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アテルイ譚
四 火種
しおりを挟む勿来の関。
東北と関東の境界である。〝蝦夷勿来(エミシよ、これより先に来るなかれ)〟
という意味から、この名がついたとされている。
上代においては、白河の関の異称とも云われた東国と陸奥の境界線であり、蝦
夷の侵入の防御施設であるその関所を、陸奥に赴任していた征東大使・紀古佐美
が数名の従者と共に西へと抜けて行った。
手勢の兵を失った紀古佐美は、早馬で城から遁走していた。
ほうほうの体で逃げ延びた紀古佐美一行は、ひたすら京を目指していたのだっ
た。
長岡京。
近辺の仏閣の境内には、桜が咲き乱れていた。
位の高い高官や、雅やかな十二単をまとった女御などを乗せた牛車が、ゆっく
りと大路を行き来している。
奈良時代の内裏では、椅子に座る生活様式だったので、動きやすい朝服が正装
衣として着られていた。
平安時代になると、床に直接座る形態に変化したので、座って見栄えのする十
二単という幾重にも重ね着して不必要に重い、機能的にはとても動きにくい着衣
が用いられるようになった。
源氏物語に代表される平安絵巻に現れる女達の美意識が、その後の京文化を彩
る事になる。
男が戦場で、鎧兜を身にまとうように、女は艶やかな長い黒髪と華麗な十二単
の甲冑で、宮中を生き抜いていたのかもしれない。
「朕の千名の兵が…一匹の蝦夷相手に、一日で全滅とな……恥を知れ!」
内裏では、桓武帝が蝦夷征伐について書かれてある巻物の報告書を読んでいた。
「輝く剣を持つ者か……で、どうしろと?」
帝は、かぶっている冠を動かさずに、巻物から眼だけを移動して言った。
「兵を、お預け下さい」
衣冠束帯をまとって正装した紀古佐美が、下座から物申した。
「遷都し直すのに、たいそうな入り用で、戦費の余裕などないが……よかろう。
その代わり、必ず平定し、陸奥の金と剣を奪って参れ」
「はッ。命に代えましても」
帝に対して、紀古佐美は即座に答えた。
「その言葉、しかと忘れるな」
帝は檜扇をパッと広げて、口もとを隠しながら静かに威圧した。
「…………」
紀古佐美は、背水の陣で臨む悲壮な覚悟の表情で黙していた。
京の巷においては、一人で千人の兵をやっつけたというエミシの噂で持ちきり
だった。
アテルイの名は、悪路王と発音されて人口に膾炙していった。
龍泉洞。
人目を避けるように、当ての無い逃避行を続けながら初夏を迎えた二人は、龍
が棲むと云われる周囲を高山に囲まれた鍾乳洞に入った。
松明をかざしながら真っ暗な坑道を進むと、兎のような長い耳を持つウサギコ
ウモリが群れをなして飛んできた。
一群が去った後、鍾乳石や石筍にぶつからないように気をつけて歩いた。
真っ暗な洞窟を闇雲に進んでいるわけでなかった。
アテルイには、花や鳥、風や月の動きで自然を読む力が備わっていた。
四季折々の中、北国の厳しい山奥で生きてきたからこそ、視覚・聴覚・嗅覚・
味覚・触覚の五感が研ぎ澄まされる。
危険を察知する能力は、現代人の数十倍も高い。
その昔、弱肉強食の食物連鎖の輪の中に、ヒトも入っていたのだ。
天敵無き頂点に立つ事を自覚したヒトは、同族のヒトに上下を作って従わせ、
自然からの恵みを当然のように乱獲し始めた時、自然界の調和が崩れ出した。
畏れを知らぬヒトの不幸は、ここから始まったのかもしれない。
モレはただ黙って、アテルイに付いて行った。
松明の炎が、風で流され出した。
「出口が近い」
抜けるような透明度の地底湖の冷たい水を飲みながら、アテルイが言った。
甲高いキジの声が、響いていた。
北上山系の山々を、三つ四つ抜けた頃だった。
二つ並んだ岩の上に、鴨居のように大石が乗せられた、考古学上ドルメンと呼
ばれる続石がある。
岩手の山岳信仰において、山の神社に見られる巨岩遺跡である。
その神社の祠の前に、アテルイとモレは並んで座っていた。
「不思議な謂われの剣ね」
モレが、アテルイの腰にある剣を見て言った。
「家のオシラサマに、納めてあったんだ…俺は、カアを守れなかった……でも、
モレは必ず守って見せる。この剣に誓って」
アテルイは、拳をギュッと握り締めた。
「オシラサマのある家は、由緒ある家系の印だわ。あなたには、その剣でやるべ
き事が、きっとあるのよ」
「やるべき事……」
アテルイは、ヒヒイロカネの剣をジッと見つめた。
「雨が、きそうね」
モレが、西の空に昇る入道雲を見て言った。
二人は、急いで下山した。頭の上の皿に水をたくわえた河童が、キュウリをか
じりながら小川の淵に帰っていった。
眼下に、小さな集落が見えてきた。ムラの子供達が、独楽を回して遊んでいた。
「オメダヂ、ミダゴドネ。ドゴノワラシャンドダ(お前たち、見たことのない顔
だ。どこから来た子供たちだ)」
二人がその集落に入ると、一人の子供が前に現れて詰問してきた。
「ヤマガラキタベ(山から来たな)」
「ヤマオドゴトヤマオナゴダジャ(山男と山女だ)」
「ンダンダ(そうだそうだ)」
一番幼い童が、年上の子供達の話に付和雷同した。
「キヅネトタヌギガ、バゲデデハッテキタガモスンネエジャ(狐と狸が、化けて
出て来たのかもしれないぞ)」
