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1巻
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しおりを挟むプロローグ
――青年は、長い夢を見ていた。
それはまだ、青年が王都で、栄えある飛龍騎士団の一員として働いていた頃の夢だった。
夜の帳が下りたあと、臥所に身を深く沈め、心地よい眠りに落ちて。
簡素なカーテンから優しくこぼれる陽光に誘われて目覚めると、緋色の柔らかな髪が傍にあった。
それをそっと指で梳くのが好きで。たまらなく、好きで。
――何物にも代えがたいと思っていた。
だが、青年はそれを自分から手放した。
二度と彼の前に姿を現さないと誓えるのなら、お前の望むものをくれてやると言われて。
喜んで、その選択をした。
青年の裏切りを知った彼は怒り、その理由を問い質したが、青年は肩を竦めて吐き捨てた。
「あんたの領地になんか、何故俺が行かなきゃならない? ――貴族の愛人なんて冗談じゃない。肩身の狭い思いをして、北部の田舎に行くぐらいなら、故郷で悠々自適に暮らすさ。手切金を弾んでくれてありがとうございました、閣下」
彼は青年の胸倉を掴み、壁に押しつける。しかし、振り上げられた拳は力なく下ろされて……彼は笑い出した。
「そうか、お前は私を金で売ったわけか!」
「ああそうだよ。……それが悪いだなんて、思わない。生きていくには金がいる。俺はあんたとは違う」
深いため息と共に手が離される。殴られるかと思ったが、彼はそうしなかった。
ただ、汚いものに触れたかのように、自分の手を払う。
「わかった。さっさと行け」
「言われなくても、そうする」
彼との別離と引き換えにもらった金はどぶに捨てるような使い方をして、手元には一銭も残っていない。
だが、青年はそれでいいと思った。
なんであれ、どういう理由があれ、自分のような者が彼と一緒にいることは許されない。
……許されない。
『そう、許さないわ。お前があの方の隣で幸せになるつもりなら、何度でも邪魔してやる』
青年の脳裏で、女が愛を囁くように甘い声で呪詛をかける。
青年は深淵の闇の中で振り返ったが、女はいない。
――夢なのだ。誰もいるわけがない。
女も、彼も。どこにもいない。ただ一人で立ち竦むだけ。
仕方がない。仕方がないこと、だった。
何度三年前に戻っても、多分己は同じ選択をするだろう。
青年は夢を見る。繰り返し、悪夢を見る。
――今日もまた、長い夢を見て。
夢から醒めれば、そこにはただ、淡々と過ぎていく日々があった。
第一章 望まぬ再会
深紅の瞳をした騎士は、第三騎士団での勤務を終え、団長室へと向かっていた。団長直々に仰せつかった任務の報告をするためだ。ただの片田舎の平和な雑務だが。
「カイル、報告が終わったら酒場に来いよ。可愛い新人が入ったって! 川向こうに行こうぜ」
その騎士と同年代の同僚が笑みを浮かべて誘う。呼ばれた彼――カイルは「行かない」と肩を竦めた。
「はーっ! また真面目くさって! 若さがもったいねえぞ。っつうか、金がないんだろ」
「ばぁか、剣の女神様に操を立てて禁欲を誓っているんだよ」
カイルが嘯くと、同僚も「なら仕方ねえな」と笑って応じる。
品はないが、深紅の瞳を持つ明らかに異質なカイルにも、分け隔てなく接してくれるいい奴らだ。
彼らが暮らす国――ニルスは恋愛にはおおらかな国だ。カイルも若い女に興味がないわけではない。
しかし娼婦を買うのは苦手だし――そもそも買うとしても現在、カイルには支障がある。
カイルは同僚たちと挨拶を交わしながら団長室へと急ぎ、古びた重厚な扉をノックした。
「団長、カイル・トゥーリです」
来客中だったのか、部屋の中の話し声が、一瞬止む。
「――ああ、カイル。そうだったな。入りなさい」
