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一 寄ルナの池と見ルナの花

一 異能狩り

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 朝日が昇れば、誘蛾灯の火は消える。明るい時間にそんなものを灯していたとて、どれほど愚かな虫であってもそんなものに誘われることはない。太陽という輝かしい光の前に、誘蛾灯の揺らめく灯火など些細なものだろう。
 山の端から太陽が顔を出す払暁の時間、紫がかった空が橙色に染まり、やがて白くなっていくころ。その時間はいつも空気が澄んでいるようであり、それでいて白く靄がかかるようでもあって、紗々羅ささらは一等好きだった。
 店を開ける前、新聞を買い求めるついでに近所を散歩する。石畳で舗装された道を、草履ぞうりで踏みしめる。柔らかな草履は硬い靴底のような足音を立てるわけではないが、静かな歩みの方がこの朝の景色には相応しいのかもしれない。道の両脇に立ち並ぶのはほとんどが店舗併用の住宅で、切妻屋根の二階建ての建築は一階部分の軒が大きく前面に張り出している。壁の色は漆喰の白が多いが、中には建物の前面に衝立にも似た看板のような外壁を持つ建物もあり、そちらは軒もなく地面と垂直な平面になっていた。
 そんな看板を貼り付けたような建物の前で、一匹の猫が欠伸あくびをしている。紗々羅にとっては顔馴染みである、腹に黒いぶち模様のある白猫に挨拶をすれば、「なぁーお」と鳴き声が返ってきた。これは今日は良い日になるかもしれないと思いながら、いつもの煙草たばこ屋で今日の朝刊を三種類買い求めた。
 だと、いうのに。
「お母さん! お父さん! ちょっと、違うって言ってるでしょ! 離してよ!」
「お前に異能があると通報があった。調べるだけだ、ついてこい」
「離して!」
 朝の張り詰めた空気も、紗々羅のほくほくとした気持ちも、少女の金切り声によって見事に砕かれてしまった。
 何だ何だと近くの家から顔を出す人々はまだ寝惚け眼であったり寝ぐせがあったり、寝間着のままであったり。まだ活動も始めていないようよう太陽が顔を出した時間、少女の声に叩き起こされた人も多いのだろう。
黒装こくそうだ……」
 少女の年のころは、十五かそこらだろうか。白い花模様の薄紅の着物がよく似合う。張り出した軒の下で、彼女はいやいやと首を横に振っていた。
 彼女の腕を掴んでいるのは黒い軍服姿の男だった。軍帽の下の顔は眉間に皺を寄せて、そして溜息を吐いている。
「何だ、異能狩りか?」
「あの子、阿波野あはの屋のとこの子だろ?」
 かしゃんと少女の髪からかんざしが落ちて、石が割れるのが見えた。「待ってください」「違うんです」という両親の声も、少女の叫び声も、あの軍人には聞こえているのかいないのか。ただ何度となく「話を聞くだけだ」「何もなければ帰してやる」と言っているのは聞こえてきて、その声にはどこか呆れが含まれているようにも思えた。
 少女が軍人に連れていかれて、少しばかり喧騒は収まった。家の中に引っ込むもの、少女が連れ去られたその場所で泣き崩れた両親に駆け寄っていくもの。どこから現れたものか手にした万年筆とメモ帳に何かを書き付けているのは、新聞記者だろう。
 どうしたものかと考えて、けれど見捨てることはできずに紗々羅は落ちた簪のところにまで近付いた。朝日を受けて煌めいたのは、金の装飾。小さな花と実を象ったそれは、花の中心にきらきらと輝く白い石が嵌め込まれている。
 ぱっと見ただけでは、それほど値が張るものには見えないだろう。けれどよくよく見てみれば、これが安価なものではないことが明白だ。
 地面に落ちた衝撃で、花や実は歪んでしまっている。白い石も取れてしまっていて、それも一緒に拾い上げた。輝く白い石は今、紗々羅の手の中で寂し気にしている。
「……治して欲しいの? 良いよ、治してあげる」
 口の中でそっと小さく呟いて、紗々羅は泣き崩れている両親の前に立つ。影が差したからか、父親の方が顔を上げた。母親はまだ泣いており、別の女性に背を撫でられている。
「おはようございます」
「あ……あなたは、修復師の」
「はい。そこの店のものです。お嬢様の簪が落ちてしまっておりましたので」
「これは、どうも……」
「差し出がましいことを申しますが、こちらを修復させていただけませんか。お代は結構ですので」
 これでお代を頂戴しますと言えば、押しつけがましくなるだろう。この申し出は単に簪を紗々羅が修復したいからであって、仕事がしたいというわけではない。
 この目の前にある簪が、壊れたままであることを嫌がっている。ただ、それだけだ。
「え?」
「大切なものかと思いましたが、違いましたか?」
 何を言っているのかと目を丸くしている男に、紗々羅はことりと首を傾げた。
 少女はこんな朝早くから、高価な簪を髪に挿していた。彼女を見かけたことは何度もあるが、この簪を普段使いしていた様子はない。着物もまた少女らしいものではあったが、彼女がいつも着ていたようなものではない。
 つまりは、どこかへ出かけようとしていたのだろう。着物も、簪も、上等なものを揃えていたのだから、大切な用事だったのだろうか。
「お嬢ちゃんは龍の鱗を呑んだのか?」
「まさか! そんなはずは……」
 かけられた声に、父親が目を伏せた。
 あの連れていかれた彼女がどうであったのかは知らないが、真実異能者であったのなら、もう二度とここに戻ってくることはないだろう。そんなことを考えていると、しゃらりと紗々羅の手の中の簪が音を立てた。
「どうなさいますか?」
 ただ、彼女が異能者であろうとなかろうと、今問いたいことはたったひとつだ。そして重要なことも、紗々羅にとってはたったひとつだけ。
 この簪は直して欲しいと言っている。とはいえ勝手に紗々羅が修復するわけにはいかないのだから、父親なり母親なりの了承は必要だ。
 父親の視線が、紗々羅に突き刺さっている。それは今必要なことなのかと、問われているかのように。これだから人間は面倒くさいとそんなことを思いながら、手の中の金の簪に視線を落とした。
「直して、いただいて……」
 か細い声は父親の隣から聞こえてきた。「お前」と父親が母親の方に顔を向けている。
「あの子の、お気に入りだもの。戻ってきたときに壊れていたら、悲しむわ」
「かしこまりました」
 欲しかったのは、そのことばだけだ。「直してくれ」というそのことばさえあれば、他に何かを聞く必要もない。
 後のことはすべて、簪に聞けばいい。何もかも、この簪が知っている。
「壊れたことなどなかったかのように修復することを、お約束します」
 新聞を脇に挟んだまま、紗々羅は手のひらの簪にそっと声をかけた。――「良かったね」と。再びしゃらりと音を立てて、それきり金の簪は沈黙した。
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