッと大きな音がして、今度は真君の剣がくるくると宙を舞う。
ゆっくりと落ちてくるそれを、わざと靴で蹴って自分の目の高さで取る。
「……なんと。真君から一本取った」
「これは……兄君にも劣らぬ」
「いやいや……まぐれやも」
観客のざわめきを聞き流しながら、祥は真君に向かってにこりと微笑んで見せた。
「ここでやめようか。さぞや腕が痛むであろう」
「……っ……、貴様、先ほどはわざと……っ」
わざとあっさり負けてみせたのか、という問いであれば、そうだと答えるしかない。弱い若造よと侮って油断したのは、真君の咎だ。
悔しげに真君が剣をもぎ取る。
「思いついた」
いたずら心がわいて、祥は口の端を上げた。
「何?」
真君がこちらをにらみつける。
「なんでも私の命令を聞く、と貴殿は言ったな?」
「言ったが、それがなんだ」
先ほどと同じ位置で互いににらみ合う。
「私が勝ったなら、私の寝所で子守唄でも歌ってもらおう」
「貴様」
「何を怒る。貴殿が先ほど私に言ったことだ――朝まで歌え」
ふたりの殺気がびりびりと周囲を巻き込む。
祥の視界の端で、皓也がやけにおもしろそうにしているのが見えた。
「貴様が勝てばな」
「勝つとも」
ただの余興を超えた一触即発の空気にどうしようかと周囲が困惑し始めたとき、のんびりとした声が割り込んできた。
「真君、祥。何をしておるのだ、ふたりとも」
真君と天聖君。この国でも上位の位を持つふたりを公衆の面前で呼び捨てにできる者など、ひとりしかいない。
ふたりはそろいもそろってびくり、と肩を震わせた。示し合わせたかのように瞬時に殺気を引っ込めると、声の主のほうへおもむろに向き直る。
「主上」
声を合わせてふたりして同じ動作で頭を下げる。
「何をしていたのか、とたずねたのだが?」
声の主は劉文護。皇帝その人である。趙大司空が背後にいて、羽扇で顔を隠しつつこちらを見ている。
祥は悪びれもせず拱手したまま顔を上げた。澄ました顔に戻って堂々と嘘をつく。
「大華一の剣の使い手と名高い真君に、教えを乞うておりました」
――教えを乞う態度だったか? と真君は小さくぼやいたがそれは聞き流す。
真君も真面目くさった態度で祥の言葉を継いだ。
「天聖君は崑崙で剣術を学んでおられたとか。私のほうが教えを乞うていたところです」
「ほう。それで互いに学ぶことはあったのか?」
「是」
「山ほど」
先ほどまでの刺々しい空気を覆い隠して穏やかに微笑む青年ふたりを見比べ、皇帝はまあよいと苦笑した。
「今日は我が即位十年の式典。そなたらは共に我が弟とも思う者。これを機会に友好を深めるように。みな、こちらへ来るとよい。旅の舞姫が音曲を披露してくれるとか」
ふたりして再び頭を下げると、皇帝は笑って去っていった。
観客も皇帝を追って散り散りになり、真君はゆっくりと顔を上げると無言で部下たちのところへ踵を返す。が、何を思ったか数歩歩いて足を止めて振り返った。
「天聖君。三本目はいつ試合う?」
「誰がするか」
苦虫を噛み潰した顔で祥が応じると真君は、ふん、と鼻を鳴らして去っていった。笑ったように見えたのは錯覚か。
「なるほど。剣術をたしなむと言ったのは嘘ではないな、天聖君、怪我はないか」
皓也が、しれっと再び近づいてきたので祥はわずかばかり鼻に皺を寄せた。
「怪我はなどと。しらじらしい。おもしろがって見ていただろう。私が叩きのめされる光景が見られず、残念か」
皓也はふふ、と笑った。
「そう怒るな。真君に勝てるかはともかく、一方的に負けることはないだろうと思っていた」
「なぜ」
「当代の天聖君は、剣聖の愛弟子だったというのは崑崙では有名な話らしいな?」
