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第4章 戻れない道を
3.どうして気づけなかったんだろう
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はたから見れば、欲求不満を募らせておかしくなった奴に見えるだろう。実際、何人かの剣奴には後ろ指をさされ、笑われた。それでもティルスは、引き下がるわけにはいかなかった。
「だから! お、女を抱きたいって言っているんだ!」
帝国兵に声を叩きつけるが、返ってきたのは昨日とまったく同じ回答だった。
「気持ちは分かった! だがな、ここ数日ラケルド様にとてもお声をかけられる雰囲気じゃ……」
「ッ……!」
夕闇が迫る中、ティルスは房の入り口で拳を握りしめた。
(クソッ!)
ロシャナクにイリスという少女を連れてくるように頼まれてから、もうすでに三日が経過しようとしている。ロシャナクとアルクが考えてくれた脱走計画を成功させるためにも、女の子達に早く作戦の内容を伝えるためにも、なんとしてもイリスと接点を持ちたい。
「頼む! イリスって女の子を……」
「あ~! もう」
もう一度、声を張り上げて「ラケルドに会わせろ」とお願いしようとした、その時だった。耳障りに砂地を蹴る足音と共に、嘲笑交じりの声が横入りする。
「そんなにあのじゃじゃ馬がいいのか? いいぞ」
「ラ、ラケルド様……!」
うろたえる兵士には気にも留めず、ラケルドは少し離れた先にある調理場の方を見やると、下卑た笑いを浮かべながら少女の名を叫んだ。
「おいイリス、来い」
ほどなくして、イリスが栗色の髪を揺らしながら、小走りでこちらへとやってきた。イリスは状況が飲みこめないのか、息を弾ませたままラケルドとティルスを交互に見つめる。瞬間、深緑を宿した丸い瞳と視線がかち合い、ティルスは思わずドキリとして背筋を伸ばした。
「お前、今日はティエーラ人の部屋に行ってやれ」
「……ッ!!」
ラケルドはイリスに目もくれず、まるで物を扱うような調子で適当に言い放った。
「……わかりました」
(えっ)
自分から求めていたことだが、特に動揺することもなく承諾したイリスに、ティルスは驚きを隠せなかった。初対面も同然の男に、強くその身を求められているのだ。気持ち悪すぎて、絶対に嫌な顔をされるだろうと思っていた。それなのに。
平然としているように見える彼女の様子は、この状況に対する“諦め”なのか、精一杯の強がりなのか。それとも──。
「あはは、ティエーラ人、女とヤッたことあんのかよ?」
ティルスの思案は、興行師の笑い声で中断を余儀なくされた。
(……………………)
やはり言われた。想定内の反応だった。ティルスは胸の内で、ゆっくりとロシャナクの言葉を反芻した。
『やつに心無い言葉をかけられても、気にしないように。言い返さず無視』と。
「……………………」
ティルスは砂地へと視線を落とし、無言を貫いた。しばらくの間、興行師の下品な嘲りを適当に受け流す。
ラケルドの言葉ひとつひとつが本当に癪だったが、自分が馬鹿にされたり、見下されたりするのは、とりわけ耐えようと思えば耐えられるものだった。何を言われようが、別に構わない。イリスを自分達の部屋に呼ぶという目的さえ、達成できれば。
「はは、本当は“アレリア”がいいんだろ?」
「──!」
唐突に出てきた彼女の名に、奥歯を噛む。
視線を合わせるまでもなく、ラケルドが自分の反応を確かるために、舐めまわすように己の顔を覗き込んでいるのが分かった。
(……………………ッ!!)
どことなく不快な含みを持たせて笑う興行師に、感情的に言い返しそうになるのを、砂地に伸びる影をじっと見つめながら、ティルスは必死に耐えた。
「でもごめんな~あの“お姫様”は、お前達剣奴には輪姦せないんだよな」
「──ッてめぇ!!」
どこまでも最低で最悪な言葉に、沸き立つような怒りが全身を駆け巡った。頭に血がのぼり、視界が歪む。もう、虫唾が走る気持ちを我慢することはできなかった。
ティルスはラケルドの胸ぐらを掴んでやろうと、飛ぶように右腕を伸ばしかけたところで──、制御できなくなったはずの感情まかせの行動は、思わぬ形で動きを止めざるを得なかった。
(えっ!?)
先程まで平然とした態度で、ただ従順に興行師の横に佇んでいただけのイリスが、なんと緑色の瞳を怒りでわななかせながら、右足をそぉっと上げたではないか。瞳からにじみ出る怒りの色は、ティルスと同等──いや、それ以上の強い感情を宿していた。その予想外の動きとただならぬ様子に、一瞬思考が停止しかけたが、すぐさまティルスはイリスの意図を理解した。
(ラケルドの足を踏みつけようとしている!?)
──そんなコトを君がしたら、まずい!
