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ウクハウ譚
壱 兜明神
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奈良時代末期まで、朝廷の支配は東北地方には及んでいなかった。
鬼が棲むと思われ未開の地であった蝦夷地において、出羽の国だけは早くから
安倍比羅夫の征討によって、飛び地的に植民地化が進んでいた。
出羽の国では、方々から様々な罪人や流人等を徴兵して、辺境の地の蝦夷討伐
に当てた。
北国の厳しい自然と過酷な重労働に耐えかねて、脱走する輩も少なくなかった。
〝クザケェ〟
そのエミシの邑は、そう呼ばれていた。
国境、クニザカイ、クザカエ、そして、クザケェ…土地の方言による訛りが語
尾変化して区界となったとも言われる。
海側との境に位置していたのが由来らしい。
狼などの野獣が徘徊する山々を、徒党を組んで落人達が命からがらに越境を敢
行した。
北国の永い冬の雪解けを待つようにして出羽を逃れ、関所の無い方向に向った。
国脱けをした時には三十を超える人数だったが、北の自然に阻まれて、ある者
は崖から転落し、ある者は熊に喉を引き裂かれた。
これなら、兵役に服しているほうがマシだと後悔する頃には、半数が命を落し
ていた。
追っ手が来られないであろう国境を越えた時には、七名を残すばかりであった。
峠の小高い巖山を登り切った。
長旅で憔悴し切った七名の落人達の眼下に、火を焚く煙が昇る集落が見えてき
た。
助かった。
これで、命拾いできる。
武器を捨て、平和に暮らせる。
新天地を得て、ホッと胸を撫で下ろした時だった。
近くの竹林が揺れた。
次々に、落人達が血を噴いて倒れた。
獣の鋭い爪から頭を護るために兜をかぶった男は最期まで抵抗したが、無念の
内に息絶えた。
嶽の麓の平らな場所に、人知れず塚がひっそりと盛られた。
複数ある盛り塚は、幾度となく掘り返された形跡が残っていた。
クザケェの邑に変事が起きたのは、漏斗状に唇の形をしたスイカズラの花が散
った後だった。
蚊が全く出なかったのだ。
夏の間、冷たい風が邑に吹き降ろした。
いくら北国とはいえ、寒い夏に邑の者達は不安がった。
「ヤマセ…」
邑の長が、主だった者に説明した。
十数年に一度、東北地方特有の冷害をもたらす天候だった。
ヤマセの来る時は、農作物が育たず飢饉や疫病が蔓延する不吉な年になる。
邑長は、弓状に曲って背骨が突起した年老いた巫女の家を訪れた。
〝殺す〟
〝生かしちゃおけねぇ〟
〝皆殺しだ〟
何かに憑かれたように体を痙攣させた後で、恐ろしい形相をしながら老巫女が、
入れ替り立ち代り複数の男のような声色で答えた。
「…タタリ……」
邑長は、一言呟いたきり黙りこくった。
血のような茜色の夕空だった。死者の霊を迎える盆の迎え火の頃になり、家々
の前でオガラと呼ばれる麻皮を剥いだ茎が焚かれた。
とっぷりと陽が暮れると、やがて星々が降るような夜空に、満月が晧々と光を
放っていた。
風一つ無い、草木も眠る静かな晩だった。淡紅色の小花を咲かせたオジギ草が、
ゆらゆらと揺れていた。
強い風や動物でも触れない限り、動く事のない草が葉の付け根から急激に垂れ
下がった。
何かが通った証だった。
その日を境に、夜更けの邑には、臼をつくような音や不気味な呻き声が聞える
ようになった。
邑の女達が、川の水で洗濯をしながら土地の言葉で話していた。
「オラエノワラシャンドオッガナガッテナイデ、ネラレネデバ(私の家の子供達
