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1巻

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 少年が不安げに見上げてくるので、カイルは頭をいた。

「……クリス君? でいいのか? 君は怪我けがはないか? 大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですが……あなたは何故、私の名を?」
「さっき、聞いた」

 カイルの答えに、クリスが少しだけ身体をひく。
 初対面の男が名前を知っていれば、警戒しても無理はない。カイルは笑って胸元から銀の認識票を出した。平坦へいたんなコイン大のプレートには、第三騎士団の紋章もんしょうが刻まれている。

「俺は、カイル・トゥーリ。こんな目の色だけれども魔族じゃない、騎士だよ」
「カイル? そして、その声……さっきの」

 少年は、先ほどのドラゴンの中身が誰なのかということに気付いたらしい。
 察しがよくて助かるなとカイルは笑った。少年は混乱しながらも、カイルに問う。

「あなたが、私を助けてくれたのか? ……ドラゴンに乗り移って?」
「魔族の血が半分入っているから、ドラゴンの言葉がわかるし、乗り移ることもできる。なかなか面白い特技だろ? ……しかし、君のドラゴンはどうしてあんなことになった?」

 カイルはドラゴンの傍に寄った。病気なのか、ドラゴンはうっすら目を開いて、ゼエゼエと浅く息を繰り返している。

『……あたまいたい、ふらふらする……いたい……』

 おすのドラゴンはキュイ……と鳴く。意識が戻ったようで、カイルはほっとした。

「竜医を呼んだほうがいい。どこかに不調があるんだろう。とにかく、連れて帰ろう。君はその服装からすると、名のある家のご子息だろう? 家名は?」

 カイルが聞くと、街の裕福な家の子らしきクリスは、ええっと、と言葉をにごした。

「子息というか……」
「何か事情があるなら詮索せんさくはしないが、とりあえず、送ろう。俺たちだけではドラゴンを運べないし人を呼ばないと。そもそも何故、護衛も連れずに一人で空を飛んだんだ。たまたま俺がいたからよかったけど、危ないことは二度とするな」

 しゅん、とクリスは項垂うなだれた。
 今更気付いたが、彼はかなり可愛らしい顔立ちをしている。まるで……

「クリス様!」

 上空から叫ぶ男の声に、クリスが顔を上げた。
 三人の男たちがドラゴンを二人の傍に降り立たせて、転ぶように少年に向かって駆けてくる。
 そのうちの若い青年がカイルの深紅しんくの瞳を見てハッとし、剣に手を添える。

「貴様! 魔族か!」

 魔族じゃねえよ、と、慣れっこなカイルは敵意はないと両手を軽く挙げた。少年は恩人へのそしりにまなじりを吊り上げた。
 少年が口を開く前に、三十前後の品のいい男性が、片手で若者を制す。

「連れが失礼。その服装は第三騎士団の方ですね?」

 カイルが頷いて認識票を提示すると、先ほどの若者はしまった、とばかりにうつむく。

「クリス殿がドラゴンの制御せいぎょを失っておいででしたので、ここまで誘導しました。護衛の方と合流できてよかった。では、私はこれで」

 クリスがあわてて「礼を!」と言うのを、笑って辞退する。

「不要ですよ、若君。このあたりの警護が今日の俺の任務なので手を貸しただけです」

 家名を名乗れない事情がありそうだし、護衛と合流できたならそれでいい。

「そういうわけには」

 クリスがそうつのった時、ドラゴンの羽ばたきが聞こえた。カイルは振り向き、言葉を失う。
 そんなカイルのかたわらで、クリスはドラゴンに向かって叫んだ。

「テオドール! お前まで来なくてよかったのに!」
「クリス様! そういうわけにはいかないでしょう!」

 金色の髪をした優美な外見の青年は、ドラゴンからさっと降りる。
 クリスは無邪気に、そのテオドールと呼んだ青年に駆け寄った。

「危ないところを彼に救ってもらった。あなたからもお礼を言ってほしい」

 クリスに言われてテオドールはカイルへ視線をやり――驚いて動きを止める。
 テオドールとカイルは互いに動揺したまま見つめ合ったが、カイルは先に彼から顔をそむけると、馬を引き寄せた。
 そして馬にまたがり、まだ愕然がくぜんとしているテオドールの視線を避けるように頭を下げる。

