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アザマロ譚
五 月
しおりを挟む古来、東北は魔界から鬼が出入りする鬼門に当たり、特に岩手は鬼の巣窟と謂
われた。
その昔、赤い髪に青い目で身体が黒い羅刹という悪鬼の、あまりの悪行に里人
は困り果てていた。
里人は、人力ではとても動かせないほどの大きさで並んで立った二つの石と、
やや小さな石一つが寄り添っている、三ツ石の神様に祈った。
里人の願いを聞き入れた三ツ石の神様は、鬼を捕まえて岩の中に閉じ込めよう
とした。
大いに怖れた鬼は、悔い改めた印として、この巨岩に「手形」を押し、許しを
乞うたので神様は二度とこの地に来ないよう諭して放免した。
それからは、羅刹が再び姿を見せるような事はなくなったので、この地を「不
来方」と呼び、岩に手形の意から『岩手』の名が生まれたと言う。
まだ朝廷の支配が及ばず、鬼の棲むという岩手の南部に位置する胆沢地方に、
アザマロは入って行った。
副将軍紀古佐美は、率いた九割の兵を失って、多賀城に帰還していた。
惨憺たる負け戦の報に、将軍藤原継縄は愕然とした。
三千の兵を帝から預けられ、着任早々にその三分の一を戦死させたとあっては
面目も立たなかった。
アザマロに撃退され、戦意を喪失した藤原継縄は、態勢を立て直した後で蝦夷
攻撃を再開すると言いながらもこれ以上の失策を怖れて、以後は蟄居したまま城
から一歩も外へ出る事はなかった。
夏の盛りを過ぎて、秋の気配が訪れようとしていた。
とっぷりと陽が暮れ、夜を迎えた。
森の中では、夜行性の動物達が活動を始めていた。
〝ポリポリ〟
と、野ネズミが雑草の芽をかじっている。
〝キイキイ〟
喉を鳴らしながら、イタチが野ネズミを捕らえた。
〝バサバサ〟
羽音を立てて、ワシがイタチを文字通り、鷲づかみにして空に舞い上がろうと
している。
一貫(約3・75㎏)位までの重量なら、ワシはその鋭い爪でつかんで舞い上
がる事が可能である。
イタチ一匹など造作も無かった。
だが、狩りではイタチも負けていなかった。
イタチはワシの脚首を噛み切って、地上に引き摺り降ろした。
激しい取っ組合いの末、ワシの首根っこにイタチがかぶり付いた時だった。
苦労して獲ったワシを、テンがイタチから横取りした。
テンは素早い動きで息絶えたワシを口に咥えて、そのままスルスルと高い木に
攀じ登った。
ワシとの格闘で傷付いたイタチは、テンを追う体力を失っていたので、折角の
獲物も諦めるしかなかった。
テンが木のてっぺん近くまで登ってきたので、野鳥達が騒ぎながら羽ばたいて
いく。
揺れる枝から、木の実がポロポロと落ちていった。
カモシカが落下する木の実を見つけて、食べていく。
〝ピヤッ〟
スッと、耳をそばだてたカモシカが危険を感じた。
腹をすかせた一匹狼が猛然と、カモシカに向かってきた。
カモシカは全速力で逃げる。
狼はカモシカを追い回した末、あっという間にその喉笛を噛みきった。
狼の一晩の行動範囲は、7㎞から14㎞と言われる。
例え、好物の鹿肉であっても、自分で得た獲物以外には手を出さない。
まして、鼻の利く狼は人間のニオイの付いた物は絶対に避ける。
その嗅覚に優れるがゆえ、極力人間に近付かないように注意していた。
甘い樹液に、甲虫が群がっていた。
数匹の甲虫がまとめて、潰された。
赤褐色の毛足の長い、大きなヒグマが潰した甲虫を団子にした。
後ろから、小熊が親熊から甲虫を受け取って食べ始めた。
親熊は甲虫のいた木を引っ掻いて、ガリガリと瑕を付けた。
木に瑕を付ける行為は、熊の縄張りの目印を意味する。
他の動物においても、自分の子供を育てるために必要な餌を供給してくれる地
域として、それぞれに縄張りを持つ習性を持っている。
これを守るためには、同族であっても寄せ付けず、命を賭けて侵入者を撃退す
る。
そこに、カモシカを咥えた狼が現れた。
親熊は低く唸って、侵入者を牽制した。
狼は獲物のカモシカを置いて、逃げるつもりは無かった。
この場所は、狼にとっても縄張りであったからだ。