が怖がって泣いて、眠る事ができない)」
若い女が、言った。
「サムサドイイ、バンゲノタマゲダオドドイイ、ナジョスタベ(寒さといい、深
夜のびっくりするような音といい、どうしたものだろうか)」
隣の家の女も困ったように話しを合わせた。
夕飯時を過ぎても、山に狩りに出ていた男の一人が戻らなかった。
その晩も怪しい音が、邑にこだました。
翌日、行方不明の男が見つかった。
身体をバラバラに切り刻まれて、川に流れていたのだった。
「ムゲモンダナス(惨いものだ)」
昨日一緒に狩りに行っていた男が、変わり果てた仲間の姿に息を呑んだ。
「クマッコニデモカレダベガ(熊にでも食べられたのだろうか)」
別の男が、言った。
その日もまた、邑の男がいなくなった。
不気味な音は、その夜も響いた。
明くる日になると、樹にぶら下げられて、無惨にも目玉と内臓を鴉に啄ばまれ
た状態で発見された。
兜を被ったモノが、山を徘徊しているという噂が流れた。
四日目の夜更けに、例の音が聞えると、邑人達は皆一様に恐れおののいた。
何がしか身に覚えのある者は、恐怖の余り発狂した。
夜が明ける頃、何処からともなく得体の知れない男がふらりと現われて、盛り
塚を通り過ぎた。
そして、クザケェの邑に向かって行った。
音が止み、陽が昇って明るくなっても、誰も家の外に出ようとしなかった。
次は、自分が殺される番ではないかとそれぞれ身構えていた。
風で吹き飛ばされた手桶が、通りを転がっていく。
夜の間やんでいたヤマセが、昼間は冷たい風を邑に送り込んだ。
風の吹いてくる方角から、一人の男がやって来た。
邑の者ではないのは、一目瞭然だった。
肩まで伸びたざんばら髪が風になびいて、顔は見えなかった。
不吉なモノを感じた邑人達は、一斉に家々の戸締りをした。格子の隙間越しに、
息を殺しながらその男を見据えた。
「カダナダ(刀だ))
ざんばら髪の男が通り過ぎる時、家主が言った。
柄から刀身にかけて刃と逆に反った不思議な形をした剣を、男が背負っていた
からだ。
その時、ふわっと男の髪が風で吹き上げられて、一瞬その鋭い眼光が垣間見え
た。
「オヌダ(鬼だ)」
ぼそりと、家主が呟いた。
この邑に突然現われた、剣を背負った恐ろしげな目付きをしたモノに、山で怪
死が相次ぐ出来事を繋ぎ合わせて、家主がそう連想するのは無理もない事であっ
た。
興味津々の子供達が、外を覗こうとした時だった。
「ミンナ(見るな)」
家主が、怒鳴った。
土間に座った家主の祖母が、ただならぬ雰囲気に北の方角に向かって手を合わ
せながら何事かを唱えていた。
おのおのが、自分の家の前で鬼が立ち止まらないように祈り、じっと耐えるよ
うにして待っていた。
ざんばら髪の男が、邑長の家に通りかかった時であった。
「ワスハキグマヅ。オメサンハ(ワシはキグマヅと言うが、お前さんは)?」
邑を束ねる長には、不審な男を呼び止めて詰問する責務があった。
「宇屈波宇」
ウクハウ、その年齢不詳の男は答えた。
「ドッガラキタベ(何処から来た)」
「ヒタカミの川沿いを上って来た」
「ナサキタノス(何しにやって来たのか)」
「この邑の妖気に誘われて」
「オラエサヘェレ(我が家に上がりなさい)」
邑長は、ウクハウと名乗る通りすがりの異様な珍客を家に招き入れた。
そして、ここ二、三日続いた邑人の変死についてウクハウが犯人であるのかを、
それとなく訊ねてみた。
「殺される理由があるのではないのか」
ウクハウが、きっぱりと言った。
「……」
邑長は、押し黙った。
