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アザマロ譚
九 ミヤコ
しおりを挟む平城京。
陸奥のイチョウやカエデの葉が紅葉して、燃えるように色づく錦秋に出立した
藤原小黒麻呂一行と陰陽師が帰京したのは、日本中の神々が出雲大社に集う月で、
各地の神社には神が留守にしていなくなる神無月だった。
ちなみに、出雲では逆に神々が集まるので神在月、翌月の霜月は神々が帰るの
で神帰月と呼んでいる。
紫宸殿正面きざはしの向かって左側に植えられた橘の香り高い白い花が既に落
ち、蜜柑に似た小さな果実がなっていた。
北を背にして南面する玉座から右側に位置する右近衛府が管理していたので、
右近の橘と称される。
対を成すように植えられた左近衛府が管理する左近の桜の木も、きざはしを挟
んで冬越えの遠い春を待っていた。
右近の橘を横切って、正装した藤原小黒麻呂が、清涼殿の南西の隅にある一室
に向かった。
鬼の間と云われた壁には、伝説の白沢王が鬼を切る絵が描かれていた。
陸奥征夷にてこずったあげくの果て、その失敗の報告を針の筵の思いで訥々と
語る小黒麻呂のしわがれた声だけが鬼の間に響いていた。
御簾越しの帝は一言も発せず、憮然として奥に下がった。
後日、小黒麻呂は引責辞任の処分が下されて失脚し、以後は昇殿を許されず二
度と政の表舞台に出る事を憚られた。
陸奥胆沢。
ピーンと、木の枝が弓のようにしなって軽くなった雪をなぎ払い、まっすぐに
なっていく。
北国の長い冬を越して春になり、草花が芽吹き始めた。
弓のような形をした下弦の月が、真夏の頃まで残雪に埋まっている高山の谷間
の雪渓を照らし出していた。
雪月花、雪と月と花が同居する幻影的な空間が広がっていた。
一日の内、四刻しかヒトでいられない。
日が短い冬には、それだけヒトに戻れる時間が少なかった。
今年は、これまでと違っていた。
春を迎え、日が長くなっても、ヒトでいられる時間は冬のままだった。
陰陽師の言っていた通りだった。
このままでは、互いに禽獣に取り込まれるのは明白である。
奇妙な感覚であった。
日の出と日の入にだけ、お互いの瞳がヒトとしての姿に見えるような瞬間を、
夢のように覚えていた。
それだけが、アザマロとナギにとっての生きる支えであった。
ミヤコに行かなければ、先が見えない。
陸奥で生まれ育ったアザマロは、ミヤコの場所など皆目見当が付かなかった。
さりとて、朝廷軍の兵を捕らえて道案内をさせる訳にもいかない。
アザマロは思案した末に、頼りになるのはあの男しか思い当たらなかった。
ほぼ雪が解けた江刺の里を流れる河から、渡り鳥のコハクチョウが大陸へと飛
び立っていった。
アザマロは、鷹を伴ってイサセコを訪れた。
縁側の欄干に、鷹が止まって毛繕いをしていた。
アザマロが、地図を広げて京を指差した。
「何をしに行く」
イサセコは、アザマロの前の盃に濁酒を注ぎながら聞いた。
「理由は、知らぬが花か」
手酌で酒を並々と注ぐと、ゴクゴクと豪快にイサセコが酒を呑み干した。
「で、いつだ」
イサセコは、アザマロが何か朝廷に対して企てるつもりであると感じた。
アザマロは、暦の葉月の満月を指した。
「陸路でお尋ね者を連れて、国府や関所を抜けるのは無理だ」
イサセコが、言った。
アザマロは、酒の膳を横にずらして、イサセコに頭を下げた。
「分かった。梅雨が明けたら、また来い」
柵を造って攻めて来ようとした朝廷軍を追い払い、この地を治め続けられてい
られるのは、目の前にいるアザマロのお陰だと思っていたイサセコはその意を汲
んだ。
「舟を使い、海を渡ろう」