ヒグマは子供を守るため、狼は獲物を盗られないように、二頭の獣の眼が合っ
た。
〝グフォ〟
親熊が威嚇の声を上げながら、丸太のような右腕を振り回した。
熊の鋭い爪が、狼の左耳に当たって少し裂けた。
狼は後ずさり、熊が自分の獲物を狙っている訳ではないと判ったのか、尻尾を
巻いてその場を立ち去った。
自然界の厳しい食物連鎖の中では、その狼は新参者で不慣れであった。
洞窟。
ナギが独り火を焚いて、まんじりともしないで待っていた。
〝ワオォォォォン〟
狼の遠吠えが聞こえてきた。
ナギは、その鳴き声を確認すると、安心したように眠りについた。
朝焼けの光に中に立つ影は、アザマロだった。
アザマロの肩に、鷹が舞い降りてくる。
アザマロの裂けた左耳に気付いて、鷹が舐め始めた。
日中は朝廷軍を警戒し、夜中は獰猛な野獣達から身を守らなければならない。
昼夜を問わず、アザマロに安息の時は無かった。
アザマロは、自身とナギの身が何ゆえ獣に成り果てたのか、その原因を考え直
していた。
事の発端は朝廷軍の将軍らを殺めた時から始まっている。
事態の真相を究明するため、アザマロが胆沢を出た。
アザマロに撃退された朝廷軍は、多賀城に引き返したので、伊治城はもぬけの
殻同然で閑散としていた。
アザマロは、獣身から脱するための手掛かりを求めて、かつての居城である伊
治城に潜入した。
勝手知ったる城内には、たやすく潜り込めた。
詰所にいた兵の首に、背後からそっと小刀を当てた。
「ひッ」
兵は、驚いた。
「助けてくれ」
脅された兵は、両目を見開いて懇願した。
アザマロは、マヨイガの仙人が見せてくれた術師の施す九字を切った。
「陰陽師の事か…」
兵が、意味に気付いたようだった。
「ここには、いない」
続けて、兵が答えた。
アザマロが、小刀にグッと力を入れた。
「…月見の準備とかで、国府に…」
兵は、慌てて答えた。
空を、アザマロが指差した。
「いつかって? こ、今夜だ」
どもりながら答えた後、気配が無くなったの感じて兵がゆっくりと振り向いた。
そこには、誰もいなくなっていた。
今のは夢であったのかと思う、兵だった。
アザマロは、笹の葉を唇に当てて、草笛を吹いた。
それに応えるように、鷹がアザマロの差し出した左腕に留まった。
鷹の頭を一撫ですると、再び空に放った。
釈迦の遺骨の仏舎利を奪って逃げた鬼を追いかけて捕えるという韋駄天の如く
に、アザマロは原野を駆けた。
空が夕焼けに染まる前に、国府多賀城の町外れに到着した。
〝オンミョウジ…〟
アザマロは、伊治の兵が言っていた言葉を反芻した。
多賀城に近付くにつれて、朝廷軍の兵達の数が目に付いてきた。
広大な敷地を占領した柵の周りには高い塀が立ち並んで、さすがに国府は警戒
厳重であった。
ここまで遮二無二駆けて来たが、陰陽師なる者を如何にして探し出せばよいの
か……アザマロは、物陰に隠れながら頭を巡らせた。
遠くにカラスが鳴いて、日没が迫っていた。
夜陰に乗じて行動したかったが、今の自分の身の上では、それは叶わない。
一体、どうすれば………
と、アザマロが頭を抱えていた時、白装束の身なりをした者が出入口の門に、
チラッと見えた。
まだ、陽が暮れていないのに、東の空には満月が薄く見えていた。
「ッ?」
アザマロの脳裏に、ピンとくるものがあった。
月見がどうとかと、脅した兵が言った事を思い出した。
祭壇の下に、白い大きな団子を並べた皿があり、その横にススキと御神酒、様
々な供物が置かれていた。
〝誰そ、彼は〟
薄暗くて、人の顔が見分け難く、〝そこにいるのは、誰か〟と問う意味の黄昏
時だった。
アザマロは、辺りが暗くなり始めたのを見計らって、猫のような跳躍で塀を飛
び越えた。
陰陽師が、官衙街の数ある館の一つに入って行くのが見える。その後を追って、
アザマロが屋根を伝って近付いていった。
陰陽師は、館の明りを灯そうとした時だった。
アザマロは、陰陽師の首筋に刃を突き付けながら口を塞いだ。
陰陽師は、冷静を保ったまま頷いた。
刃を首に当てたまま、陰陽師の口からアザマロは手を放した。
「何用だ」