「祀ろわぬ霊が通る場所と言われ、夜更けに聞いた事も無い音がすると、まもな
く邑に死人が出る」
ウクハウは、自分を警戒している邑長を尻目に構わず喋った。
「デンデラ野」
ウクハウが、続けて言った。
「デンデラノ…」
邑長が、初めて聞く言霊を復唱した。
デンデラ野は、一ヶ所ではない。鬼の棲むと言われる陸奥の地には、所々にそ
の異空間が存在していた。
夜な夜な響く怪音の事など訳知り顔のウクハウに対して、邑長の胸中にはます
ます疑念が沸いた。
目の前のこの男が、邑の衆を殺したに違いない。
何の目的か知らないが、このまま、この殺人鬼を放っては置けない。
「オメコロスタノスカ(お前が殺したのか)」
邑長は、意を決するように聞いた。
「………」
ウクハウは、沈黙した。
「モウヤメデケロ(もうやめて下さい)」
嘆願するように、邑長が言った。
「俺ではない」
ウクハウが、素っ気無く答えた。
「ンダバ、ダレダベ(ならば、誰が殺ったのだ)」
半信半疑で、邑長は詰問した。
「鬼に取り込まれようとしている邪悪な魂だ」
淡々と、ウクハウは説明した。
「ソノオニッコテェズスレバエエベガ(その鬼を退治すればいいのか)」
邑長の問いに、ウクハウが頷いた。
「レエバスベシ。スケデケロ(お礼はする。助けて下さい)」
邑長の頼みを、ウクハウはあっさりと承知した。
盆も終わりに差しかかっていた。
ウクハウは、日の高い内に竹槍を作った。
そして、獣道にかかる樹の上で待っていた。
日暮れになり、餌を求めて猪が下を通った。
竹槍に体重を乗せたまま樹から落下するように、ウクハウが竹槍で猪の胴体を
串刺しにした。
猪を火で炙り、その肉を食い漁った。
これで、三日は空腹を凌げると思った。
丑三つ時。あの世とこの世の境にある、デンデラ野の扉が開かれた。
嶽の麓の盛り塚から手が出て、死霊が土中から這い出してきた。
兜を被った落人の眼孔が抜け落ち、中から大量の蛆が涌いている。
腐った体を引き摺るようにして地上に出て来たその数、七人。
ウクハウは、殺された落人達と向き合った。
落人達の思念が、ウクハウの脳裏に入ってきた。
罪人とは言え、強制的に地方から集められて、不本意なエミシ狩りと過酷な使
役に従事させられていた不条理に、我慢できずに国脱けした経緯など……口々に、
落人達が艱難辛苦の長旅の末、邑人に無下に殺められた無念を述べた。
〝地獄だ〟
〝邑人にじわじわと恐怖を与えてやる〟
一人、また一人と彼岸の頃に、邑人を異界に引き擦り込む気なのだった。
落人達は、ウクハウの周りを取り囲むように浮遊していた。
ウクハウが、背中の剣を振り下ろしながら抜刀した。
落人達が、その剣に脅えるように後ずさった。
「お主らをこの剣で斬っても、怨みの情念は消えぬであろうな」
ウクハウは、荒ぶる魂を抑えるかのように剣に念じた。
「鎮まりたもう」
このままでは、落人の亡霊達はこの世に強い怨念を残し、兇悪な鬼と化す。
三日三晩にわたってウクハウは悪霊と対峙した末に、邑人の悪行を糺すと約定
した。
その晩から、夜通し邑に響いていた奇怪な音がぴたりと止んだ。
祖先の霊や死者の魂をあの世に送るための送り火が燈されて、盆の終わりが告
げられた。
翌早朝になると、山奥にある窯に火が入れられて、密かに鍛冶工が刀を精錬し
ていた。
これまでの落人狩りによって、奪ったきた刀や槍が並んでいた。
陽が昇ると、嶽からウクハウが下山して来た。
盆に入ってから毎晩のように聞こえていた恐ろしい音を止めてくれたウクハウ
