レコンキスタ

琥斗

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 第1章 生きる、堕ちる

 2.虚ろな車輪

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 屋根のない荷台に薄着のままで肩を寄せ合いながら座るのは、郊外にある養成所と帝都内の闘技場を行き来する時と決まっていたので、アレリアは珍妙な気持ちになった。

「あの、これ。畑から盗ったものなんだけど」

 左隣に肩を並べるイリスから手渡されたキュウリを震える手で受け取る。一口かじると、口の内いっぱいにさっぱりとしたみずみずしさが広がった。明日の命などもはやどうでもいいと思っていたにも関わらず、喉の渇きを満たしたいという欲がまだあったことに辟易する。“盗品”と聞いてもなお、特に良心の呵責に苛まれることがない己の浅ましさも感じながら、アレリアは手渡されたキュウリとトマトを無我夢中で貪った。正面で片膝を立てて座るティルスも相当疲弊していたのだろう。自分と同じようにロシャナクから夏野菜を手渡されると、最初は少しだけ複雑な表情を浮かべていたが、一口含んだ後は、脇目も振らずにぺろりと平らげた。

 青天の下を、荷馬車はカラカラと進んでいった。審問や追跡を受けず、怖いほどに順調に進んで行くのは、先導している二人の御者が朱色のマントを翻し帝国兵に扮しているからだと予想がつく。自分達を運ぶ荷馬車はさながら、役人が奴隷市場から奴隷達を運搬する姿そのものだった。

「すごいよね、短い時間でこれだけの準備をしてさ。あ、帝国兵のフリをしてるのは、ユーグさんって人達だよ。わたし達もよく知らない人なんだけど……」

 今自分達が置かれている状況は、主にイリスという少女が身振り手振りを交えて説明してくれた。彼女の言を受けて、近くに座るロシャナク、そしてアルクという剣奴が内容を補足していく。上手く言葉が出てこないアレリアに代わり、ほぼすべての受け答えを担ったのはティルスだった。

「そうか、ユーグっていう獣闘士のメンバー達が、てきぱき動いて、家内奴隷だったイリス達の逃亡を優先してくれたのか!」
「うん。だからわたし達十五人はみんな無事。でもね、わたし達を逃がそうとしたせいで、獣闘士グループのリーダーだった人が亡くなってしまって……」

 イリスの言葉に、何人かの少女達が目を伏せ、表情に暗い影を落とす。ティルスも眉間のしわを濃くして、動揺の色を浮かべた。そして荷台をぐるりと見渡すと、かすれた声で呟いた。

「それ、でも、助かったのは、ここにいる……
 二十三人……だけ、なのか!?」

「ティルス落ち着いて。僕らとは違う方向に離散していった剣奴達も多い。養成所に留まった剣奴もいる。全員が……殺されたわけではないと思う」
 落胆を隠しきれないティルスをなだめるかのように、ロシャナクが静かに口を挟んだ。

「今となってはもう、無事を祈るしかねぇよ」
 アルクが、まるで彼自身にも言い聞かせるように声を絞りだす。

(剣奴でここにいるのは、あたしと……)

 御者二人、そして御者とは別に、荷馬車の前方で馬を駆る男達が二人――イリスの話によれば、彼ら四人が獣闘士。残るはティルス、ロシャナク、アルク、そして……自分、の四名だけだ。養成所にはおおよそ四十五人ぐらいの剣奴が居たことを考えると、少ないと言わざるを得ない人数だった。
 視線の端で、ティルスががっくりと肩を落としているのが分かり、アレリアもなんとなしに心が痛んだ。

