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別離編

コンスタンツェ

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『これってカイルの母ちゃんの名前なんじゃないのか?』

キースとカイルを育てた『じいちゃん』こと老神官が亡くなって半年ほど経った頃、12歳になっていた二人は、後任の神官からいたく嫌われていた。キースはその聡明さと生意気さゆえに、カイルは半魔であるが故に。
二人して物置小屋の掃除を押し付けられることもしばしばで……、そんな時物置で、老神官が小箱に鍵をかけて残していたスカーフを見つけた。
『カイルの母、コンスタンツェのもの』と老神官の文字でメモもある。
じいちゃんのことだから、カイルが大きくなったら渡そうと思っていたのだろう。
俺を産んで捨てた人は、コンスタンツェというのかと悲しいような、嬉しいような気持ちでスカーフを手にした。
別にいらない、とキースに押し付けると、キースはスカーフに刺繍された紋章から、家名を探して、街のそこそこ裕福な準男爵家の娘が、コンスタンツェである事を突き止めた。

『金持ちの集まりに、飯の炊き出しに来るんだってよ!』

キースは全くの善意で彼女がもう隣の街へ嫁いでいることや、たまに貧民への施しをしている事を調べ上げた。―――その彼女が、国王の誕生日祭にこの街に来て、恵まれない子供達に菓子を配るという。

『会いに行こうぜ!別に……遠くから見るくらい、いいだろ?』

迷惑だろうとは思っていた。
そうでなければ、母親が子供を捨てたりはしないだろう。しかも一度も会いに来てくれたこともなければ手紙をもらったこともない。
だけど、と思う。

『ごめんなさい、カイル。お前のことを手放さないとならなくて、私がどれだけ悲しかったか!会いたかったわ、坊や!』

そんな台詞を。
ばかだと思いながらも空想した。教会の女神を見ながら、あんな人だろうか、と。

もしその人が真実母親でも一緒には暮らせない。
そんなことを望んではいない。だけど、抱きしめて言い訳くらいはしてくれるんじゃないか。
もしかしたら、ひょっとしたら、微笑みくらいはしてくれるかもしれない。

キスを。

一度でいいから、わけてくれないだろうか。
孤児院を抜け出そうとキースと決めて、その夜、カイルは何度も何度も寝返りを打った。

おかあさん。
僕を知りませんか?
僕はずっと、あなたに会えたらいいなって思っていました。一度でいいから。一度で……

『泥棒よっ!追い返してっ!!』

パーティーに紛れ込んだ二人を追い払ったのはコンスタンツェの金切り声だった。
彼女は怯えた目で、嫌悪をいっぱいにしてカイルを見た。それが、母親から向けられた初めての感情だった。

薄汚いネズミが紛れ込むんじゃねえと警備兵に殴られて二人はとぼとぼと歩いた。

帰り道、カイルが泣かなかったのはキースがわんわんと泣いていたからだ。
俺がバカなことをするからだ、ごめんと繰り返して泣くキースにカイルは笑ってしまった。
キースは孤児だけども、亡くなった両親の遺した思いやりあふれる手紙がいくつかある。
息子の誕生を祝い、慈しんだ痕跡。
小さな手袋や靴や絵姿といったものが、いくつか残っている。
カイルがそれをひどく羨ましがっていたのを、この口の悪い幼なじみは知っていたのだ。

だからカイルにも何かそういう類の思い出を作らせてやりたかったんだろう。

俺たちは、たった二人しかいないから。
いいことも悪いことも半分こしよう。
馬鹿な約束を守りたかっただけなのだ。キースの馬鹿は。馬鹿だ、本当に馬鹿だ。

ばかだな、と手を握ってカイルは笑った。

『いいや、俺。寂しくないし。キースがいるからそれでいいや』

門限を超えて帰った孤児院で二人とも晩飯を抜かれて。
ひもじさを抱えたまま抱き合って眠る。寂しいけれど寒いけれど、一人じゃない。
それがどれだけ嬉しかったか…。



その数日後、カイルは路地裏で彼女に呼び止められた。
コンスタンツェは疲弊しきった表情でカイルの名前を呼んだ。
ほんの数分、立ち話をして彼女は泣き出した。

『悪かったと、思っているわ。けれどあなたと係るわけにはいかないの。私には家庭があるから……』

カイルは彼女と自分の間にある影法師を眺める。
細い影がゆらゆら夕暮れの日差しに頼りなく揺れて悲しげだ。カイルは笑った。

『奥様、急に現れてごめんなさい。もう二度と行きません。あなたの事は誰にもいいません。どうか、僕のことは、忘れてください』

コンスタンツェがほっと息を吐くのに気付いて、カイルの心は軋んだけれども強がることにした。
泣いてすがっても、何もいいことなんかない。
コンスタンツェは黒い瞳でじぃっとカイルを見ると、優しい声で聞いた。

甘いものが、好きなんですってね。と。

そうしてバスケットいっぱいに手作りだというケーキをくれた。どうか、許して頂戴ね、とコンスタンツェは悲しげに微笑んで去る。
手袋をした白い手がさよならと揺れるのを見てカイルは踵を返した。



カイルは、持ち帰ったバスケットを抱えて一人で蹲った。
悲しかったけれど、これでいい。これでよかった。
ケーキは美味しそうだった。キースにわけてやりたかった。
けれど、わけたくなかった。
キースには、両親の形見がある。
だけどカイルにはこれだけだ。せめて、これだけでいいから、独り占めをしたかった。
だから、半分こにするという誓いを破って、甘いケーキをかじる。

ひとくち。
ふたくち。
さん……。

胸が苦しくなって、カイルが覚えているのはそれまでだ。

キースがカイルを探し出して、全部胃の中のものを吐かせて、いったいどんな伝手を使ったのか、妙にしなをつくる高位神官を連れてきて、異能者による治癒をおこなって貰えなかったら。
夜明けを待たずに死んでいただろう。
孤児の生死なんて誰も構わないだろうが、カイルが目を覚ました夜に、眠そうな街の警備隊……第三騎士団がやってきて、カイルに聞いた。
職務上聞く義務があると彼は嘯く。

『混ぜてあったのは殺鼠剤だろうな。その上等な菓子、誰にもらった?』
『ひろった』

ああそうか、と騎士は適当に相槌をうち、次は拾い食いなんかするなよと皮肉に笑った。
カイルは泣き疲れて眠ったキースの手を握りながら天井を見た。

月の細い晩だった。
寝苦しいから窓を開けていて。
彷徨った風が部屋に遊び黄ばんだ白いカーテンを不気味に揺らしている。
カイルはそれを、腕みたいだと思った。
死に誘う女の白い手が、窓辺でゆらゆらと揺れている。

泣くまいと思うのに、目を閉じても涙が流れる。
水分なんか全部吐いて、おなかもなにも空っぽなはずなのに。
何かを望んだわけじゃなかった。いいや、望んだ。
母親の、笑顔が欲しかった。
愛されてみたかった。ほんのわずかでいいから。

だけど、ドブを出た薄汚いネズミは呆気なく駆除されそうになった。



さよなら、と。



ゆらゆらと素っ気なく揺れる白い腕を思い返しながら、カイルは歯を食いしばって、夜の闇を耐えた。
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