に対して、邑人達は太鼓とお囃子を交えた舞を踊りながら迎えた。
凶作だというのに、ふんだんな量の食べ物や濁酒が用意された。
祭事用の竪穴式の建物において、邑の主だった者達が集まってウクハウを歓待
した。
邑の衆は、盛んにウクハウに酒を勧めた。
ウクハウは、足元がふら付くほどに呑まされた。
そして、そのまま眠り込んだ。邑長の合図の下、建物に火がかけられた。
たちまち、轟々と音を立て、紅蓮の炎に包まれていった。
あらかた焼け落ちても、邑人達は手に手に武器を持って回りを囲んでいた。
この火焔の中で、生きているはずはないと誰もが思っていたが、万が一を考え
ての準備であった。
邑の者が、焼け跡の遺された骸を探している時だった。
土中から、剣が突き出てくる。
あっと、邑の者が叫ぶ間もなく、血塗れの兜を被った男が這い出してきた。
「これでは、死んだ者は浮かばれまい」
兜姿の男が、全身に付着した土埃を払いながら言った。
「アイヅダ。イギデダンダ(あいつだ。生きていたのだ)」
邑の者が、言った。
春先に闇討ちした際、最期まで頑強に抵抗を示して、殺しても兜を剥ぐ事が出
来なかった落人の頭だった。
「ブツコロセ」
「イギノネトメロ」
武器を所持した邑人達は、兜の男を取り囲んだ。
そこに、思慮深い邑長が割って入った。
夜盗からこの邑をいいように乗っ取られるのを防ぐために、仕方なく落人狩り
をやっていた。
落人の身包みを剥ぎ、その所持品である刀や鎧兜を奪う事は、貧しい寒村にお
いて固い土を掘り起こして農耕したり、獣を捕ったりする上で金属製の道具が必
要だったからだ。
満足な鉄器もない邑には、時折迷い込んで来る落人の持ち物は役に立った。
と、邑長は訥々と兜の男に事情を語った。
「外の者を怖れるのは解かるが、流れ込む落人全てが悪い奴でもなかろう」
兜の男が、言った。
「ヒトリユルサバアリノヨウニフエル。ムラノバショッコスラレレバウマグネェ
ノス(一人を許せば蟻のように増える。邑の場所を知られたらおしまいだ)」
そう、邑長は答えながら邑の衆に目配せした。
邑衆が、一斉に刀や槍を殺しそびれた兜男に向けた。
「言っても解からぬようだな」
男は、兜を脱いだ。
ウクハウだった。剣が抜かれた。
〝■■■■■■〟
邑人の誰もが聞いた事もないような咆哮と共に、剣が輝き出した。
「怨みを遺して逝ったモノの思念は、鬼と化す」
ウクハウが、言った。
強い怨念により力をつけた鬼は、人の闇に巣食い、やがてあの世からこの世に
なだれ込む。
陰と陽の調和が崩れ、人が鬼化する。そして、ヒトの皮を被った鬼同士が争う。
行き着く先は、人も鬼も絶滅し、虚無の世となる。
月と日、水と火、鬼と人、陰と陽、これらは微妙な調和の基に在る。
その橋渡しとなるのが、魔剣の使い手。
鬼子としての素養を持つ者だけが選ばれしなり。
ウクハウは、悪霊となって彷徨っている殺された落人達の無念を晴らすという
約束通り、邑衆に宿業を悟らせた。
邑人達は、霊験あらたかなその剣を前にして改心した。
高原一面に、オニユリが黒い点のある赤黄色の咲かせていた。
邑長は、男達に抱えられた足腰の弱った老巫女を伴なって嶽を登った。
そして、いかなる殺生もしないと誓いながら落人の兜を頂上に祀った。
すると、目映い光が天に昇り、嶽の頂が明神となって兜の形になった。
邑の衆は、明神様の霊験だと噂し、兜明神嶽と呼んで代々にわたって崇めた。
爾来、クザケェに繋がる峠道は、悪意を持った外部からの侵入者があると邑を
護るように必ず霧に包まれ、マヨイガ(迷い家)としてその存在を隠された。