◆◆◆◆◆◆

 日はまだ高く、夕景にはほど遠いように思われた。レグノヴァ帝国特有の乾いた風が、剣奴達の間をすり抜けていく。
 簡素な荷台に所狭しと押し込められ、石畳の道をがたがたと揺られているだけとあれば、もっぱらできることといえば膝を抱えたまま仮眠をとるか、肩を並べる仲間同士で会話し時間を潰していくより他になかった。アレリアは静かに膝を抱き、それぞれが話す内容に耳を傾けていた。
 ティルス達が交わす言葉をききながら、「廃村ブレヴィルに向かうのでは」という自分の予想は、当たらずも遠からずであったことが分かった。ロシャナクによれば、暫定的な目的地はブレヴィル周辺の渓谷一帯及び野盗達の隠れ家。野外で頻回に寝泊まりをしたことがないアレリアにとっては、彼らが話す今後の見通しをきいても、不安が募るばかりであった。

「ラケルド達、わたし達を追ってくるのかな?」
 イリスの口からこぼれたおぞましい名前をきいて、心の音がビクリと飛び跳ねた。気が動転していたので逃亡時のことはあまり正確に覚えていないが、きっととてつもなく大きな事件を起こしてしまったのだろう。倉庫や屋敷から火の手が上がっていた気もする。ティルスに背負われ、命からがらの逃亡を果たしてから、まだ一夜しか経っていない。

(もし、捕まったら……)
 アレリアは身をこわばらせた。彼らに捕まってしまったら、どんなひどい仕打ちを受けることになるか、想像に難くなかった。

「……剣奴や家内奴隷は、元々替えが利く奴隷だ。ラケルドが躍起になって金銭で人を雇ってまで僕達を探しに来るとは思えない。ただ……」
 ふいに、ロシャナクと目が合う。アレリアは続く言葉を待ったが、彼は目を伏せてゆっくりと首を横に振ると、口を結んでしまった。

「でもさ、他の場所で働いても、焼印をみたらバレちゃうんじゃない?」
「そうだよ、あれには養成所の住所が書いてあるんでしょ!?」
「逃げた奴隷を捕まえる専門の業者がいるって、前の場所できいたことがあるわ……」
 今度は同乗する女の子達が次々と口を開き、各々が抱える不安を吐露していった。少しでも気持ちを軽くしようと話し始めたはずの会話は、先行きの見えない互いの不安を、ただ増長させる結果となっていく。ざわざわとした仄暗ほのぐらい感情は、まるで湖に小石を投げ落とした時に生じる波紋のように、瞬く間にイリス達に広まっていった。心に押し寄せる重苦しい波も、その場にいる誰もが打ち消すことはできなかった。

「どうせウチらにできることは、体を売ることだけだよ。いろんなお客さんの相手をするぐらいなら、帝国人の剣奴や、アイツ一人を相手にしてた方がまだマシだったんじゃないの!?」
 しまいには、そう言いながら何人かの少女達が両手で顔を覆い、泣き出してしまった。

(………………)

 アレリアは両膝に顔をうずめた。絶えず心を押し潰し続ける、このぐちゃぐちゃとした感情とどう向き合い、そしてこれからどう生きていけばいいのか、まったく分からない。
 自分自身の身をすっぽりと覆い隠して、存在を消し去ってくれる大きな布があればいいのに。そんなことを思いながら、声を押し殺して泣き続けた。

◆◆◆◆◆◆

 日暮れが近くなると、荷馬車は石畳の街道を外れ、舗装がされていない茶色の土道を進み始めた。ほどなくして木々が青々と生い茂る森が見え、吸い込まれるようにその中へと入っていった。さらさらと小川が流れる、少し開けた場所まで来ると、獣闘士達の操る荷馬車は停車した。

「今日はこの辺で休憩みたいだね」
 イリスに手を引かれ、アレリアは覚束おぼつかない足取りのまま荷台を降りた。ティルスが「小川の水は飲めそうだ!」と叫ぶので、皆で夏草を踏み分けながら、乾いた喉を潤しに向かう。

(あっ……)
 帝国兵に扮していた御者の一人が、銀色の兜を脱ぐ。錆びた兜の下から現れたのは、目の覚めるような鮮やかな水色の前髪。精悍な顔立ちの青年が、小川のほとりで佇んでいた。