イサセコは、提案した。
アザマロは、伊治で俘囚だった頃、朝廷軍の兵に聞かされた事があった。
日高見川の流れの果てには、一面水に覆われたウミと呼ばれる場所がある事を。
「長雨を避けて、潮を読んで行かねばならぬ」
イサセコは、冷静に語った。他に手立ての無いアザマロは、イサセコに賭ける
しかなかった。
〝ピーッ〟
鷹を笹笛で肩に呼び戻すと、アザマロは山に戻って行った。
内裏の左近の桜が咲く頃、長く幽閉されていた元皇后・皇太子の母子の二人が、
同日の内に双方亡くなった。
毒殺であったとされている。
光仁帝には、高野新笠という百済系帰化人である側室との間に、山部王が産ま
れていた。
山部王は、他戸部親王とは異母兄となる関係である。
そもそも、実母が皇族でなければ、皇太子になる資格が無いとされていた時代
に、その出自の問題を抱えながらも、先の事件により皇位継承順位が山部王より
上位の者がいなくなる事態になった。
その結果、不惑をとうに過ぎてから山部王は、公式に皇太子に決まる立太子に
なったのである。
生を受けて以来、云われ無き差別的待遇の辛酸を舐めてきた経験から思慮深く
なった山部王は、様々な政界工作を弄して実父である光仁帝に、生前譲位を働き
かけた。
にわかに策謀渦巻く清涼殿において、これまで仕切っていた藤原小黒麻呂が退
官したので、朝議は次の征東将軍を誰にするかについて紛糾していた。
蝦夷の反乱が頻発している昨今、朝廷として、陸奥国府に責任者を置かない訳
にはいかない。
主無き城など、国府として体を成さない。
戦を仕掛けずとも、将軍を置くか否かでは、その抑止力としての牽制が効かな
くなってしまう恐れがあった。
帝の威光が衰えていない事を内外に示すためにも、将軍職を空席にはできない。
また、純潔主義の天皇家にあって山部王に帝を譲る事は、他民族の血で汚され
るという思いであった。
喫緊の皇位継承問題を抱えて戦をする余裕など無い光仁帝は、山部王に対抗す
る後継者として早良親王の擁立を画策した。
その早良親王と懇意にしていて、さし当たって蝦夷を刺激せずに休戦状態にで
きる人物を推した。
春宮大夫従三位の役職を持つ、大伴家持その人であった。
『海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 天皇の辺にこそ死なめ……』
という大東亜戦争時の戦意高揚として利用された長歌と共に、
『天皇の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 黄金咲く』
の歌で陸奥産金の喜びを表現して、穏健で内裏随一の万葉歌人として名を馳せた
風流人である。
帝は、政治的にも外堀を埋めて置こうという目的で家持を担いだのだった。
その温和な性格から、朝廷内においても敵を作る事も無く、任を全うできると
思われた。
譲位させられた太政天皇と次期天皇とが、皇位争いに明け暮れる中、そのどち
らにつくかで自分の将来が決まると固唾を飲みながら様子見の参議達には、異存
などある筈も無かった。
日高見川。
梅雨が明け、長雨による川の増水も落ち着いた頃だった。
一艘の川舟が、流れを下っていた。
舟には、イサセコを頭にして数人が乗り組んでいた。
イサセコは約束通り、アザマロを連れ出していた。
アザマロが持って来た不思議な形をした剣については、イサセコは触れなかっ
た。
元来、余計な詮索をする男ではなかったのである。
「これはツガル(東日流)から来て、先年亡くなった嫁の間にできた一粒種の小
倅だ。名をイカコ(伊加古)という」
四歳くらいの利発そうな童が、父親のイサセコに紹介されてペコリとお辞儀を