※黒塗伏字〝■■■■■■〟に関しては、梵字で〝ヒヒイロカネ〟と変換表示と
なります。
鬼が棲むと思われ未開の地であった蝦夷地において、出羽の国だけは早くから
安倍比羅夫の征討によって、飛び地的に植民地化が進んでいた。
出羽の国では、方々から様々な罪人や流人等を徴兵して、辺境の地の蝦夷討伐
に当てた。
北国の厳しい自然と過酷な重労働に耐えかねて、脱走する輩も少なくなかった。
〝クザケェ〟
そのエミシの邑は、そう呼ばれていた。
国境、クニザカイ、クザカエ、そして、クザケェ…土地の方言による訛りが語
尾変化して区界となったとも言われる。
海側との境に位置していたのが由来らしい。
狼などの野獣が徘徊する山々を、徒党を組んで落人達が命からがらに越境を敢
行した。
北国の永い冬の雪解けを待つようにして出羽を逃れ、関所の無い方向に向った。
国脱けをした時には三十を超える人数だったが、北の自然に阻まれて、ある者
は崖から転落し、ある者は熊に喉を引き裂かれた。
これなら、兵役に服しているほうがマシだと後悔する頃には、半数が命を落し
ていた。
追っ手が来られないであろう国境を越えた時には、七名を残すばかりであった。
峠の小高い巖山を登り切った。
長旅で憔悴し切った七名の落人達の眼下に、火を焚く煙が昇る集落が見えてき
た。
助かった。
これで、命拾いできる。
武器を捨て、平和に暮らせる。
新天地を得て、ホッと胸を撫で下ろした時だった。
近くの竹林が揺れた。
次々に、落人達が血を噴いて倒れた。
獣の鋭い爪から頭を護るために兜をかぶった男は最期まで抵抗したが、無念の
内に息絶えた。
嶽の麓の平らな場所に、人知れず塚がひっそりと盛られた。
複数ある盛り塚は、幾度となく掘り返された形跡が残っていた。
クザケェの邑に変事が起きたのは、漏斗状に唇の形をしたスイカズラの花が散
った後だった。
蚊が全く出なかったのだ。
夏の間、冷たい風が邑に吹き降ろした。
いくら北国とはいえ、寒い夏に邑の者達は不安がった。
「ヤマセ…」
邑の長が、主だった者に説明した。
十数年に一度、東北地方特有の冷害をもたらす天候だった。
ヤマセの来る時は、農作物が育たず飢饉や疫病が蔓延する不吉な年になる。
邑長は、弓状に曲って背骨が突起した年老いた巫女の家を訪れた。
〝殺す〟
〝生かしちゃおけねぇ〟
〝皆殺しだ〟
何かに憑かれたように体を痙攣させた後で、恐ろしい形相をしながら老巫女が、
入れ替り立ち代り複数の男のような声色で答えた。
「…タタリ……」
邑長は、一言呟いたきり黙りこくった。
血のような茜色の夕空だった。死者の霊を迎える盆の迎え火の頃になり、家々
の前でオガラと呼ばれる麻皮を剥いだ茎が焚かれた。
とっぷりと陽が暮れると、やがて星々が降るような夜空に、満月が晧々と光を
放っていた。
風一つ無い、草木も眠る静かな晩だった。淡紅色の小花を咲かせたオジギ草が、
ゆらゆらと揺れていた。
強い風や動物でも触れない限り、動く事のない草が葉の付け根から急激に垂れ
下がった。
何かが通った証だった。
その日を境に、夜更けの邑には、臼をつくような音や不気味な呻き声が聞える
ようになった。
邑の女達が、川の水で洗濯をしながら土地の言葉で話していた。
「オラエノワラシャンドオッガナガッテナイデ、ネラレネデバ(私の家の子供達
が怖がって泣いて、眠る事ができない)」
若い女が、言った。
「サムサドイイ、バンゲノタマゲダオドドイイ、ナジョスタベ(寒さといい、深
夜のびっくりするような音といい、どうしたものだろうか)」
