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序
その身は愚人、夏の虫
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夜の静寂を劈いたのは、男の悲鳴だった。
「ひ、人だ! 捩れ花の池で人が首を括ってる!」
それは最早どっぷりと夜も更け、月もない日。真っ暗闇の中を千鳥足で歩いていた酔っ払いが、ランプの光で見たものだった。おぼつかない足取りのまま、開襟シャツもズボンも汚してこけつまろびつ走ってきた男の声に、眠っていた人々が叩き起こされる。
着物一枚のもの、まだ日中の姿のままのもの、誰もが手に手にランプを持って照らしてみれば、池の中央の樹に確かに何かがぶら下がっている。かといって深い池の真ん中までざぶざぶと入っていくわけにもいかないだろう――昼日中であっても準備が必要だというのに、この夜更けだ。
酒臭い男を引きずりながら、人々は話し合い、そして決めた。どうせあの遺体は朝までぶら下がっているだろうから、朝になってから確認すれば良いだろうと。
ゆらりゆらりと、吊られた何かが揺れている。だらりと下がった足には履き物もなく、ただ弱いランプの灯火にぼうっと照らし出されている。
橙色の光を反射して、何かが輝いた。
そして、朝。
人々が池まで見にいけば、そこにあったのは人形であった。確かにそれは暗がりでは首を括った人に見えたのだろうが、朝日の下では間違えようもない。一体誰が作ったものかは分からないが、関節のところにはしっかりと球体があり、人間のものでは有り得ない。
酔っ払いが人形を見間違えたのだ、まったくはた迷惑な話ではないか。
人々がそう呆れて口にする中で、昨晩首吊りだと叫んだ男だけが顔色を悪くしてがたがたと震えていた。
男は言う、「違う」と。「自分は確かに死体を見た」と。
酔っ払いの戯言だ。そもそもこの池に人はほとんど近寄らない。なぜならこの先には、決して立ち入ってはいけない場所があるからだ。
この話は新聞にも書き立てられた。「酔っ払いが見間違えたのは人形だった」という見出しで、本当に紙面の端に、小さく小さく。
悪戯だなと、人形を片付けるかと、この話はそれで終わった、はずだった。
※ ※ ※
じじ、じじ、と音を立てて、蛾の翅が灼けた。視線を向けて溜息を吐き、ぱたりと窓を閉めてしまう。時刻はすでに夕さりつ方。太陽は山の端に姿を隠しかかって、橙色の強い光が空を染めている。
そろそろ、店仕舞いの時間だろう。今日引き受けたものは三件、修復が終わったものが二件で、修復が終わったものは明日にでも連絡を入れて引き取りを待つ。棚に並んでいた修復済みのものも、今日は三件引き取りがあったので半分にまで減った。
ぼーんぼーんと店の奥に置かれている大きな柱時計が時刻を告げる。短針は六のところに、長針は十二のところに。やはりちょうど店仕舞いだ。
閉じた窓の向こう、誘蛾灯の周りを蛾が飛び回っている。虫というものはそれが命を奪うと分かっていても、どうしても飛び込まずにはいられないのだろうか。そんなことをふと考えて、けれど人間も欲の虫が疼けば罪に飛び込むことを思えば、似たようなものだろうと結論付けた。
まだ虫の方が、純粋だ。光に向かいたいという本能で、翅を灼く。人間のそれは本能ではなくて、欲望というものだろう。欲にかられて何かをする人間は、ろくなものではない。虫がろくなものかどうかは、さておいて。
扉に鍵をかけようと立ち上がったところで、からんころんと鐘が鳴った。開いた扉の向こうに見えた人影は背が高く、帽子を被っている。
「邪魔をする――そろそろ店仕舞いか?」
「いらっしゃいませ。ご依頼だけでしたら、構いませんよ。今すぐ修復せよと申されますと大変困りますが」
「そんなことを言うつもりはない」
山の端に太陽が隠れ、店内はすっかり薄暗くなる。机の上にあったランプのつまみを捻って火を灯せば、ぱっと橙色の光が店内に広がった。