した。
「こいつには、日高見以外の大きな世界を見せてやりたい」
アザマロは、自分には無い視点をイサセコに感じた。
「子連れの商い人を装えば、ヤツラもそう警戒すまいて」
イサセコは、笑い飛ばした。
陽が沈み始める頃だった。
「ミヤコに着くまで怪しまれぬように、その鷹と共に舟底に潜っておれ。飯はこ
いつに届けさせる」
と言って、イサセコは一人息子の頭を撫でた。
揺れの動きが変わり、舟は沖に出たようだった。
国府に新たな将軍が着任したようだったが、戦より懐柔政策をとっていたので、
道中は特に見咎められる事も無く順調であった。
夜明けまで空に昇っている有明月に向かって、狼の遠吠えが真っ暗な海上に響
き渡った。
イサセコの部下達は、震え上がり、言われるまでもなく近付いては来なかった。
好奇心旺盛なイカコがそっと舟底を覗くと、ヒスイの勾玉が目に止まった。
そこにはアザマロの姿は無く、代わりに勾玉を胸元に付けた裸の若い女が静か
に横になっていた。
イカコは驚いた。
「ガルウウゥ」
イカコの臭いに反応して低く唸る狼を、ナギがたしなめた。
ナギは、右人差し指をイカコの唇に優しく当てながら左の小指をそっと差し出
した。
黙っていてくれという約束の合図だった。
イカコは、ピンと伸ばして小指を出した。
狼が見詰める中、二人は指きりゲンマンをした。
父しか知らないイカコは、母の面影をナギに見たのかもしれない。
水平線は、どこまでも先に続いていた。
舟底の小窓越しに、海から昇る朝陽をアザマロは生まれて初めて目にした。
陽は山の間から昇り、反対側の山に暮れていくものだと思っていたからだ。
海の向こうから連れて来られたというナギの話しを思い出した。
日高見の狭隘な土地であがく自分が小さく感じた。
イサセコの言う大きな世界という意味が分かるような気がした。
潮風が当たる甲板で、イカコが舟の掃除をしていると、父親のイサセコが通り
かかった。
「何だ?」
イカコの何か言いたげな目を見て、イサセコが聞いた。
「……」
イカコは、言葉を飲み込んだ。
「人に言えぬ約束でもしたのか」
イサセコは、言った。
「……」
イカコは、黙ったままだった。
「ならば、父といえども決して話すな。人の信用を得るというのは、何よりも大
切な事だ」
そう言い残して、イサセコは立ち去った。
イサセコは、アザマロの事については深く聞こうとしない態度を貫いていた。
阿吽の呼吸が合っていたとも言うべきだろうか、口に出さなくとも互いに通じ
合えるものがあった。
この旅を通じて、信頼できる相手を選別できる眼力を養う事を、父親として息
子に伝えたいと考えていた。
イサセコの舟は十日ほどかけて海を渡り、文月の終わり頃に、和泉に上陸した。
月の終わりの三十日月から、月初めの新月になっていた。
陸に上がっても、アザマロは夜になると決まって姿を消した。
そんなアザマロの行動を不審に思う部下を、自分の仕事をしろとイサセコは一
喝した。
糸のように細い繊月、そして三日月の頃には、陸伝いに河内を抜けた。
大和に入った時には、上弦の月になっていた。
羅城門。
平城京の外郭の真南に位置し、目抜き通りである朱雀大路の南端に建った楼上
には鬼が棲むと噂される巨門である。
実際は、北方守護のため兜跋毘沙門天が安置されていた。
許可された者しか、羅城門をくぐる事はできなかった。
この門の中こそが、帝の居城なのである。
俘囚としての爵位を持ち、入京を許されていたイサセコは、吉弥候という賜姓
と共に国府の将軍の花押が記された通行許可証を門番に見せた。
イサセコの下僕として付き従う形で、鷹を連れたアザマロも、特別に不審に思