隣の家の女も困ったように話しを合わせた。
夕飯時を過ぎても、山に狩りに出ていた男の一人が戻らなかった。
その晩も怪しい音が、邑にこだました。
翌日、行方不明の男が見つかった。
身体をバラバラに切り刻まれて、川に流れていたのだった。
「ムゲモンダナス(惨いものだ)」
昨日一緒に狩りに行っていた男が、変わり果てた仲間の姿に息を呑んだ。
「クマッコニデモカレダベガ(熊にでも食べられたのだろうか)」
別の男が、言った。
その日もまた、邑の男がいなくなった。
不気味な音は、その夜も響いた。
明くる日になると、樹にぶら下げられて、無惨にも目玉と内臓を鴉に啄ばまれ
た状態で発見された。
兜を被ったモノが、山を徘徊しているという噂が流れた。
四日目の夜更けに、例の音が聞えると、邑人達は皆一様に恐れおののいた。
何がしか身に覚えのある者は、恐怖の余り発狂した。
夜が明ける頃、何処からともなく得体の知れない男がふらりと現われて、盛り
塚を通り過ぎた。
そして、クザケェの邑に向かって行った。
音が止み、陽が昇って明るくなっても、誰も家の外に出ようとしなかった。
次は、自分が殺される番ではないかとそれぞれ身構えていた。
風で吹き飛ばされた手桶が、通りを転がっていく。
夜の間やんでいたヤマセが、昼間は冷たい風を邑に送り込んだ。
風の吹いてくる方角から、一人の男がやって来た。
邑の者ではないのは、一目瞭然だった。
肩まで伸びたざんばら髪が風になびいて、顔は見えなかった。
不吉なモノを感じた邑人達は、一斉に家々の戸締りをした。格子の隙間越しに、
息を殺しながらその男を見据えた。
「カダナダ(刀だ))
ざんばら髪の男が通り過ぎる時、家主が言った。
柄から刀身にかけて刃と逆に反った不思議な形をした剣を、男が背負っていた
からだ。
その時、ふわっと男の髪が風で吹き上げられて、一瞬その鋭い眼光が垣間見え
た。
「オヌダ(鬼だ)」
ぼそりと、家主が呟いた。
この邑に突然現われた、剣を背負った恐ろしげな目付きをしたモノに、山で怪
死が相次ぐ出来事を繋ぎ合わせて、家主がそう連想するのは無理もない事であっ
た。
興味津々の子供達が、外を覗こうとした時だった。
「ミンナ(見るな)」
家主が、怒鳴った。
土間に座った家主の祖母が、ただならぬ雰囲気に北の方角に向かって手を合わ
せながら何事かを唱えていた。
おのおのが、自分の家の前で鬼が立ち止まらないように祈り、じっと耐えるよ
うにして待っていた。
ざんばら髪の男が、邑長の家に通りかかった時であった。
「ワスハキグマヅ。オメサンハ(ワシはキグマヅと言うが、お前さんは)?」
邑を束ねる長には、不審な男を呼び止めて詰問する責務があった。
「宇屈波宇」
ウクハウ、その年齢不詳の男は答えた。
「ドッガラキタベ(何処から来た)」
「ヒタカミの川沿いを上って来た」
「ナサキタノス(何しにやって来たのか)」
「この邑の妖気に誘われて」
「オラエサヘェレ(我が家に上がりなさい)」
邑長は、ウクハウと名乗る通りすがりの異様な珍客を家に招き入れた。
そして、ここ二、三日続いた邑人の変死についてウクハウが犯人であるのかを、
それとなく訊ねてみた。
「殺される理由があるのではないのか」
ウクハウが、きっぱりと言った。
「……」
邑長は、押し黙った。
「祀ろわぬ霊が通る場所と言われ、夜更けに聞いた事も無い音がすると、まもな
く邑に死人が出る」
ウクハウは、自分を警戒している邑長を尻目に構わず喋った。
「デンデラ野」
ウクハウが、続けて言った。