「……」
祥は言葉を失う。山でどういう生活をしていたのか、皇宮の人間が知るすべはない。焔皓也は崑崙の中に親しい人間がいるのだろう。
「警戒しなくてもよい。一族のはぐれ者が山にいるだけだ」
「それは誰だ? 私の知っている方だろうか」
「それは言えんな。ふふ、まあ、楽しい余興であった。主上の即位の式典に歓迎されぬ我ら一族が参加しても、さぞやつまらぬだろうと思っていたが、貴殿と知り合えたのは僥倖であった。真君もたまには人前で恥をかくのがいいだろう。あいつはたまに調子に乗る。またいずれ」
口調からすると皓也と真君は親しいらしい。どこか蠱惑的な雰囲気の貴公子は微笑むと、彼もまた一族の者らしき一団のもとに戻っていく。
はあ、と祥はため息をついた。
天聖君は王の宰相、王の鳥。
冷静沈着に仁愛の心を持って皇帝を正しい道へ導かねばならぬ……とされているが。
「早々に売られた喧嘩を買ってしまうとは」
屋敷に帰ったら、義姉にさぞ怒られるだろうなと思って胃が痛い。
「……あとは、おとなしくしていよう」
心に決めて目立たぬように、そろそろと移動すると、祥がひとりになったのを見計らったように、また周囲に人垣ができた。
「天聖君! 先ほどはお見事でございましたな」
「粗野な西域の主のあの顔をご覧になったか。はは、いい気味だ」
「やはり皇帝のそばには王の鳥がいなければ……!」
先ほどまではおそらく祥を馬鹿にしていただろう口で、今度は下手な世辞を言う。
うんざりだ、と思って適当に流しながら、祥は黙々と美食と美酒にまみれることにした。
視界の端で皇帝を追う。彼は宴席の首座に戻って、玻璃の盃をかたむけて重鎮たちと歓談しているところだった。機嫌がよさそうだ。
あと一刻もせぬうちにみな、それぞれ帰るだろう。
なんとなくほっとして、祥は勧められた盃を何気なく口にした。
冷えた甘い液体はするすると喉を滑り落ちる。胃までたどりついて、慌てて吐き出そうとしたが遅い。もはや、胃の腑の中に納まっている。
「……うっ……」
「い、いかがなさいました、天聖君!?」
酌をした女官に怯えの色が走る。あからさまに様子がおかしくなった祥に、毒でも入っていたかと思ったのだろう。
「い、いやすまぬ。……甘い飲み物は好かぬのだ。こ、これは何の」
女官はほっと安堵しながら答えた。
「桃の果実を酒にしたものでございます」
やはりか、と絶望が襲う。すっくと立ちあがると、祥はその場を離れることにした。
「ど、どうなさいました?」
「厠だ。ついてくるな」
あからさまな物言いに周囲は戸惑いながらも、ついてこようとはしなかった。
足早に庭を抜けて人のいない方向へ、いない方向へと逃げるように進んでいく。人波とは逆へ逆へと避けて逃げるように走っていく。
身体が燃えるように熱い。
「しくじった」
屋敷ではそもそもアレは食卓に上らないし、山では気を遣って食卓から遠ざけられていた。
迂闊な自分を呪いつつ、祥は目についた堂に身を滑り込ませた。
「ぐっ……はっ……!!」
喉に指をつっ込んで吐こうとするがうまくいかない。
「……っ……朝までここにいるしか、ないかっ……」
カッと熱くなった頭を振りつつ、ずるずると壁にそって崩れ落ちた。頭の中で音がガンガンと鳴るような気がする。息が荒くなり汗が滝のように流れていく。
「はっ……」
祥は目を閉じた。つらい。
「まさか、桃の酒があるなど……」
一族以外には知られていないことだが、いいや、伝えていないことだが、迦陵頻伽の一族は桃に酔う。どういう理屈でそのような体質になっているのかはわからないが、桃を食すると動悸が激しく、息は荒く、身体のどこもかしこも熱くなる。