われる事無く門をくぐった。
まさか、陸奥のお尋ね者の国賊が京の町を徘徊するなどとは、誰も予想だにし
ていなかったからだ。
アザマロは、絶句した。平城京の大きさと、人の多さに驚いた。
整然と区画され、陸奥に据えられた多賀城の十倍以上の規模であった。
屋根に青い瓦が葺かれ、白壁に朱塗りの柱が色鮮やかに際立っていた。
花、水、木など、陸奥の自然の色しか触れなかった目には、その人工的な配色
に奇異を感じた。
自然を制圧して人の手で管理された町並みを見て、アザマロは朝廷の人や自然
に対する傲慢な思想を嫌悪した。
自然界の動物は、鵜の目鷹の目の連続であり、食うか食われるかだ。
だが、動物は空腹時か敵に攻撃されない限り、必要以上の殺生はしない。
エミシと蔑み、抗う者をオニと呼んで退治する強欲なミヤコの者共こそ、ヒト
の皮をかぶった魔物だ。
ミヤコの人間は獣以下で、ここはオニの棲み家だ。
こんなヤツラと戦っていたのか………上京する際に見た広大な海の広さ、そし
て異なる土地に住む身なりの違う人々の群れを見て、アザマロは自身の見識の小
ささを思い知った。
平和的に自然の中で暮らす陸奥の人々が、正面から戦って勝てる相手ではない
事を見知った。
真っ直ぐに延びた朱雀大路の先に、別の門が見えた。
皇居と諸官省の区域である大内裏への出入口、朱雀門であった。
「月の満ち欠けからすると、今夜は十五夜だ。ここから先へは、都人とて用意に
は進めぬ。これ以上の手助けはできぬぞ」
暦の知識があるイサセコが、アザマロに言った。
アザマロは、右手を差し出して握手を求めた。
「命を無駄にするな」
イサセコは、アザマロの手を強く握り返した。
イカコが、アザマロに風呂敷の包みを手渡した。
イカコの頭を撫でた後、アザマロが夕闇に紛れるように消えた。
明日を逃せば、永遠にヒトに戻れなくなってしまう。
夜空には、みごとな望月が昇っていた。
橋の下で、ナギは河原に打ち捨てられた餓死者の衣服を纏い、風呂敷包みを咥
えた狼と共に乞食の振りをしながらじっとうずくまっていた。
ナギにも、特別な夜である事が感じられた。
その手には、ヒヒイロカネの剣が握られていて、追い剥ぎでも襲って来ようも
のならば、立ち向かう覚悟で一睡もしなかった。
寅の刻を過ぎると、朝陽が昇り始めた。
ナギが鷹に変わり、狼がアザマロに戻った。
鷹は、居眠りを始めていた。
昨夜のナギは寝ずの番をしてくれていた事が、アザマロにも分かった。
鷹を起こさないように、しばらく橋の下で様子を窺った。
陽が、真上に射しかかっていた。
異変を察知したのか、熟睡していた鷹が、急に眼を覚ました。
雲一つ無い真っ昼間だというのに陽光が陰ってきた。
円い太陽は、まるで塗り潰されるように端から黒くなっていく。
京の人々は、恐怖におののいた。
暗黒の大王が、やってきたという流言蜚語が飛び交った。
日が完全に月に蝕まれて、文字通り皆既日蝕となった。
覆われた月の影を縁取って、木洩れ日のように日の光が漏れていた。
昼か夜かも分からないような天候に、アザマロとナギが共に人間の姿に戻った。
二人は、二年ぶりに再会を果たした。
ナギは、大粒の涙を流しながら嬉しくて咽び泣いた。
強く抱擁しながら互いの身体の温もりを確かめ合った。
昼が夜になるという意味を、アザマロはこの時に解った。
後は、術をかけた陰陽博士をこの世から消すだけだ。
涙を拭いながらナギが、興味深そうにイカコがくれた風呂敷をしきりと見るの
で、アザマロは手渡した。
開けてみると、包みには女物の着物と小さな函が入っていた。
内裏。
日蝕を凶事の前触れだと考えて、帝は身を震わせていた。