「デンデラノ…」
邑長が、初めて聞く言霊を復唱した。
デンデラ野は、一ヶ所ではない。鬼の棲むと言われる陸奥の地には、所々にそ
の異空間が存在していた。
夜な夜な響く怪音の事など訳知り顔のウクハウに対して、邑長の胸中にはます
ます疑念が沸いた。
目の前のこの男が、邑の衆を殺したに違いない。
何の目的か知らないが、このまま、この殺人鬼を放っては置けない。
「オメコロスタノスカ(お前が殺したのか)」
邑長は、意を決するように聞いた。
「………」
ウクハウは、沈黙した。
「モウヤメデケロ(もうやめて下さい)」
嘆願するように、邑長が言った。
「俺ではない」
ウクハウが、素っ気無く答えた。
「ンダバ、ダレダベ(ならば、誰が殺ったのだ)」
半信半疑で、邑長は詰問した。
「鬼に取り込まれようとしている邪悪な魂だ」
淡々と、ウクハウは説明した。
「ソノオニッコテェズスレバエエベガ(その鬼を退治すればいいのか)」
邑長の問いに、ウクハウが頷いた。
「レエバスベシ。スケデケロ(お礼はする。助けて下さい)」
邑長の頼みを、ウクハウはあっさりと承知した。
盆も終わりに差しかかっていた。
ウクハウは、日の高い内に竹槍を作った。
そして、獣道にかかる樹の上で待っていた。
日暮れになり、餌を求めて猪が下を通った。
竹槍に体重を乗せたまま樹から落下するように、ウクハウが竹槍で猪の胴体を
串刺しにした。
猪を火で炙り、その肉を食い漁った。
これで、三日は空腹を凌げると思った。
丑三つ時。あの世とこの世の境にある、デンデラ野の扉が開かれた。
嶽の麓の盛り塚から手が出て、死霊が土中から這い出してきた。
兜を被った落人の眼孔が抜け落ち、中から大量の蛆が涌いている。
腐った体を引き摺るようにして地上に出て来たその数、七人。
ウクハウは、殺された落人達と向き合った。
落人達の思念が、ウクハウの脳裏に入ってきた。
罪人とは言え、強制的に地方から集められて、不本意なエミシ狩りと過酷な使
役に従事させられていた不条理に、我慢できずに国脱けした経緯など……口々に、
落人達が艱難辛苦の長旅の末、邑人に無下に殺められた無念を述べた。
〝地獄だ〟
〝邑人にじわじわと恐怖を与えてやる〟
一人、また一人と彼岸の頃に、邑人を異界に引き擦り込む気なのだった。
落人達は、ウクハウの周りを取り囲むように浮遊していた。
ウクハウが、背中の剣を振り下ろしながら抜刀した。
落人達が、その剣に脅えるように後ずさった。
「お主らをこの剣で斬っても、怨みの情念は消えぬであろうな」
ウクハウは、荒ぶる魂を抑えるかのように剣に念じた。
「鎮まりたもう」
このままでは、落人の亡霊達はこの世に強い怨念を残し、兇悪な鬼と化す。
三日三晩にわたってウクハウは悪霊と対峙した末に、邑人の悪行を糺すと約定
した。
その晩から、夜通し邑に響いていた奇怪な音がぴたりと止んだ。
祖先の霊や死者の魂をあの世に送るための送り火が燈されて、盆の終わりが告
げられた。
翌早朝になると、山奥にある窯に火が入れられて、密かに鍛冶工が刀を精錬し
ていた。
これまでの落人狩りによって、奪ったきた刀や槍が並んでいた。
陽が昇ると、嶽からウクハウが下山して来た。
盆に入ってから毎晩のように聞こえていた恐ろしい音を止めてくれたウクハウ
に対して、邑人達は太鼓とお囃子を交えた舞を踊りながら迎えた。
凶作だというのに、ふんだんな量の食べ物や濁酒が用意された。
祭事用の竪穴式の建物において、邑の主だった者達が集まってウクハウを歓待
した。
邑の衆は、盛んにウクハウに酒を勧めた。