黒の軍服に差し色は薄い青。黒装だと、そう思いはしたが口には出さなかった。男が軍帽を取って、机に置く。それから彼はランプのようなものを、軍帽の隣にことりと置いた。
「こいつの修復を頼みたい」
「こちらは……火が灯らないということですか?」
「いいや、火は灯る」
見たところ何の変哲もない、携帯用のランプには見える。つるりとした硝子の面、それを取り囲むような金色の装飾。派手なところはないが、見るからに上等なものではある。
火が灯るのならば、どこも壊れてはいないのではないか。修復が必要そうには思えず、何を言っているのだろうかと、つい男の顔を見てしまった。
妙に整った顔立ちの男である。実は人間を誑かしに異形のものが化けていますと言われても、「そうですか」と信用してしまいそうなくらいには。とはいえ人間の美醜など皮一枚のことである。
「では、修復は必要ありませんね?」
「まあ聞け。こいつはランプではなく、誘蛾灯だ」
つい、窓の外を見た。
誘蛾灯は今も橙色の光を放って、虫を誘っている。羽を灼かれた虫は、きっと誘蛾灯の下でぼとりと落ちて腹を見せていることだろう。不思議なもので、誘蛾灯に誘われて灼かれた虫は、すべてを投げ出したかのように白くて柔らかい腹を見せる。
また、視線を戻した。
目の前の男は、それこそ誘蛾灯の霊か何かなのだろうか。ただし誘うものは蛾のような虫ではなくて、人間だろうけれど。
「腕のいい修復師と聞いたが、期待外れか?」
「はい?」
聞き捨てならないことばに、つい聞き返す。
「お前に修復を頼めば、物は壊れていたことを忘れたかのように、新品同然になるという話だったが。とんだ肩透かしだ」
肩透かしというのは、この誘蛾灯が壊れていると見抜けなかったことに対してなのか。やはりそれは、聞き捨てならない。
これでも矜持というものがある。修復師という看板を掲げ、この腕で食べている。
「分かりました、引き受けましょう」
「そう、こなくては」
目の前で男が笑っていた。口角を吊り上げて、にんまりと。
これが売り言葉に買い言葉というもので、男にまんまと手のひらで踊らされたのだと、そう気付いたのは、契約書を取り交わし、男が店を出て行ってからのことだった。
「ひ、人だ! 捩れ花の池で人が首を括ってる!」
それは最早どっぷりと夜も更け、月もない日。真っ暗闇の中を千鳥足で歩いていた酔っ払いが、ランプの光で見たものだった。おぼつかない足取りのまま、開襟シャツもズボンも汚してこけつまろびつ走ってきた男の声に、眠っていた人々が叩き起こされる。
着物一枚のもの、まだ日中の姿のままのもの、誰もが手に手にランプを持って照らしてみれば、池の中央の樹に確かに何かがぶら下がっている。かといって深い池の真ん中までざぶざぶと入っていくわけにもいかないだろう――昼日中であっても準備が必要だというのに、この夜更けだ。
酒臭い男を引きずりながら、人々は話し合い、そして決めた。どうせあの遺体は朝までぶら下がっているだろうから、朝になってから確認すれば良いだろうと。
ゆらりゆらりと、吊られた何かが揺れている。だらりと下がった足には履き物もなく、ただ弱いランプの灯火にぼうっと照らし出されている。
橙色の光を反射して、何かが輝いた。
そして、朝。
人々が池まで見にいけば、そこにあったのは人形であった。確かにそれは暗がりでは首を括った人に見えたのだろうが、朝日の下では間違えようもない。一体誰が作ったものかは分からないが、関節のところにはしっかりと球体があり、人間のものでは有り得ない。
酔っ払いが人形を見間違えたのだ、まったくはた迷惑な話ではないか。
人々がそう呆れて口にする中で、昨晩首吊りだと叫んだ男だけが顔色を悪くしてがたがたと震えていた。
男は言う、「違う」と。「自分は確かに死体を見た」と。
酔っ払いの戯言だ。そもそもこの池に人はほとんど近寄らない。なぜならこの先には、決して立ち入ってはいけない場所があるからだ。
この話は新聞にも書き立てられた。「酔っ払いが見間違えたのは人形だった」という見出しで、本当に紙面の端に、小さく小さく。
悪戯だなと、人形を片付けるかと、この話はそれで終わった、はずだった。