紫宸殿の前では白装束の陰陽博士が、護摩壇の前で調伏を行なっている。
「心配召されるな。半刻もすれば、日の光は元に戻りまする」
博士は、弟子の陰陽師達を従えながら帝に安心するように言った。
朱雀門。
スーッと、化粧をした艶やかな衣装姿のナギが現れて、母国にいる時に習い覚
えた妖艶な舞いを踊った。
その着物と化粧道具は京への長い旅路にさえ、イカコが片時も手放さずに大切
に持っていた物だった。
祭祀を司っていたという母の形見の晴れ着であった。
満足な衣類を持たないナギを不憫に思い、アザマロに託したのである。
その都度、必要な時以外は頑強に閉じられている門を警備している兵達が、呆
気に取られて舞いを眺めていた。
騒ぎになって中に詰めた兵が押し寄せないようにと、注意を逸らせながらナギ
が近付いて来た時だった。
ナギの背後から、ヒヒイロカネの剣が一閃した。
賊の侵入を知らせる間もなく、門を守っていた兵達の胴体が、真っ二つになっ
て路上に転がった。
アザマロを背にしたナギが、宙に浮き上がった。
鷹の血が半分入っているナギは、まるで鳥が羽ばたくように軽やかに地を蹴っ
て門を飛び越えた。
音も無く朱雀門の中に降り立つと、そこは中央官庁が集中する大内裏だった。
日蝕に脅える役人達は、静かなる侵入者に気を配る余裕も無かった。
アザマロは、鼻をヒクつかせた。
半獣身である狼の習性を宿したその鼻は、陰陽師の体臭を覚えていて、その臭
いを嗅ぎ付けたのであった。
その見えざる痕跡を追って、左右に建つ式部省と兵部省を見ながら中央の八省
院の左に並んだ民部省と太政官の間をすり抜け、中務省に吸い寄せられるように
臭いを辿った。
北を背にして南面する玉座から向かって、正面出入口である内裏外郭門の建礼
門の前に、アザマロとナギは立った。
帝の居る内裏の中心とは、目と鼻の距離だった。
無用な争いをしたくないアザマロは、ナギに助けられながら必要最小限の力で、
宮中への潜入を果たした。
アザマロは、ヒヒイロカネの剣を抜いたまま走りながら強く念じた。
日蝕のせいで、昼なお暗い内裏に、光明のように一つだけ光点が映えた。
剣に導かれるように、アザマロがナギを伴ってまっしぐらに駈け出した。
ここまで来たら、正面突破だ。
陰陽博士が、異変に気付いて調伏を中断した。
すると、目映い光を発して最後の扉である承明門が吹き飛ばされた。
紫宸殿の左右に飾ってある桜と橘の植木が、風圧で宙に舞った。
〝ヤツが来た〟
待っていたとばかりに、あの陰陽師がアザマロに呼応するようにして、背後か
ら博士に呪をかけた。
「貴様、なにをする!」
捕縛の術をかけられて動けなくなった博士が、陰陽師を睨んだ瞬間にアザマロ
が剣を振りかざした。
「お前は?」
耳まで裂けた口から食み出して牙を剥く獣身に、自らが術をかけたアザマロだ
と博士が悟った刹那、その首が肩から離れて水平に飛んだ。
博士の首は護摩壇に落下し、その焔で焼かれた。
「悪鬼じゃ」
帝は、業火のように焔越しに揺れて鬼気迫るアザマロの姿に腰を抜かした。
近習達は、我先にと後ずさって遁走した。
アザマロが、帝に迫って行く。
コイツが、陸奥に攻める事を指示している張本人なのだ。
コイツさえ討てば、戦は終わるかもしれない。
「アザマロか」
騒ぎを聞き付けて、兵部省に出仕していた紀古佐美が楯となって帝を守った。
右近と左近府それぞれの近衛兵達が、剣を携え矢を弓弦につがえた。
「■■■■■■」
怪音波のような咆哮をしながら、アザマロが剣を輝かせた。
ヒヒイロカネの霊力が、発動された瞬間だった。
近衛兵達は、一瞬にして蒸発した。
あれが、ヒヒイロカネの剣か?