「礼は不要です、若君。交代の時間に間に合いませんので、失礼させていただきます」

 無礼な、という若者の悪態と、それを叱責しっせきする声が聞こえた気がしたが、カイルは構わずに馬を駆った。
 テオドールは飛龍騎士団時代の、カイルの直接の上司だった。
 元々アルフレートのお目付け役として一緒に入団した騎士で、今ではアルフレートの腹心のはず。彼が付き従っていたということは、先ほどのクリス少年はアルフレートの縁者だろう。
 アルフレートの縁者とこんなところで会うとは、全く思わなかった。
 彼を避けたはずが逆に遭遇そうぐうしてしまうとは、なんという皮肉だろうか。
 カイルは馬をまっすぐに走らせながら風を避けてうつむき、唇を噛みしめた。


 翌日。ふもとから帰ってきたカイルは騎士団への報告を終えて、孤児院に顔を出した。
 山岳地帯の警備を担当した人員には連続で二日の休暇が与えられるが、カイルは家ではなく孤児院へ向かった。家に帰ればテオドールか誰かと会うかもしれない、と恐れたのだ。
 カイルが中に入ると、リビングで子供たちがはしゃいでいた。

「あ! カイル兄ちゃん! おかえりー! キースはお客様とごかんだんちゅうー」
「お客様?」

 なんだか甘い匂いがする。菓子の香りだろうか。カイルは狭いリビングに行って、目を丸くした。パンやケーキといった、滅多めったにない馳走ちそうがテーブルの上に所狭しと並んでいたのだ。

「どうしたんだ、これ?」
「もらったの! 綺麗なお姉さんがくれたの! ぜーんぶ食べていいんだよ!」

 一人の子供の言葉に、どこの篤志家とくしかだろうかと疑問に思っていると、聞き覚えのある声がした。

「ああ、お帰りなさい。昨日はお礼も言わずにすまなかったな」

 声のほうを見れば、長い黒髪に青い瞳の美しい少女が、紺色こんいろのドレスをまとって立っていた。
 誰何すいかしようとして、カイルはようやくその正体に気付く。少女はクスクスと笑い、「ちょっと待ってね」と微笑んで、首の後ろあたりで手を動かした。
 ウィッグを取った顔をよく見れば、間違いなく昨日カイルが助けた若君だ。

「……クリス、殿?」

 確認するように呼ぶと、少女は優雅に礼をした。

「クリスティナ・ド・ディシスといいます。カイル殿、昨日は危ないところを助けていただき、ありがとうございました」

 ド・ディシス。聞き覚えのある家名に血の気が引く。唖然とするカイルの横で、子供が無邪気に口を開いた。

「お姉ちゃん、これ全部食べていーい?」
「私は甘いものがあまり好きではないから、全部あげる」

 彼女の答えを聞いて、アルフレートも、甘いものが苦手だったと思い出す。
 それなのに、いつもカイルのために菓子を用意してくれた。お前が好きならいつでも取り寄せてやると笑って、髪を撫でてくれて……
 カイルはハッとして、過去の記憶を振り払った。
 彼女の背後には昨日も会った護衛の騎士がいて、彼女を見守っている。品のいい男性で、護衛というよりも文官や執事といった役割が似合いそうな人物だ。
 カイルはテオドールがいないことに安心しつつ、内心冷や汗をきながら、クリス改め、クリスティナに尋ねる。

「何故こちらにいらしたのですか、レディ」
「クリスでいいよ。命の恩人に礼をしたかっただけ。迷惑だった?」
「職務で、たまたま居合わせただけです。礼を言われるようなことでは……」
「そういうわけには、いかない」

 彼女の口調はどこか少年のようだが、カイルの記憶が間違っていなければ、彼女こそが次期辺境伯になるはずの少女――アルフレートのめいだろう。
 現在辺境伯をたまわっているアルフレートだが、彼は先代の側室の子だと聞いた。そのため、直系の血を引くめいが成人するまでの役目なのだと。
 くだんのクリスティナは、カイルをまっすぐ見据みすえて言う。

「あなたはきっとここにいるだろう、とテオドールが言うので、こちらに来たんだ」
「テオドール班長が?」

 昔の癖で役職をつけてしまう。すると、クリスティナは楽しそうに笑った。

「あなたはテオドールの直属の部下だったんだね」
「……ええ。お世話になりました」

 カイルの言葉にクリスティナは喜びながら、笑顔で教会の客間を振り返った。

叔父上おじうえの部下でもあったんでしょう?」

叔父上おじうえ」という名称と客間から出てきた二人の男性に、カイルの顔からサッと血の気が引く。ぎこちなく顔を上げると、にこやかな表情のイルヴァ辺境伯がテオドールを従えてそこにいた。