数拍遅れて、戸惑ったような団長の声がカイルを促した。
カイルは一礼すると、赤い絨毯が敷かれた騎士団長の執務室へ入る。
そして思わぬ来客の姿を認めて、その場で凍りついた。
団長の執務室だというのに彼自身は姿勢よく起立しており、代わりに団長の椅子には燃えるような赤い髪をした若い男性が、悠然と座っている。その男性は一瞬動きを止め、ややあって口を開いた。
「これは……ずいぶんと久しぶりだな」
カイルは跳ね上がった心臓を押さえるように胸に手を当てた。
その様子を、椅子に座したままの美貌の貴人はじっと観察する。
「……ご無沙汰、しております、閣下」
上擦った声を絞り出し、そのまま固まったカイルとは対照的に、貴人は落ち着いた様子でにこやかだった。表面的には。とても。
「覚えていてくれたとは嬉しいよ、カイル」
カイルは男性に見覚えがあった。――いいや、忘れるわけがない。
この三年、思い出さない日はなかった。深い後悔と惨めな未練と共に、だ。
「私のことなど、お前はすっかり忘れただろうと思っていた」
あくまで楽しげに、しかし氷のように冷たい声で言われて、カイルは内心で苦虫を噛み潰した。
どうして彼がここにいるのか。
王族の傍系である、イルヴァ辺境伯。王都を離れた北の国境を守っているはずの男が、何故王都の外れのこんな田舎街にいるのか。
団長は聞きづらそうにカイルを見た。
「カイル。ちょうど今、閣下から君のことを聞かれて、返答に苦慮していたところだった」
カイルは一瞬口籠り、イルヴァ辺境伯を見た。
王都で同じ騎士団に勤めていた頃から際立っていた美貌は変わらない。だが、目の前にいる彼のように、ゆったりと貴族然とした笑みを浮かべる人ではなかった。
その時の彼は気楽な三男坊で、家を継ぐ予定もなかったけれど。
カイルは、あるかなしかの微笑みを浮かべている辺境伯の視線から逃れながら言う。
「閣下が……爵位をお持ちでなかった頃、同時期に騎士団に在籍しておりました」
「そうか。君も飛龍騎士団にいたのだな――」
人のよい騎士団長が納得したのを聞いて、カイルは任務を報告した。団長が満足げに頷く。
「カイル、君は明日は非番だろう? ゆっくり休むといい」
「……ありがとう、ございます」
そして騎士団長は、それでは、とイルヴァ辺境伯を促す。
「何もない田舎街ですが、ささやかな酒宴をもうけております。ぜひ」
「それはありがたい」
団長はイルヴァ辺境伯に頭を垂れ、カイルもそれにならった。
――知らずに唇を噛んでしまいそうになり、耐える。今更未練がましく、彼になんらかの感情が残っているのを、思い知るのが嫌だったからだ。
先に団長が部屋を出たあと、イルヴァ辺境伯が静かにカイルの前で足を止める。
「閣下、か。アルフと呼べばどうだ? 昔のように」
カイルも長身だが、貴人はカイルよりも目線が少しだけ高い。彼を見上げると、燃えるような赤い髪とは対照的な、アイスブルーの瞳に射貫かれた。
「……おそれおおい、ことです。閣下」
たまらずに視線を逸らしたのは己の方だった。
イルヴァ辺境伯は冷たくカイルを一瞥すると、そのまま振り返りもせずに退室する。
彼の背中を見送ってから、カイルは数分、そこから動けなかった。
小さく息を吐き、壁にもたれて、ずるずると崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
「呼べるわけが、ねえだろ」
三年ぶりに見る背中を脳裏に思い浮かべて、首を横に振る。
硬質な美貌も、美しい緋色の髪も、低い声も。何もかもが記憶のままだった。
だが、眼差しだけはきつく、冷たい。
無理もない……無理もないが、軽蔑の視線をぶつけられるのは、思った以上に応えた。
イルヴァ辺境伯――アルフレート・ド・ディシスは、カイルにとってかつての上司で同僚で。
最後の恋人、だった。
――長い指が、髪に触れる。