人知を超えた尋常ならざるその魔剣に、紀古佐美は畏怖した。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」
護身の呪が、陰陽師によって唱えられた。
アザマロは、ナギを促して顔を上げた。
日の光が、二人に降り注ぐように戻ってきた。
「悪霊退散!」
陰陽師は、九字を切りながらアザマロとナギの前に立ちはだかるようにして天
空を指差した。
鷹と狼の幻影が、二人の身体から抜け出ていく。
陰と陽、月と日、月蝕に結ばれた妖術は、日蝕に解き放たれたのであった。
かけられた禽獣の術が解け、アザマロとナギはヒトに戻った。
「目的は果たした筈。その剣を引いて、野に戻れ」
陰陽師が、言った。
手引きしてくれた陰陽師の目を見ながら、アザマロは剣を鞘に静かに収め、ナ
ギの手を取って内裏を後にした。
天皇の即位式に必ず用意される日像幢が、紫宸殿の前に建てられた。
黒塗りの三尺三寸余り(約1m)の柱に、九つの丸い輪を貫き、上に朱で三本
足の八咫烏を描いた金漆塗りの円板を付けた纏いのような形をした物である。
この年の日蝕を境に、光仁帝は三種の神器の返納を強いられて、正式に帝位を
追われた。
天応は二年で終わり、延略元年(782)と改元され、山部王は桓武という帝
の名で齢、四五にして玉座に就いていた。
父亡き後の即位であれば、こうもすんなりとは継承は難しかったであろう。
陰陽師を介しての呪殺や毒を用いた暗殺等、政治的謀略が天皇即位にはつきも
のの時代である。
桓武帝は、機を見るに敏であった。
後世の江戸時代における、将軍吉宗の場合を彷彿とさせる。
五条大橋。
平安京に新設した時、同名の橋で牛若丸と弁慶が戦って高名になる場所だ。
十五夜の満月よりも出が遅い様子を月がためらっていると見立て、そのためら
うという意味のいざよふから命名された十六夜の月が出ていた。
月を眺めながらアザマロもまた、ためらっていた。
このまま陸奥の日高見に戻り、平穏に暮らす事ができるのだろうかと。
京の町では、恐れ多くも帝を襲撃した二人に対する厳しい捜索が行われていた。
戒厳令が敷かれた京を脱出するより、町に紛れる方が安全だと考えて、アザマ
ロとナギは橋の下に潜んだ。
ナギは、化粧を拭って汚いボロ衣に着替えていた。
アザマロは、ヒヒイロカネの剣を鈍く発熱させて、自分自身の顔に向けた。
「ッ?」
驚くナギは、言葉を無くしていた。
強い疲労感に、アザマロがさいなまれた。
“マヨイガ”の仙人が言っていた、命を吸い取る剣という事を思い出した。
ヒヒイロカネと呼ぶ剣は、ヒトを喰う事で存在し続けるのだろう。
今更ながら、剣の威力に脅威を感じた。
この剣を使って、ここを支配するミカドとやらを殺す事もできた。
しかし、それで本当に陸奥と朝廷との戦が止められるのか?