「クリス、外で短い髪にはならない約束ではなかったのか?」
「でも、叔父上おじうえ。長い髪だとカイル殿が私に気付いてくれなかったんです。私を男だと思っていたみたいで。ひどいと思いませんか!」
「君の目も節穴ふしあなだと言わざるを得ないが、トゥーリ。めいを救ってくれたこと、心から礼を言う」

 全く動揺しないアルフレートの口調にカイルは戸惑とまどったが、すぐに思い直す。
 如何いかに不快な相手であろうと場をわきまえて、表情も、態度も、言葉の選択も使い分けるのが貴族だ。ならばおのれわきまえるべきだろう。

「閣下……お嬢様のことは、勤務の際に偶然居合わせただけですので、お気になさらず。……子供たちにお菓子をありがとうございました」
「……これだけで足りたか?」
「十分です」

 アルフレートはあおい目をスッと細めた。

「君がそんなに欲がない男だとは知らなかったな」
「――閣下が、下々の者の性格まで把握する必要はなかったでしょうから」

 卑屈ひくつな言葉がすべてカイルは後悔したが、アルフレートのあおい瞳を見てもっと後悔した。
 そこには、侮蔑ぶべつと明らかないかりがある。
 ……なんと続けていいかわからずにいると、キースの明るい声が割り込んだ。

「俺は足りませんね。肉が欲しいな。干し肉とか干し肉とか。あとワインをダースで寄進していただきたいね」
「――キースっ! お前! 何言ってんだ! 馬鹿か!」

 カイルはつい声を荒らげたが、キースは飄々ひょうひょうとしている。

「いいじゃんか。甘党のお前は菓子ばっかでいいけどさー、俺はからいものが好きなんだよ。たまには酒もお前のおごってくれるクソまずいエールじゃないやつがいい」

 おごられてそれを言うか、とカイルは青筋を立てる。だが、クリスティナの護衛の品のいい男性はキースの物言いがおかしかったらしく、笑い声をあげた。

「はは、それは失敬。次は肉と酒をお贈りしますよ。私はユアンといいます。カイル殿、我が主人を救ってくださってありがとうございました。きちんとした礼は、いずれ」
「いいえ。本当に結構です」

 そう言いながらも、カイルは握手を求められて、つい応じてしまう。
 ユアンはアルフレートと同じか少し年上くらいの、柔らかな雰囲気の好青年だ。彼はカイルの手を離すと、軽く頭を下げる。

「それでは、これで失礼を」
「そうだね。休みのところを押しかけてすまなかった」

 微笑むクリスティナに、それまで無言でそこにいたテオドールが、許可を求める。

「お嬢様、私と閣下はあとで戻ります。カイルと少し旧交を温めたいので」
「ああ、構わないよ」

 クリスティナはそう応じる。カイルは困惑してアルフレートを見た。
 話すことなんか何もないと思ったが、クリスティナとユアンはさっさと教会を出てしまう。

「じゃあ、俺は邪魔なんで、お二人を送ってくる。閣下、テオドール殿。どうぞ旧交を温めてください。お気が済むまで、存分に」

 キースはそう言って、にこり、と王子様のような笑顔を作ると、まるで恋人同士がするようにカイルに顔を寄せて頬に素早すばやくキスをした。

「じゃあ、あとでな。相棒」
「おまっ……なんの真似まねだ……!」

 カイルが声を押し殺して問うと、キースは王子様の笑顔を貼りつけたまま言い放った。

「昔から言ってるけどな。俺は偉そうな奴の心に波風を立てるのが、大っ好きなんだよ」

 キースは子供たちに「お見送りするぞお!」と声をかける。
 子供たちは歓声をあげ、わらわらと、クリスティナとユアンを追いかけて外に出た。
 キースたちが出ていったのを見計らって、テオドールはあきれた声で言う。

「相変わらず、君とキース神官は仲がいいですね……君は家には戻らないと思いました。キース神官のところに逃げるだろうな、と」

 覚悟を決めてカイルが振り返ると、テオドールの目は笑っていなかった。
 カイルの行動などテオドールはお見通しだった、というわけだ。
 逃げた覚えなどないと反論しようとしたが……諦めてテオドールに尋ねる。