『どうした? そんな悲しげな表情をして。悲しい夢を見たのか?』
『なんでも、ないよ。アルフ……あんたがいるから、悲しい夢は見ない』
いつか交わした睦言が思い起こされる。
カイルはこの街のどぶに捨てられた孤児だった。カイルの半魔族の血を、母親が嫌ったのだ。
カイルの深紅の目は、魔族の血を引く証。魔族はこの国の北に住む種族で、異能を持つことから、人々に恐れられている。
それはカイルの母親も例外でなかった。カイルは彼女の望まない子だったわけだ。
孤児院で育ったカイルは十四の時、思わぬ幸運に恵まれた。
たまたまこの街を視察した飛龍騎士団の団長に目をかけてもらい、騎士団に所属できたのだ。魔族の異能の一つである、ドラゴンの言葉を聞ける力が、重宝されたからだ。
すでに飛龍騎士団に所属し、勧誘の場に居合わせたアルフレートは、入団したカイルの世話を買って出た。そしてもの知らずな四つ下のカイルを、弟のように慈しんでくれた。
騎士の立ち居振る舞いや剣術を教えてくれ、甘い菓子をくれて――やがて親しみは恋情に変わった。二人の関係が恋人に変わってからの数年間が、人生で一番、幸せだったように思う。
アルフレートは大貴族の子息といえど三男なので、ずっと騎士団にいる予定だった。
だが、不幸な事故で彼の兄二人が一度に亡くなり、状況は一変する。
一緒に領地へ行こうと誘われたカイルは、迷った末に彼についていくと決めて――だが、結果的には……彼を裏切った。
おそらく、彼にとっては一番最悪な形で。
夢の中のアルフレートが、心配そうにカイルの顔を覗き込んだ。
いつもは鋭い、しかしながら誰よりも美しく蒼い瞳がカイルを見て、優しげに細められる。
カイルは彼の髪に触れた。緋色の髪は燃える焔の色。けれど、胸に抱いて寝れば温かい。
その腕の温かさに陶酔したが、どんなに感触が鮮やかでも、これが幻だと確信していた。この腕が己を抱きしめることなど、二度とない。
『何故黙っている? どうして――』
カイルは答えを紡ぐことができずに、男の瞳をただ、見つめた。
アルフレートはカイルの頬を両手で挟むと、優しい声で囁く。
いいや、彼の喉から迸るのは睦言ではなく、呪詛だった。
カイルの心臓を刺し貫くような冷たい――真実。
『どうしてお前は――私を裏切った?』
カイルは己の部屋の粗末なベッドの上で飛び起きた。
「……は……っ、あ……。ああ……夢、か。そうだよな」
ベッドサイドに置いていた水差しから直接水を飲んで、乱暴に口元を拭う。
団長の執務室から出て、どうやって古びた家に戻ってきたのか思い出せないが、眠っていたようだ。
季節は初秋、時候は深夜。まだ少しも寒くはない。
カイルは窓枠に浅く腰掛け、月灯りに鈍く光る深紅の目を瞬かせて、満月を見上げた。
久々に悪夢を見た。幸せだった頃の、悪夢。
二度と会うことのなかったはずの人の笑顔と、カイルを裏切り者と詰る傷つき怒りに満ちた表情……それは、夢というよりも、記憶の再現だった。
「三年も経つのに……俺は、未練がましいな」
ため息を落として、窓の桟に頭を寄りかからせる。孤独には慣れたはずなのに、失った幸せは深夜に忍び寄ってきては、カイルを苛む。
「傷つく権利なんて、裏切り者の俺にはないのにな」
眠気が再び訪れるまで風に当たっていようと、カイルは眠りに落ちた街を見下ろしながら、独りごちる。
しかし、とうとう朝まで眠りは訪れなかった。
イルヴァ辺境伯、アルフレート・ド・ディシスと再会した翌日。
カイルは寝不足のまま、昼過ぎから出かけることにした。
王都の飛龍騎士団から第三騎士団に転籍してから三年。
毎日職務をこなすだけで、瞬く間に時間は過ぎる。第三騎士団で街の平和に寄与するのは楽しい。給料は高くはないが、一人で質素に暮らすには十分だった。
……しかし、こんな田舎街に、辺境伯という王族や公爵と並ぶ高位貴族が訪問するとは、どういった理由なのだろう?
