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一 寄ルナの池と見ルナの花

二 招いてもいない客

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 この国は、龍のしかばねの上にある。そしてこの国の名前を、人は知らない。屍の龍の名前であると言われながらも、その名前は既に忘れ去られた。ただ今でも人は龍の存在を忘れることはなく、常に自分たちが屍の上にいることを自覚している。
 国の中枢には龍の尾であるという龍ノ尾花たつのおばなが咲き、それを守るように建てられた建物の名を、龍天宮りゅうてんぐうと呼んだ。そこには国を治める姫御子ひめみこが詰め、彼女を護るための軍人は白い軍服を纏うことから『白装はくそう』と呼ばれる。ただ彼らは姫御子を護るための軍人であり、他の誰かを護ることはない。国の治安維持は龍の魂を慰めるために建てられた龍霊宮りゅうれいぐうに詰めている『黒装』と呼ばれる軍人の役割だ。
 黒装は各地に散り、国のあちらこちらで任に就く。先ほどの『異能者狩り』も彼らへと龍が命じた職務であるらしい、というのは聞いた話でしかない。
 屍の龍の鱗を呑んだものは、となる。異能者は人を越えた力があり、人の範疇はんちゅうを越えてしまう。だから彼らはすべて龍守である黒装によってするようにと、かつて屍の龍が意思を伝えた。これはまことしやかにささやかれる噂話であるが、果たして本当にそうであるのか、そんなものは庶民には分からない話だ。
 けれど紗々羅も、ああして連れていかれるのを見たのは初めてではない。そして、ほとんどが帰ってこないのだ。あるいは帰ってきたとしても、口を閉ざす。
 この街は名を『潤未うるみ』といい、かつては龍天宮を目指す人にとって最後の宿場町として栄えてきた。馬を走らせれば翌日には辿り着ける場所にあり、きちんと石畳で舗装された道が続き、店も立ち並んでいる。ただその距離ということがあって、黒装が派遣されてくることもない。
 今は龍天宮へ巡礼をする人は減り、かつてほどのにぎわいはないと聞く。紗々羅は生まれてからずっと変わらない様子しか知らないが、老人に聞くとかつての話が出てくることがあった。
 ぼーんぼーんと、柱時計が重低音で時刻を告げた。思わぬ時間を喰ってしまったが、折よく開店の時刻となったらしい。朝食は食べ損ねてしまったが、昼食までくらい我慢できる。
 壊れてしまった簪を、店内の一番奥、修復作業用の机に置いた。それから外に出て、入口に『ヨロズ修復承リマス』という札を引っかける。
「なんだ、今から開店か?」
「……昨日の」
 いざ店内に引っ込もうとしたところで、声がした。振り返れば昨日の閉店間際にやってきた男が、紗々羅のすぐ後ろにいる。近付いてきたようにも思えなかったが、妙に男が近く思えて、つい紗々羅は後ろへと一歩引いてしまった。
 昨日は黒装の軍服を着ていた男が、今日は着物姿だった。淡黄色の着物に、茶色の羽織。その茶色の羽織は裾に向かって色を濃くしており、ふわりと少し冷たい風に揺られたそれが、まるで蛾の翅のようにも思えた。
「何か、不足でも?」
「いいや。聞きそびれていたことがあってな」
「それを不足と言うと思うのですが」
「まあ、細かいことは気にするな」
「……細かくありません」
 契約書を取り交わしている以上、後から聞いていないと言われても困るのだ。まさか内容をろくに読まずに署名をしたのではないかと、つい男を眉をひそめて見てしまった。
「契約に、不備でも?」
「いや? 修復にかかる期間は十日ほど、特に店からは連絡がないから十日後を目途に再度来店すること。修復の状態を確認し、一度だけ再度の修復が可能。それ以上の場合は追加料金の支払い」
「それだけ覚えていてくださるのなら、結構です。他に何か?」