「……それで、テオドール。俺にどのような用件ですか」

 テオドールがチラリと視線を向けた先にいた、アルフレートが口を開く。

「大した話ではない。カイル・トゥーリ。君が……この三年間、私の家宰かさいおどして奪い続けた金を返してほしいだけだ。金はどこにある?」
「……え?」

 なんのことかわからずに、カイルは間の抜けた声をあげた。
 テオドールはじっとカイルとアルフレートの反応を観察していたが、「私は外で待ちます」と部屋を出ていく。カイルもあとを追おうとしたが、アルフレートに腕を掴まれた。

「また逃げる気か」
「そんなつもりなんか、ないっ!」

 つい昔のように気やすい口調で反論してしまい、カイルは落ち着こうと首を横に振る。そして改めてアルフレートに尋ねた。

「なんのことですか。俺が、おどした? 金?」

 アルフレートがカイルを引き寄せた。すぐ近くにアルフレートの体温を感じる。
 そんな場合ではないのに、ドクンと心臓が跳ねた。

「この男を知っているな」

 見せられた絵姿を、カイルは凝視ぎょうしした。忘れられるわけがない。絵の中の初老の紳士はにこやかに微笑んでいるが――彼がカイルに向けたのはあざけりだけだ。

「――知っている。俺に、金をくれた……人だ」
「彼に、最後に会ったのは?」

 尋問に戸惑とまどいながらもカイルは素直に答えた。

「金をもらった三年前だ。それ以降は会ってもいない」

 アルフレートがカイルを観察しているのがわかる。カイルは困惑を深めた。アルフレートが何を知りたいのか、見当がつかない。

「真実か? カイル」
「嘘をつく理由がない」

 アルフレートはカイルを壁際に追いつめて、逃げられぬように肩を壁に押しつける。
 カイルは冷や汗をきながら、かつての恋人を見上げた。

「カイル。今からする質問に嘘は許さない。答えようによっては、お前の身の安全は保証しない。正直に答えろ」
「――俺が答えられる範囲ならば」

 理由の明かされない威圧的な口調に、カイルも思わずアルフレートをにらんでしまう。
 アルフレートは少しだけ楽しそうに笑って、いた右手の親指でカイルの右目の下をなぞった。
 キスする前に、アルフレートがよくしていた動作だ。カイルは久しぶりの慰撫いぶひるんだ。
 しかし、アルフレートの形のよい、薄い唇から落とされるのはかつてのような睦言むつごとではなく、聞くに耐えない言葉だった。

「三年前、お前は私との関係を金にえたな? 家宰かさいからいくらもらった?」

 揶揄やゆする口振りに、カイルは奥歯を噛んだ。
 そう、売った。カイルは、この件に関しては全くの卑怯ひきょう者だ。
 アルフレートと別れるなら金をやると家宰かさいに言われて喜んでそうしたのだから、被害者ぶる権利などない。カイルは、淡々と金額を口にした。

「五百万」
「ずいぶんと安い値段で人を売ってくれたものだな」
「閣下にとってはそうでしょうが、俺には大金でしたよ。感謝しています」

 床を見ながら吐き捨てる。品のない台詞せりふに怒って教会を出ていってくれないだろうかと願ったが、美貌びぼうの辺境伯はなおも楽しそうに続けた。

家宰かさいはそれと同額を、あと二度、お前に渡したと言っていた。勿論私に無断で。それは、真実か?」
「そんなわけがないでしょう! あいつに会ったのはあれが最後だ! あんな奴に、二度と会うはずがないっ!」

 声を荒らげたカイルと対照的に、アルフレートは淡々と続ける。

証拠しょうこは? 家宰かさいの証言の通り、王都の商会に保管された為替かわせの受け取りにはお前の署名があった。間違いなくお前の筆跡だ」
「俺はこの三年間、王都に行っていないのに! 彼は、どこです。直接会って否定させます!」
「無理だな」

 噛みつくカイルに、アルフレートは肩をすくめた。

「死人が真実を語ることはない。彼は死んだ。もう、一月ひとつきも前になるが」
「亡くなった? 病気ですか……?」

 思わぬ言葉に、カイルはほうけた。アルフレートは、表情を動かさずに言う。

「死因を語るつもりはない。もう一度聞く。彼から金をおどし取った覚えはない、と?」
「あるわけがない! そんな金があれば……っ!」

 孤児院をどうにかすると言いかけて、口をつぐむ。善人ぶっていると思われたくもない。
 アルフレートはカイルから離れて窓辺に寄り、ため息をつく。
 窓から子供たちがにぎやかに走り回っているのを見た辺境伯は、低い声で言った。