あのあと、騎士団の幹部にそれとなく辺境伯が来た理由を尋ねたが「私的な訪問だから気にするな」とだけ言われ、頷くしかなかった。
滞在は十日ほどで、副団長が主に彼に随行するらしい。
幹部がもてなすならもう会わないだろうと考えて、カイルは首を横に振った。
会いたいなんて思わない、決して。会えないほうがいい。会ってもまた冷たい視線を浴びるだけだ。十日の間、できる限り内勤は避けようと決めて、市場へ行く。
カイルは食料を買い込むと、家のすぐ傍にある古びた教会に足を向けた。
「おい! 生臭神官! いないのか」
扉を乱暴に開けると、返ってきたのは子供たちの賑やかな声だった。
「あー! カイルお土産!? お土産ある!?」
カイルは笑って「あるよ」と答え、年長の少年に買った食材を渡す。
「ありがとう! 大事に食べるね」
賢そうな顔をした少年がはにかむ。微笑み返したカイルは、古びた教会を見回した。
孤児院が併設されたこの教会は、そろそろ築百年は経とうかという年代物。
あちこち壊れており、その場しのぎで修復しても、なかなか追いつきそうにない。
どうしたもんかね、と思っていると、背後からのんびりとした声が聞こえてきた。
「おい、馬鹿騎士。俺の酒がねーじゃねえか」
振り返ると、小麦色の髪と瞳をした田舎には珍しいほど綺麗な顔の優男が、眉間に皺を寄せている。
「酒なんざあるかよ。神官のくせに何言ってやがる」
ばーか、と言って腹立ち紛れに足を蹴ろうとすると、ヒョイと躱された。
無駄に動きのいい野郎だと舌打ちをすると、優男はフンと鼻を鳴らす。
「キース、カイルと仲良くしなよー。兄弟なんだからさあ」
「そうだそうだ」
二人のじゃれあいに、子供たちはきゃっきゃと笑った。
カイルは「兄弟じゃねーよ」と毒づいて、子供たちに食事を促す。先を争って食べている彼らを眺めていると、キースが表情を綻ばせた。「食えよガキども」と笑って腕を組みながら囁く。
「カイル。ありがとな、飯。最近は寄付が少なくて。なかなか苦労するからなあ」
「お前も食えよ……ちゃんと」
カイルの言葉に、優男は生返事をした。絶対食わないな、とカイルはため息をついて、あとで飯に連れ出そうと決める。
キースもカイルも苗字は「トゥーリ」だが、二人は兄弟ではない。
キースは白い肌に小麦色の髪と瞳。カイルは黒髪に魔族の血筋を示す深紅の瞳で、肌はどちらかといえば浅黒い。背は二人とも高いが、カイルはまがりなりにも騎士だから鍛えられた体躯を持ち、キースは痩躯でひょろりとしている。
兄弟ではないが、どちらもこの教会に赤ん坊の頃に預けられた孤児で、幼馴染だ。
孤児には家名がないから、皆適当な名字をつけられる。この地方の孤児にはトゥーリとつけられるのが常だった。
十四歳になったら孤児院を出るのが慣例だ。そのタイミングでカイルは王都の飛龍騎士団に運よく紛れ込み、そこで数年勤め――事情があって、逃げるように三年前にこの街に舞い戻ってきた。
学業が優秀だったキースは、カイルと同じ年に王都の神殿に所属し、将来を嘱望されていたらしい。だが、彼も結局紆余曲折を経て今はこの教会に戻り、ひっそりと孤児院の管理と神官をやっている。
カイルとキースは子供たちに飯を食わせて教会の通いの下男に施錠を任せると、街へ出た。
馴染みの食堂で適当な食い物と酒を頼む。
食いたいだけ食えよと言うと、キースは子供の頃から変わらぬ笑みで「遠慮なく」と告げた。
腹が膨れたところで、キースがそういえば、と話を切り出す。