陰陽師は、静かに聞いた。
明り取りから、月明りがわずかに射し込む
暗がりの中で、アザマロは陰陽師に相対した。
「アザマロか…」
と、陰陽師が呟いた。
サッと、陰陽師の左腿をアザマロが斬った。
陰陽師が、動揺した。
続けて、右腿も斬った。
「何をする! 術を施したは我ではない」」
陰陽師は、斬られた両脚を押さえながら言った。
アザマロが、小刀を振り上げた。
「陰陽博士…」
逃げられないと観念したのか、陰陽師が白状した。
アザマロは、地面に日輪を模した円を描き、それを塗り潰して見せた。
「日蝕の事を言っているようだが…」
意味を解して、陰陽師は言った。
アザマロが、空を指差した。
「詳しい日時は星の相を観る、博士にしか解らぬ」
再び、アザマロが小刀を構えた。
「まことだ。陰陽道にも位が在る。我如きは、まだ暦を見定めるほどの立場では
ない」
命の危機を悟った陰陽師は、慌てて話した。
アザマロの天性の野性の勘が、見え透いた嘘をつく男ではないと直感した。
そして、前を探るような仕種をした。
「内裏だ」
陰陽師が、答えた。
朝廷に雇われていた時、赴任して来た下士官達が、帰京を懐かしみながら内裏
にいる貴族達の雅やかさについて雑談していた事を、
アザマロは思い出した。
アザマロは、さらに遠くを指した。
「己如きが、立ち入れる処ではないわ」
この時とばかりに、帝がおわす京も知らぬ無礼な野人に対して、陰陽師が毅然
として言った。
朝廷を侮辱する事は、この世の何人と言えど許されないと考えたからだった。
外に灯りが点き始め、館に光が洩れてきた。
日没直前だった。
アザマロは脱兎の如く館から出て行き、陽が落ちる寸前に柵を飛び越えた。
一瞬にして、狼に変わったアザマロは、満
月の光を避けるように闇に紛れていった。
ヒトに戻るのは、そう簡単ではない事を知らされただけであった。
陰陽師が、灯明皿に火を点けた。
そして、血に塗れた装束を着替えて、何事も無かったかのように月見の儀式に
向かった。
この頃、中国・唐の時代から日本に伝えられた風習で、陰暦八月十五日に行な
われる。
元々は、当時貴重であった里芋の収穫を祝う行事で芋名月とも呼ばれていた。
その後、天の恵みに感謝して、この時期の収穫全般を供えるようになる。
月は欠けてもまた満ちる。
つまり、一度姿を消しても再び現れる事から不老長寿の象徴でもあり、天に耀
くモノとして畏敬の対象とされた。
仲秋の名月と呼ばれる十五夜には、芋・野菜・米等を月の形に似せて団子にし、
その年の月数である一二個(閏年は一三個)とススキを供える。
ススキは生命力が強い事から、健康祈願の意味が込められていて、軒先に吊る
すと一年の間、病気にならないとされている。
また、日本独自の文化として、翌月の少し欠けた十三夜に粟や豆を供える所も
ある。
完全に満ち足りた瞬間から凋落が始まるので、頂点に達する途上であるモノを
愛でる独特の美意識でもある。
この思想は徳川家康を祀る日光東照宮において、廓の柱の一つを逆さに作り、
故意に不完全にする事で魔を祓う建築技法にも垣間見る事ができる。
長月になり、満天の星の真ん中に、満月の次に美しいと謳われ、栗名月と異称
される十三夜月がぽっかりと出ていた。
陰陽師は、先月に引き続いて月見の儀式を執り行なっていた。
十五夜と十三夜の両方を祝わないのは“片月見”と謂われ、縁起が悪いとされ
ていたからである。
藤原継縄は、館の縁側において、夜風に吹かれながら空を見上げていた。
欠けていく月を見ながら、我が世の儚さを感じていた。
国府にさえ易々と押し入り、陰陽師をも傷付けたという報を聞き及ぶにつれ、
継縄はいよいよ屋敷の奥座敷に引き篭った。
そんな臆病風を吹かせる彼に対して、軍監からの報告を受けた朝廷は、陸奥将
軍職を罷免した。
継縄がこれ幸いとばかり逃げるように京に戻って行った事は、言うに及ばなか
った。
士官としては、紀古佐美一人が多賀城に居残り、国府を守る事になった。
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