ウクハウは、足元がふら付くほどに呑まされた。
そして、そのまま眠り込んだ。邑長の合図の下、建物に火がかけられた。
たちまち、轟々と音を立て、紅蓮の炎に包まれていった。
あらかた焼け落ちても、邑人達は手に手に武器を持って回りを囲んでいた。
この火焔の中で、生きているはずはないと誰もが思っていたが、万が一を考え
ての準備であった。
邑の者が、焼け跡の遺された骸を探している時だった。
土中から、剣が突き出てくる。
あっと、邑の者が叫ぶ間もなく、血塗れの兜を被った男が這い出してきた。
「これでは、死んだ者は浮かばれまい」
兜姿の男が、全身に付着した土埃を払いながら言った。
「アイヅダ。イギデダンダ(あいつだ。生きていたのだ)」
邑の者が、言った。
春先に闇討ちした際、最期まで頑強に抵抗を示して、殺しても兜を剥ぐ事が出
来なかった落人の頭だった。
「ブツコロセ」
「イギノネトメロ」
武器を所持した邑人達は、兜の男を取り囲んだ。
そこに、思慮深い邑長が割って入った。
夜盗からこの邑をいいように乗っ取られるのを防ぐために、仕方なく落人狩り
をやっていた。
落人の身包みを剥ぎ、その所持品である刀や鎧兜を奪う事は、貧しい寒村にお
いて固い土を掘り起こして農耕したり、獣を捕ったりする上で金属製の道具が必
要だったからだ。
満足な鉄器もない邑には、時折迷い込んで来る落人の持ち物は役に立った。
と、邑長は訥々と兜の男に事情を語った。
「外の者を怖れるのは解かるが、流れ込む落人全てが悪い奴でもなかろう」
兜の男が、言った。
「ヒトリユルサバアリノヨウニフエル。ムラノバショッコスラレレバウマグネェ
ノス(一人を許せば蟻のように増える。邑の場所を知られたらおしまいだ)」
そう、邑長は答えながら邑の衆に目配せした。
邑衆が、一斉に刀や槍を殺しそびれた兜男に向けた。
「言っても解からぬようだな」
男は、兜を脱いだ。
ウクハウだった。剣が抜かれた。
〝■■■■■■〟
邑人の誰もが聞いた事もないような咆哮と共に、剣が輝き出した。
「怨みを遺して逝ったモノの思念は、鬼と化す」
ウクハウが、言った。
強い怨念により力をつけた鬼は、人の闇に巣食い、やがてあの世からこの世に
なだれ込む。
陰と陽の調和が崩れ、人が鬼化する。そして、ヒトの皮を被った鬼同士が争う。
行き着く先は、人も鬼も絶滅し、虚無の世となる。
月と日、水と火、鬼と人、陰と陽、これらは微妙な調和の基に在る。
その橋渡しとなるのが、魔剣の使い手。
鬼子としての素養を持つ者だけが選ばれしなり。
ウクハウは、悪霊となって彷徨っている殺された落人達の無念を晴らすという
約束通り、邑衆に宿業を悟らせた。
邑人達は、霊験あらたかなその剣を前にして改心した。
高原一面に、オニユリが黒い点のある赤黄色の咲かせていた。
邑長は、男達に抱えられた足腰の弱った老巫女を伴なって嶽を登った。
そして、いかなる殺生もしないと誓いながら落人の兜を頂上に祀った。
すると、目映い光が天に昇り、嶽の頂が明神となって兜の形になった。
邑の衆は、明神様の霊験だと噂し、兜明神嶽と呼んで代々にわたって崇めた。
爾来、クザケェに繋がる峠道は、悪意を持った外部からの侵入者があると邑を
護るように必ず霧に包まれ、マヨイガ(迷い家)としてその存在を隠された。
※黒塗伏字〝■■■■■■〟に関しては、梵字で〝ヒヒイロカネ〟と変換表示と
なります。
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