「昼間、懐かしい奴を見かけたぜ」
「懐かしい奴?」
「うん。お前の元彼氏」
カイルは思わず酒を噴き出してしまった。
ゲホゲホと咳き込むカイルを見て、人の悪い顔をした幼馴染は「きったねえな」と口の端を吊り上げた。
「アルフだっけ。今はなんて言うんだったかな、あの人の役職――」
「――外でその名前を出すな。一応お忍びらしいからな」
イルヴァ辺境伯。キースが周囲を気にせず口にしそうなのを制止する。
すると、キースは面白そうに片頬で笑んだ。
「なんだ、知っていたのかよ」
「団長の執務室にいたから、挨拶した」
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キースは変わらず、にやにやとカイルを見ていた。
「いいけどさー。お前、これから一生一人で生きていくのかよ。寂しいぜ?」
いいんだよ、とカイルは口を曲げた。
「俺に恋愛は向いてなかった。俺には元々、そんな資格なんてなかった」
「資格なんているのかよ」
「うるさいな。……誰かとそうなるのはもう懲りた。あれで最後だよ。……向こうは思い出したくもないだろうけど、俺にはいい思い出だ」
「その思い出を金に換えたくせに」
冷たい目で言われて、ぐ、と反論を呑み込む。
カイルは「帰る!」と吐き捨てて勘定を終えると、店を出た。
背中に馬鹿な奴、という不機嫌な声が聞こえたが、一切聞こえないフリで帰路についた。
暗い道を睨みながら、歩く。
そうだ、カイルは一番大切だった思い出を、金に換えた――そして、その金はどぶに捨てたのだ。
自分の良心と矜持と共に。永遠に。
翌日、非番が明けたカイルは身支度を手早く整えて職場に行き、山近くの任務を回してくれるように上司に頼む。麓の巡回はあまり好まれないから、上司は喜んで任務を振ってくれた。五日ほど山の麓へ滞在することになり、安堵する。
アルフレートがこの街にいる間は、物理的にも遠くにいたかった。
麓の詰め所に到着すると、若いドラゴンと同僚がいた。ドラゴンは高価だから第三騎士団では幹部しか所有していないが、山岳地帯に赴く際は、団員もドラゴンへの騎乗を許されている。
しかし、忌々しい魔族の血を引くカイルには大事なドラゴンを預けられないという意見があり、カイルは今日もここまで馬で来た。
以前は飛龍騎士団に所属していた身だ。腹は立つが、仕方がない。
理不尽に嫌われるのも、四半世紀も生きていると慣れてしまうものだ。
同僚は笑って報告してくれる。
「今回は全く平穏。この前は狼や熊が出て死ぬかと思ったけどな」
「……何事もないのを祈るよ」
カイルが肩を竦め、同僚が帰途につこうとした時、若いドラゴンがカイルを見つけ、ぴょん、と耳を立ててすり寄ってきた。
『カイル! 俺と遊ぶ? 俺、山が好きだから一緒に残ってあげてもいいよ』
ドラゴンの言葉がわかるカイルは、昔から彼らに非常に愛される。
半魔の血筋は苦労も多いが、ドラゴンと触れ合うのは無上の喜びだ。
「ん、ありがとうな。でも、俺は馬に乗らなきゃいけないんだ」
『そんなあ』
同僚が会話するカイルとドラゴンに気を遣って「俺が馬で帰ろうか?」と聞く。けれど、カイルは笑って首を横に振った。ドラゴンに騎乗する許可は得ていない。
「いいよ。気をつけて帰ってくれ」
同僚は少し申し訳なさそうな表情をしながら、ドラゴンに乗って帰っていった。
――それから、幸い四日が平穏に過ぎた。街に戻る五日目の朝、カイルはふと空を見上げて眉を顰めた。