「この人がさっき話したユーグさんって人」

 イリスに紹介を受けたが、どうしてよいか分からずアレリアはさっと目を伏せて、頭を下げた。寝食を共にする剣奴と殺し合う可能性があると知り、実際に大切な友人に手をかけてしまったその日から、なるべく剣奴の名前は覚えず、関わりも持たないようにしようと決めていたため、彼の名前はおろか詳細も何も分からなかった。アレリアの戸惑いを察してか、ユーグは何も言わず静かにアレリアとイリスの下を去ろうとしたところで、ロシャナクが彼を呼び止める。

「ユーグ達も、みんなも、少しだけ話を聴いてほしい」

 皆が水分補給を終えた頃合いを見計らって、生き残った二十三人は全員で輪になり、互いの顔を見合わせることとなった。
 ロシャナクが穏やかな声で、その場にいる皆に語りかけた。

「みんな突然のことで、急に考えられない人もいるだろうし、ご飯だって満足に食べられる状態じゃない。そんな状況で、不安だけを言い合っていたらますます今後のことなんて考えられなくなるから、いったんはみんなでブレヴィルを目指し、最低限の物資を得ていく方法を考えよう」

 ロシャナクの言葉に続いて、ティルスも声を張り上げる。

「できないことを数えるんじゃなくて、それぞれが“できること”を考えていこう!」

(できること……)
 アレリアはうつむき、地面に生い茂る鮮やかな野花をじっと見つめた。さらさらと流れる小川の音が、不思議とさっきよりも大きく聞こえた。

「……今後のことを考えるにしても、だ」
 アルクの凛とした声を受けて、アレリアは再び顔を上げ、向かい合う皆へと視線を戻した。

「俺達が手にしている情報には偏りがある。養成所という環境にずっと閉じ込められていたからな。正確な情報を仕入れてから、故郷に帰るなり、帝国本土に残るなり、考えたらいい」

「ロシャナクさん達の言う通りだね、そうしよう!」
 イリスが大きく頷くと、困惑していたような表情を浮かべていた少女達も、次第に「そうだね」「うん」とささやき合い、泣き腫らした顔に少しだけ明るさが戻ったように見えた。

(あたしにできること……)
 できることなんて、あるのだろうか。こんな非力で、脅しにすぐ屈してしまうような弱い自分に。今回の件では確実に“お荷物”となってしまった自分なんかに。
 アレリアの逡巡は、団結しかけた場にややそぐわない獣闘士達の発言によって中断を余儀なくされた。

「はははッ、まずは物資だよな。都合よく野盗でも現れてくれればいいんだがな」
「それか帝国貴族。まぁいねぇか! この先は呪われた“元・豪遊地”だもんなぁ」
「奪えるなら、どっちでもいいさ」
 大声で笑い合う大柄の男達は、やはり養成所内ではあまり関わったことがない、名前はおろか出自も詳細も分からない人達だった。背が高く目鼻立ちがややくっきりとしていることから、オートレック王国の出身者達なのかもしれない、とだけアレリアはぼんやりと思った。

(あれ……?)

 ユーグという青年だけは、仲間であるはずの獣闘士達が交わす会話の輪には入らず、何一つ表情を変えないまま彼らのやりとりを静観しているように見えた。
 そんなユーグを不思議に思い、無意識のうちに見つめてしまっていたのだろうか。アレリアの視線に気づいたユーグが怪訝な表情をしてアレリアを見つめ返す。黄金色の瞳と、視線がかち合う。

(……!!)

 瞬間、彼の瞳の中に。どこか自分の心の内と共鳴するような、はたまた深潭を覗き込んでしまったような、底知れぬ“何か”を感じ、アレリアは思わず一歩後ずさった。隣に佇んでいたイリスがすかさず「大丈夫?」と背中を支えてくれたので、アレリアは小声で「なんでもない、ありがとう」とだけ伝え、ティルス達に視線を戻した。

 この日の晩から、剣奴八人で二人一組となり、交代で夜間の見張りを行うこととなった。
 そして――獣闘士達の軽口は、すぐに現実のものとなった。
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