この剣は、安易にヒトが扱うモノでは無い。
ヒトの世界そのモノを滅ぼしてしまう力を持つ。
ミヤコとの共存の道を探る方法はないものか……酷い火傷を負って、アザマロ
の顔面が焼け爛れた。
ナギは、衣を破り取って川の水を浸し、アザマロの顔を優しく冷やした。
ナギを残して、アザマロは魔都の闇へと駆けて行った。
囮となり、追っ手を引き付ける事でナギを逃がそうと考えたのだった。
そして、自分は敵をもっとよく識るためにここで身分を偽り、しばらく京に残
る決意をしていた。
その夜の内に、ナギはイカコを介してイサセコと落ち合った。
即位した桓武帝は、自身が生き残っていくために、光仁天皇から玉座と共に陰
陽思想をも剥奪し、その陰陽道について並々ならぬ待遇をはかった。
前帝の息がかかった者を、容赦無く中務省から解雇した。
陰陽寮においては、殺された陰陽博士の後任に悪鬼を退散させた論功行賞とし
て、あの陰陽師がその地位に抜擢された。
平城京を捨て、長岡への遷都も旧勢力からの呪縛を一掃すると共に呪いから逃
れ、かつ、怨嗟の亡霊となった祀ろわぬ者を清めて己れを護るためだったのであ
ろう。
時期帝候補の早良親王の片腕だった事情から帰京を遮られた大伴家持は、着任
先の陸奥で病にて不帰の客となる。
そして、桓武帝の側近である藤原種継の暗殺事件の首謀者として、帝の弟の早
良親王が謀反の罪を着せられて憤死した。
帝位を奪取した桓武帝は、良心の呵責からか病的なほどに呪詛の力を畏れてい
た。
アザマロを利用して前任者を合法的に葬り去った事を契機に、影響力を増した
新任の陰陽博士は、陰で傀儡師のように帝を操ろうと虎視眈々と狙っていた。
新しき政は、長岡京において開かれた。
朝議では、次の陸奥按察使兼鎮守府将軍職に、紀古佐美の名が挙がった。
将軍職だった父がアザマロに殺されて以来、副将軍としてずっと陸奥に常駐し
ていた実績を買われての登用だった。
実際の所は、今まで陸奥に赴任した者は、ほとんどが散々な結果に終わってい
る事から鬼門とされ貧乏籤だという風評も立ち、その成り手がいなかったのであ
った。
因縁の地である陸奥への下向を、アザマロの行方を追いたい一心から紀古佐美
は謹んで拝命した。
心機一転をはかって新都の長岡に移るが、災いは止まらなかった。
都の周辺では、天変地異による飢饉や疫病が蔓延し、宮廷においても帝の妃を
はじめ、身内の者が次々と亡くなるという異常事態が続出した。
早良親王の崇りだと畏れた桓武帝は、その怨霊から逃れて永遠の平和を願うた
め長岡をも捨て去り、平安楽土としての平安京の建造を決意した。
この京の建設を支える財源を得るため、陸奥の蝦夷征伐を強行し、朝廷と蝦夷
との長い泥沼の戦が幕を開ける事になる。
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辺境も辺境、水一滴手に入れるのも大変なマクネイア男爵家生まれた待望の男子には、誰にも言えない秘密があった。それは前世の記憶がある事だった。姉四人に続いてようやく生まれた嫡男フェルディナンドは、この世界の常識だった『魔法の才能は遺伝しない』を覆す存在だった。だが、五〇年戦争で大活躍したマクネイア男爵インマヌエルは、敵対していた旧教徒から怨敵扱いされ、味方だった新教徒達からも畏れられ、炎竜が砂漠にしてしまったと言う伝説がある地に押し込められたいた。そんな父親達を救うべく、前世の知識と魔法を駆使するのだった。

特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。

異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
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上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
沖田ファミリー
JUN
ライト文芸
1歳の時に母を事故で無くした貴史は、父と動物たちと暮らしている。苦手なものはピーマンと人参と納豆。好きなものはプリンとオムライスとお父さんと動物達。一方父は穏やかで優しいと評判だが、元は捜査一課のエースだ。のんびりと、しかし子供たちは好奇心からか何かと事件に巻き込まれ、今日も沖田家は通常運転中です。
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