そう離れてはいない上空で、ドラゴンが飛んでいる……が、何か変だ。
蒼天をふらふらと、蛇行している。子供にも見えるほど華奢な人物が、悲鳴をあげながらドラゴンにしがみついているのに気付いて、カイルは厩舎に引き返した。
焦燥感を抱きながら馬を駆り、ドラゴンが旋回しているあたりに急ぐ。
妙な……まるで酔っているような飛び方だ。騎手は必死に掴んでいるが、危うい。カイルは馬上から声を張り上げた。
「大丈夫か! 手綱を握って決して離すな! 体勢を立て直せるか!?」
声が聞こえないのか、少年らしき騎手は、ドラゴンにしがみついたままだ。
「くそっ……」
カイルは、数日前にドラゴンを同僚と共に帰したことを後悔した。
ドラゴンがいれば、近くまで飛んで彼を救うことができたかもしれない。
このままでは、落下するのを見守るだけになってしまう。
カイルは馬上で冷や汗を掻きながら、数秒、ドラゴンを見つめた。
……騎手の顔が確認できるほどとはいえ、やはり距離がある。過去にそれが成功したのは、僅か数回。それも、最後にやったのは、三年も前のことだ。
しかし、やらざるを得ないと決心し、下馬して近くの木に馬を繋ぐ。
カイルはドラゴンの真下あたりにしゃがむと、空を見上げて……息を大きく吸い込んだ。
上空を飛ぶドラゴンと息を合わせる――できるかどうかは不明だが、やらなければ。迷っていては、あの少年は地面に放り出されて……命はないだろう。
「……糸を、掴むみたいに」
カイルは目を閉じた。光を遮断し、意識だけでドラゴンを探す。半魔族のカイルにはわかるはずだ。
暗闇にほんのりと光る糸がある。そう、あれを掴めばいい……!
目を開けると、眼下に小さく「カイル」が見えた。
カイルは自分の手を動かすように翼を動かして、ぐん、と上昇する。ゆっくり平行に飛ぶと、自分の背中にしがみついた軽い騎手が、困惑したように呟いた。
「急に飛行が……安定、した?」
『大丈夫か、坊や』
カイルが話しかけると、騎手は不安そうにきょろきょろとあたりを見回す。
「……なに? 誰が……」
『ええと、説明はあとでいいかな。ちょっとこの状態じゃ説明が難しいんだ。俺はカイルという者だけど、君は?』
「……私はクリスという。お前は……なん、だ?」
ドラゴンの背中に乗っているのは貴族の少年なのか、発音が綺麗で、どこか高圧的だ。
警戒されても仕方ないな、と思ってカイルはため息を漏らした。
カイルはゆっくりと旋回しながら、この身体――ドラゴンに呼びかける。しかし意識がないようで、返事がない。ひとまず、元の身体に戻らなければ。
『あそこに、馬と男がいるのがわかるか?』
「……大変だ! 人が倒れている。助けなければ!」
少年が焦った声で言う。カイルは、「いやいや、自分こそが今、助けられている最中ではないか?」とツッコミを入れたいのをぐっと堪えて、少年に話しかけた。
『あの男のところまで、下りる。手綱って操れるか?』
「できると思う」
よし、と頷いて、カイルは自身の身体の傍まで行く。
少年が無事に地面に足をつけるのを確認して、カイルはドラゴンとの意識の連結を、解いた。
「……んっ、は……」
人間の身体の中に戻ると、ひどい頭痛に襲われる。
久しぶりのドラゴンへの憑依は身体への負担が大きいようだ。イテテと頭を振って、立ち上がる。
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