「ンダ。キヅネトタヌギダベ(そうだ。狐と狸に違いない)」
幼い童が、オウム返しに喋った。
「ワラスニハ、ニアワネモヂモノモッデラナ(子供には、似合わない物を持って
いるな)」
子供たちの中でも、年長の者がアテルイの剣を見て尋ねた。
「テングデネェノゲェ(天狗じゃないのか)」
二番目に年長の者が言った。
「ンダ。テングガモスンネ(そうだ。天狗かもしれない)」
相変わらず、幼い童が繰り返した。
「オメダヂ、ドッツダ(お前たち、どちらだ)?」
「シャルミリデモイワネバ、ムラサイレネド
(どうしても白状しないと、ムラには入れないぞ)」
「ンダ。イレネジャ(そうだ。入れないぞ)」
幼い童は、両腕を一杯に伸ばしてとおせんぼをした。
「マネッコスナ(真似ばかりするな)」
三番目に年長の者が、幼い童を小突いた。
「うわあああああああ~ん」
途端に、幼い童は大声を上げて泣き出した。
「ウルセド。ナシタ(うるさいぞ。どうした)?」
そこへ、威厳のある白髪のムラの長老が通りかかった。
「それは、ヒヒイロカネ」
長老は、アテルイの剣を見て叫んだ。
その時、空が急激に暗くなり、閃光が走った。
空の上から雷神が、太鼓を打ち鳴らして雷鳴を轟かせた。
「ゴロゴロサンダ(カミナリだ)!」
積乱雲がムラの真上を通過して、土砂降りの夕立が降り出してきた。
「ミナ、ヘソトラレッド。エサケエレ(みんな、臍を盗られるぞ。家に帰りなさ
い)」
長老が、童達に帰宅を促した。
アテルイとモレは、長老の家に連れて行かれた。
中では、長老に呼ばれたムラの主だった者達が、車座になっていた。
その中央で、アテルイが静かに、鞘から剣を抜いて見せた。
誰とはなしに、感嘆の声が上がった。
一人、長老だけが剣を見て、アテルイに平伏した。
長老の姿に倣い、回りの衆も慌てて平伏した。
土に染み込んだ雨の匂いが消える頃、空に七色の虹が上がっていた。
軒先では、モレが赤い櫛を差した幼児と綾取りをしている。
「この前の満月の晩に、ムラからザシキワラシが出て行くのを、イタコの婆さま
が見たと言うとった。何か、良からぬ事が、このムラに起こるに違いない」
長老は、上座にアテルイを座らせて言った。
「どういう事?」
アテルイが、聞いた。
「きっと、京の兵が襲って来る」
「山向こうのムラも先頃、焼き討ちにあったそうな」
モレは、自らの過去を思い出したように沈痛な表情をした。
「稲刈りを終えた、食糧が一杯の秋が危ない」
ムラの衆が、口々に不安を訴えた。
「ムラを守ってくれんかのう…」
長老が、アテルイをジッと見て懇願した。
「俺が?」
アテルイは自分の顔に、人差し指を当てるようにして言った。
「必要な物は、準備します」
長老の次に年長の者が、言った。
「お頼み申し上げます」
長老が頭を下げて言うと、回りの衆全ても真似た。
アテルイは、黙って頷くモレの顔を見ながら困惑した。
〝カナカナカナカナカナ〟
ムラの太い神木に張り付いたヒグラシが、激しく鳴いている。
まるまると肥えた馬と、こうべを垂れてみごとに育った黄金色の稲の田園風景
が広がっていた。
リンドウの青紫色の花が咲き乱れ、ナナカマドが紅葉して赤い実をつけていた。
アテルイとモレは、このムラで一夏を過ごし、季節は秋に移っていた。晴れて
いるのに、小雨が降っている日だった。
狐の面をかぶり、白装束の身なりをした行列が笛や太鼓のお囃子に合わせなが
ら山峡の道を歩いていた。
狐の嫁入りの儀式である。
アテルイは、母の形見である勾玉の首飾りをモレの首にかけた。
ヒスイの緑色が、モレの上気した顔に映えた。
秋風に吹かれたススキの穂が、月の光に反射してキラキラと輝く十六夜に、二
人は長老の媒酌の下で夫婦の契りを交わし、甘い蜜月を送っていた。
しかし、良い事ばかりが続くはずはなかった。
「ヒヒイロカネは、両刃の剣。できるだけ、使わないで欲しいの…」
モレは、アテルイを熊笹が密生する山に誘った折りにこう言った。
アテルイは、川に産卵のために溯上してきた鮭を捕まえたり、ヒヒイロカネの
鞘でイガ栗を落とし、両足を使って器用に剥き、その実を取り出して焼いて食べ
ていた。
モレには、謎の仙人が語った、ヒヒイロカネの力を一度使うたびに、一年寿命
が縮むという言葉が気になっていたのだった。
命を削るくらいなら、剣を捨てて欲しいとさえ考えた事もあったが、それは口
にはしなかった。
アテルイがこの剣を授かったのは、天の導きによるものだからだ。
天運ならば、それに従うしかない。
そして、自分がアテルイと出会ったのも、天運のなせる業であるとモレは思っ
た。
自分の使命は、アテルイを陰ながら支える事である。
産まれたのは別々でも、死ぬ時は一緒であり、この先ずっと自分は一人ではな
いと思うとモレは嬉しかった。
その時までは、アテルイの力になりたい。
そう考えながら、モレは毒々しいトリカブトをすり潰した。
その液体を塗り込んだ矢じりを付けた弓矢で、アテルイは鹿を射た。
鹿は、矢が命中すると同時に全身を痙攣させて息絶えてしまった。
モレは、死んだ鹿の肉から白くてねばねばした脂分や植物の種を搾り取った油
を集めた。
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