「嘘を言っているようには、見えないな」
「――あたりま……」

 カイルの言葉を、アルフレートがさえぎる。

「嘘ではないと、三年前なら容易たやすく信じただろうな。私の知るカイルは、人から金をおどし取るような人間ではないと、そう断言できた。……お前は、傷心の私をあっさり売った。お前にとって、自分は価値のある人間だと自惚うぬぼれていた、私がおろかだったわけだが」

 カイルはこぶしを握り込んだ。反論できることなど、何もない。
 アルフレートが沈黙したカイルの前に立ち、手を伸ばした。その指が、カイルの首にかけられる。
 カイルはみじろぎもできずに、少しだけ目線が高いアルフレートを見上げる。彼は無表情のまま、カイルの首にれた指に少しだけ力を込めた。
 呼吸に支障が出るほどではない。だが、わずかに息が苦しい。

「お前は昔、よく言っていたな。もし、金があれば孤児院を改装するのに、と。しかし、ずいぶんとこの孤児院は古風なままだ。やった金は何に使った?」

 痛いところをかれて、カイルは目をらした。

「……使った、全部。孤児院の修繕しゅうぜんがしたいだなんて、嘘だ。ただ……自分のために金が欲しかっただけだから」
「一度目はともかく、二度目以降に渡した金は不正なものだ。全額返してもらおうか」
「俺ではありません! そんな……」
「実際に受け取ったかどうかはどうでもいい。ただ、私は立場上、帳簿の埋め合わせをすべきなのでね。……カイル」

 懐かしいトーンで名前を呼ばれて、カイルはアイスブルーの瞳を見つめた。
 迷子のような自分が映っているのに気付いて、あわてて目をせる。アルフレートの長い指が、それを許さないとばかりにカイルのあごを掴んで上向けた。のがれるのが遅れて、噛みつくように口付けられる。

「……んっ、やめ……はっ」

 無言で角度を変えられて、むさぼるように、何度も。
 押し退けようとした手を逆に引き寄せられて、そのまま壁に押しつけられる。
 後頭部が石の壁に当たらないようにてのひらおおわれているのに気付いて、泣きたくなった。
 彼は周りから我儘で傲慢ごうまんだと評されていたが、カイルにはいつでも優しかった。今でさえ……
 柔らかな舌をからませるのがひどく淫らでいやらしくて、心地よいと教え込まれたのはいつだっただろう。

「……ん、あ……」

 久しぶりの感触に耽溺たんできしそうになって、甘い声が抑えきれずに、漏れた。
 柔らかな感触が離れていくのをしく思うのが、悲しい。
 三年かけて、心を殺して。ようやく忘れる方法がわかりそうだったのに、たったこれだけのことで、心を引き戻される。
 だが、動揺したのはカイルだけで、アルフレートは冷静だった。息のかかる距離でのぞまれて、冷たい口調で揶揄やゆされる。

「相変わらず敏感だな……お前の望み通りこのまま立ち去ってすべて忘れてやる。だが、一つだけ答えろ。カイル。正直に答えれば、家宰かさいおどしたことなどないというお前の言葉を信じる」
「――何を、ですか」

 アルフレートのあおい瞳がカイルを壁際にいつけたせいで、みじろぎもできない。

「お前は、私から受け取った金をどうした。何に使った」

 カイルは……脳裏のうりに黒い瞳を思い出した。女性の、憎悪ぞうおに満ちた表情を。

のろわれた子! お前は私につぐなう必要があるでしょう?』

 ――彼女のことは、口にしたくない。
 みじめな生まれだと、彼にだけは、知られたくなかった。
 カイルは首を横に振って、硬い声で先ほどの答えを繰り返した。

「すべて遊興ゆうきょうに、使いました……もう、手元にはありません」
「――お前の誠意はわかった。お前は、嘘つきだ」

 アルフレートはため息をつきながら、教会を見回す。

「お前が返せないなら、他にも方法はある。この教会は古いが、立地がいい。売却すれば多少は足しになるかもな」
「――何を馬鹿なことを! ここは俺の持ち物じゃありません」
「登記簿を見ていないのか? キース神官とお前が連帯で所有者になっているぞ」