※ ※ ※
じじ、じじ、と音を立てて、蛾の翅が灼けた。視線を向けて溜息を吐き、ぱたりと窓を閉めてしまう。時刻はすでに夕さりつ方。太陽は山の端に姿を隠しかかって、橙色の強い光が空を染めている。
そろそろ、店仕舞いの時間だろう。今日引き受けたものは三件、修復が終わったものが二件で、修復が終わったものは明日にでも連絡を入れて引き取りを待つ。棚に並んでいた修復済みのものも、今日は三件引き取りがあったので半分にまで減った。
ぼーんぼーんと店の奥に置かれている大きな柱時計が時刻を告げる。短針は六のところに、長針は十二のところに。やはりちょうど店仕舞いだ。
閉じた窓の向こう、誘蛾灯の周りを蛾が飛び回っている。虫というものはそれが命を奪うと分かっていても、どうしても飛び込まずにはいられないのだろうか。そんなことをふと考えて、けれど人間も欲の虫が疼けば罪に飛び込むことを思えば、似たようなものだろうと結論付けた。
まだ虫の方が、純粋だ。光に向かいたいという本能で、翅を灼く。人間のそれは本能ではなくて、欲望というものだろう。欲にかられて何かをする人間は、ろくなものではない。虫がろくなものかどうかは、さておいて。
扉に鍵をかけようと立ち上がったところで、からんころんと鐘が鳴った。開いた扉の向こうに見えた人影は背が高く、帽子を被っている。
「邪魔をする――そろそろ店仕舞いか?」
「いらっしゃいませ。ご依頼だけでしたら、構いませんよ。今すぐ修復せよと申されますと大変困りますが」
「そんなことを言うつもりはない」
山の端に太陽が隠れ、店内はすっかり薄暗くなる。机の上にあったランプのつまみを捻って火を灯せば、ぱっと橙色の光が店内に広がった。
黒の軍服に差し色は薄い青。黒装だと、そう思いはしたが口には出さなかった。男が軍帽を取って、机に置く。それから彼はランプのようなものを、軍帽の隣にことりと置いた。
「こいつの修復を頼みたい」
「こちらは……火が灯らないということですか?」
「いいや、火は灯る」
見たところ何の変哲もない、携帯用のランプには見える。つるりとした硝子の面、それを取り囲むような金色の装飾。派手なところはないが、見るからに上等なものではある。
火が灯るのならば、どこも壊れてはいないのではないか。修復が必要そうには思えず、何を言っているのだろうかと、つい男の顔を見てしまった。
妙に整った顔立ちの男である。実は人間を誑かしに異形のものが化けていますと言われても、「そうですか」と信用してしまいそうなくらいには。とはいえ人間の美醜など皮一枚のことである。
「では、修復は必要ありませんね?」
「まあ聞け。こいつはランプではなく、誘蛾灯だ」
つい、窓の外を見た。
誘蛾灯は今も橙色の光を放って、虫を誘っている。羽を灼かれた虫は、きっと誘蛾灯の下でぼとりと落ちて腹を見せていることだろう。不思議なもので、誘蛾灯に誘われて灼かれた虫は、すべてを投げ出したかのように白くて柔らかい腹を見せる。
また、視線を戻した。
目の前の男は、それこそ誘蛾灯の霊か何かなのだろうか。ただし誘うものは蛾のような虫ではなくて、人間だろうけれど。
「腕のいい修復師と聞いたが、期待外れか?」
「はい?」
聞き捨てならないことばに、つい聞き返す。
「お前に修復を頼めば、物は壊れていたことを忘れたかのように、新品同然になるという話だったが。とんだ肩透かしだ」
肩透かしというのは、この誘蛾灯が壊れていると見抜けなかったことに対してなのか。やはりそれは、聞き捨てならない。
これでも矜持というものがある。修復師という看板を掲げ、この腕で食べている。
「分かりました、引き受けましょう」
「そう、こなくては」
目の前で男が笑っていた。口角を吊り上げて、にんまりと。
これが売り言葉に買い言葉というもので、男にまんまと手のひらで踊らされたのだと、そう気付いたのは、契約書を取り交わし、男が店を出て行ってからのことだった。
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