 彼の言った内容は、契約書に書かれているものと違いはない。それ以上何かあるだろうかと、紗々羅はことりと首を傾げる。
「貴方が、『緑青ろくしょう』という通名を契約書に書いたことですか?」
「何だ、気付いてたのか」
「黒装は通名を使うのが普通でしょう。その通名で黒装に問い合わせもできますので、特に問題視はしておりません」
「ああ、別にそれでもない。それについてはどこの店も同じなんでね」
「そうですか」
 紗々羅も彼に本名を聞く気はなかった。黒装ならば通名で事足りる、それは紛れもない事実だ。修復師と依頼人という立場であるのならば、最悪どこに問い合わせるかが分かっていればどうとでもなる。
 もしもこの男がそもそも黒装でもないということになればその前提は崩れてしまうが、黒装を騙るなど、極刑ものだ。わざわざ死にに行くようなことはしないだろう。
「回りくどいのも話が長いのも嫌いなんです。手短に、用件を」
「つれないな」
 いつまでも本題に入らない緑青に対して「不機嫌です」と伝わるように、紗々羅は声の高さを一段低くする。緑青は呆れたかのようにわざとらしく肩を竦めていたが、いつまでも店の前でお喋りをしているつもりは紗々羅にはない。
 紗々羅が無言で見ていると、緑青は「降参」と両手を挙げた。
「修復師とは、物への思い入れを聞くものだと思っていた」
「それが何か」
「お前、何も聞かなかったろう」
 そんなことを聞きにきたのかと、やはり紗々羅には呆れしか生まれない。
「他の修復師がどうか知りませんが、私はお聞きしません。必要ありませんから」
「客と向き合うのが修復師だろうに」
「それ、誰が決めました?」
 少なくともそう在ることが修復師にとって必須とは、紗々羅は思っていない。必要であればそうすれば良いし、必要がないのなら無理に向き合う必要はない。
 紗々羅にとって客と向き合うことは、不要なことだ。むしろ、余計なことだとすら思っている。客に求めることは契約を取り交わすことで、それ以上でも以下でもない。
「客と向き合う気は?」
「向き合わなくて良いから、修復師をしております」
「そんなことで、きちんと修復ができるのか? 元の状態を聞き取ることもしないだろう」
「……修復する物に聞けば、分かりますから」
 これ以上の問答は無意味だろう。緑青の思っている修復師の仕事のやり方と紗々羅の仕事のやり方とは、きっと乖離かいりしている。
「人の噂話の蒐集に黒装がそこまで熱心とは、意外ですね」
「これは単なる個人的興味だ」
「悪趣味ですね」
「何とでも」
 溜息が出そうになって、飲み込んだ。「もう良いですか」と扉を開けて中に入ろうとしたところで、ふっと紗々羅の上に影が差す。開いた扉はそれ以上は動かず、何事かと見れば紗々羅の頭の上あたりで、緑青が扉を手で押さえていた。
 端正な顔立ちが、真上にある。やはり何かに化かされているのではないかと、そんなことを思ってしまうほどには。
 好奇心なんてものはろくなものではない。光に惹かれることも、何かに焦がれることも。どちらもろくなものではない。それによって蛾は灼かれ、猫は死ぬ。
「お前は客に興味もないか?」
「私は客に興味を持つことはありません」
 興味があるとすれば、持ち込まれた修復依頼だろうか。正しくは、修復して欲しいと持ち込まれた品物か。
 上ばかりを見ていると首は痛いが、これ以上扉が動かないものはどうしようもない。前には進めず、後ろにも行けない。
「なあ、お前」
「何です」
「人の心は、修復できるのか?」
 甘やかな声が「忘れたいのよ」と紗々羅に告げた。「忘れたいのよ」「忘れさせてよ」と、何度も何度も懇願する声が。
 前を向く。ゆるりと首を横に振る。纏わりつくような甘い声を振り解いて、紗々羅は再び上を向いて緑青の顔を真っ直ぐに睨んだ。
「寝言は寝てからどうぞ。貴方のご依頼は誘蛾灯ですよね?」
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