 カイルはあおめた。確かに、二年ほど前、キースに言われて、そういう書類に署名をした。
 キースに何かあった時に、間違っても子供たちが路頭に迷わないように、だ。

「本気ではないでしょう? あなたはそのようなことをする方では……」

 カイルはすがるような目を向けるが、アルフレートはぴしゃりとさえぎった。

「三年前まではな。今は違う。欲しいものがあれば、手段は選ばない……失礼する」

 アルフレートは足早に教会を出ていき、カイルは一人、とり残された。
 クリスティナたちを見送ったキースと子供たちが戻ってきて、リビングは一気にまたにぎやかになる。だが、そのどれもが耳に入ってこない。キースがクッキーをつまみながら尋ねた。

辛気しんき臭いな。お前の元彼氏、なんだって?」

 カイルはかいつまんで、身に覚えのない金のことと……教会の差し押さえをアルフレートが匂わせたことを告げる。すると、キースは二枚目のクッキーをもぐもぐと咀嚼そしゃくしながら、目を丸くした。

「へえ! 面白いこと言うな。あの貴族」
「面白いことがあるか! 馬鹿!」

 カイルの頭にはカッと血が上るが、キースは全く動揺した様子がない。

「で? マジでお前、貴族おどして金をぶんどったのか?」
「そんなわけあるか……でも、どうしたら……教会が……」

 キースはにっこりと笑って「落ち着けよ」とカイルの肩を叩いた。

「安心しろよ、カイル。俺がうまーく解決してやる。辺境伯が王都に戻るのは明後日だっけ? その時、お前、教会に寄れよ。いいな?」
「…………? いいけど」

 自信たっぷりな幼馴染の表情に違和感を覚えつつ、カイルは頷いたのだった。


 二日後。キースからもアルフレートからもなんの連絡もないまま日が過ぎた。
 袋いっぱいの土産みやげを買って孤児院を訪れたカイルは、物音一つしない孤児院の扉を開けて、愕然がくぜんとする。
 誰も。――誰一人、孤児院には残っていなかった。

「キース? ……いないのか、おいっ……」

 カイルはあせって教会中を捜したが、子供たちの荷物も、キースの荷物もない。
 どういうことかと呆然としていると、カタン、と物音がする。
 音がした食堂に足早におもむくと、見慣れない人物が椅子に座ってくつろいでいた。
 自分でれたのか茶器を広げて、のほほん、と茶を楽しんでいる。

「ああ、おかえりなさい。カイル君。先日はどうもお世話になって……」

 にこやかに手を挙げたのは、辺境伯の麾下きかの青年だった。確かユアンといったはず。
 彼は穏やかな笑みのまま、カイルに言う。

「誰もいないとあなたが不安だろうという閣下からの配慮で、僕が連絡役を任されたんだ。それに我が主人の非礼もびねばならないし……」
「非礼?」
「閣下が、あなたにぎぬを着せたからね。我が家のはじを打ち明けた上に、誤解をしていて申し訳なかった。あなたが金銭をおどし取っていないことが判明したので、どうか安心してほしい」

 青年は品よく微笑み、茶器に紅茶をそそぐ。まるでこの部屋の主人のようなくつろぎようだ。
 カイルは首を傾げつつユアンに問う。

「……どういう、ことです? 疑いは、晴れた? この二日で、ですか……?」
「真犯人が名乗り出てくれたので。万事ばんじ解決したんだ」
「真犯人……って」

 カイルは自信たっぷりな幼馴染の言葉を思い出し、嫌な予感に襲われた。まさか。

「その真犯人とは……キース神官のことですか?」
「察しがいいな。さすが幼馴染だ」

 カイルは頭を抱えた。

「あの! 馬鹿っ! 何が『うまく解決する!』だ。余計にややこしくなるっ! 誤解です! あいつがそんなことをするわけがない! 仮にも神官です! 違います!」
「本人がそう言っているしなあ……。『それならばお前が罰を受けろ』と、アルフレート様も納得してしまったし……」
「そんな無茶苦茶むちゃくちゃな理屈があるか! それに子供たちはどこです? 子供たちにまで何か……」

 ユアンは悪戯いたずらっぽく微笑み、立ち上がった。

「それについてはご安心を。僕が責任を持って、王都の教会に全員一時的に預けられるよう手配したから。あなたはなんのうれいもなく、第三騎士団での勤務に邁進まいしんしてくれ。キース神官は他の皆と一緒に王都に行った。僕もこれから追いかけるけれど、このままだと、尋問を受けてしばり首になるかもね。あ、キース神官からの伝言を聞きたい?」
「……できれば」
「『俺はしばり首になるだろうけど、別に見捨てていいぜ』だそうです」


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魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

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