要するに、媚薬をあおったようになるのだ。
子作りに励む迦陵頻伽の番同士は好んで食べる時期もある。だが、妻を持たない祥には縁遠いものだ。少年のころ好奇心に駆られて、桃を丸ごと一個食べたときは、どうにもならない、突如としてわいてきた性衝動に半日は苦しんだ。
「酒を一杯飲んだだけ、あのときよりは身体も大きい……すぐ、治まる……はず、……だ」
朝までここで過ごせばなんとかなるのではないか……
それまで誰にも会わずに……
目を閉じると下腹部に熱が集まるのを否が応でも認識してしまう。歯の隙間から漏れてしまう切ないうめき声をなんとかやり過ごしつつ、うめいていると。
「おい、そこにいるのか」
堂の外からいぶかしむ声がした。
「……っんぅ」
祥は慌てて袖を噛んだ。冷や汗が背中に流れる。
――このような場で、皇帝の即位を祝うめでたい場で、発情していたとでも知られたなら死ぬしかない。人がいるのは勘違いだと思って去ってくれないだろうか。
汗をかきながら耐えていると、扉の向こうも沈黙した。しかし、願いは虚しく堂の扉はドンと開かれた。
「おい、生きているか」
眩暈がして乱入してきた人物の姿が把握できない。
「天聖君?」
「……っ」
だが、呼びかける声で誰なのかがわかってしまい祥は絶望で喘いだ。
真君!
先ほどまで敵意を向けてきた相手が目の前にいて、自分はうずくまって痴態をさらしている。なんと情けない姿かとあざけりを受ける覚悟で薄目を開けてみた。
「な、なぜこここに」
「……いや……ええ、と。たまたまだ」
「……っう」
「俺がなぜここにいるかはどうでもいい。毒を盛られたか? 侍医を呼んできてやる。そこにいろ」
第一印象が最悪だった男は意外にも祥のそばに寄って様子がおかしいことにたじろぎ、親切に申し出る。どうも宴席で祥が誰かから毒を盛られた、と勘違いしているようだ。
「よい、……やめてくれっ」
「そうはいくまい」
祥は四つん這いになったまま、立ち上がった真君の足をはっしとつかんだ。
「ど、毒ではないっ……!」
「うん?」
「い、命には、関わらぬ……。捨て……ふ……ぅ……、置いて……! 立ち去ってくれ……っ」
「……へえ」
真君はしばらく考え込んで祥の様子をつぶさに観察する。ややあって、ふうん、とおもしろそうにつぶやいた。
「なるほど。妙に顔が赤くて息が荒いと思ったら」
息が荒いのはともかく、こんなに暗くて顔の赤さも何もわかるものか! と毒づきたかったが、声を出すと妙な声音になりそうなので、うつむいたまま荒い息を繰り返す。
すぐ近くに真君の気配がする。しゃがみ込んで覗き込まれて確かめるように指で顎をつかまれる。左右から値踏みをするかのように眺められた。
「……盛られたのは毒薬でなくて――媚薬か」
「……っ」
盛られたわけではない。勝手に飲んでしまったのだが、まあ勘違いされたほうが都合がいいので、祥は曖昧にうなずいた。
「わかったら、放って……くれ」
断続的に瞼の裏で何かがチカチカと光るような気がする。何やら考え込むふうな真君の指が、顎から離れる。視界の向こうで彼の衣服が見えた。皮甲を脱いで官服に着替えたのだな、とぼんやりと思う。
「誰に一服盛られたかは知らんが、面が無駄にいいと大変だな」
真君は妙に感心した口調で言った。
「いや、しかし、朝までそれではつらいんじゃないのか」
「……んぁっ……」
指が明らかな意図を持って、首筋を撫でる。
妙な声をあげてしまって祥は慌てて自分の口を塞いだ。
「……貴様……っ……」
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