止めなければ。自分よりも血気盛んな相手を見ると、どうしてだろう。不思議と冷静な気持ちになれるものだった。ティルスは咄嗟にラケルドとイリスの間に割って入ると、力の限り叫んだ。
「いいからオレにイリスを抱かせてくれ!!」
◆◆◆◆◆◆
「えーと」
イリスは鉄扉をくぐるなりティルスの姿を確かめるや、会話もそこそこにワンピースの肩紐を下げ衣服を脱ごうとした。一方のティルスは反射的に両手で目を覆うと、顔を真っ赤にしてうろたえた。
「わー!! 違う! 違うんだ! そ、その……」
「えっ?」
「……脱がなくて大丈夫です、イリスさん。こんな風に面と向かってお話をするのは初めてだね」
僕からすべて説明するよ、とロシャナクが寝床から立ち上がる。ロシャナクはイリスの肩に優しく触れながら「ラケルドに怪しまれないように、形だけでいいので、僕の寝床に一緒に入ってくれませんか?」と耳元で静かにささやいた。イリスは少しだけ目を丸くしていたが、やがて小さく頷くと、ロシャナクと共にその身をぼろ布の中へと横たえる。
イリスがロシャナクからすべての事情を聴く間、ティルスは深呼吸をして、胸が早鐘を打つのをゆっくりと整えた。隣に座るアルクが、様々な心労を察してだろうか。珍しく己の肩に左手を置いて「落ち着け」などと励ましてくれた。
(はぁ、びっくりした……)
ティルスは手の甲で額の汗をぬぐった。それにしても、ロシャナクはすごい。こんな状況でも冷静に、穏やかな対応ができている。イリスもきっと、肝の座った頭の回転が速い子なのだろう。ロシャナクの腕に抱かれながらも、緊張や動揺といった素振りはほとんど見せることなく、てきぱきとその話を聴いていた。
「は~なるほどね! なんかおかしいなぁとは思ったのよ」
ロシャナクから一通りの内容を聴き終えた後、イリスは寝床から起き上がると、チラりとティルスを一瞥した。
「ティルス、さんだっけ? あんな風にがっつくタイプじゃなさそうなのに意外だな~って思ったんだよね」
「わー!! もう忘れてくれ…………」
イリスは気さくな笑みで話しかけてくれたが、ティルスは耳まで真っ赤になりながら両手で顔を覆った。よくよく考えたら、この三日間、自分の行動は奇行だらけだった。無事イリスと接点を持つことに成功したからよかったが、なにしろ言動が恥ずかしすぎる。
「それで、肝心の作戦の方はどうだ? イリス……さん、よ」
なんとも言えない空気を仕切り直すように、アルクが静かに口を開いた。「イリス、でいいわよ」とほほ笑みながら、彼女は凛とした口調で続けた。
「作戦、すごくいいと思う。ちょっとドキドキするけど。女の子達もみんな、こんな環境から抜け出してやりたいと思っているし」
四人は高揚する気持ちを押さえながら、互いに見つめ合い、頷き合った。ティルスの目にも、はつらつとするイリスの姿が頼もしく映った。仲間がまた一人増えた。嬉しい。
「これで、ヤツに肉を抜く以外の仕返しができるわね!」
「え? なんだって?」
さらりと流れていった言葉をティルスが聞き返すと、「あ! ううん。こっちの話」とイリスは両手を振って「気にしないで」という素振りをしてみせた。そして、ロシャナク達に会話を促されるまでもなく、淡々と話を進めていく。
「アイツの不在の日なんだけど、まだ今月の予定が分かってないの。寝室に呼ばれた時か、まぁその機会がなかったら食事を運ぶ時にでも盗み聴きするわ! 結果は、配膳の時に耳打ちでいい?」
「うん、大丈夫だよ」
ロシャナク達が相槌をうつ中、ティルスは一人あっけにとられていた。『剣奴の部屋に行け』と命じられた状況でも平然としていて、今はさらりと『寝室に呼ばれた時にきく』なんて言ってのける。
(もしかしてイリス、めちゃくちゃ心が強い?)
いや、たとえ心が強い少女だとしても、自分達の都合で、危険かつ申し訳ない頼みごとをしていることには変わりない。ティルスが頭を下げると、ロシャナクとアルクも続いて、イリスに頭を下げた。
「大丈夫だって! そんな……」
イリスが照れ隠しともとれる笑みを浮かべるのが頼もしい反面、ティルスはなんとはなしに心が痛んだ。
しんみりとした空気を変えようとするかのように、イリスが明るい声で告げた。
「あんまり長居してると怪しまれちゃうよね! わたしそろそろ……」
「あ、待って、待ってくれ」
イリスが立ち上がり退室の準備をしようとしたその時。ふとティルスは言いそびれた内容を思い出し、あわててイリスを引き留めた。
「ラケルドの不在日──脱走を実行する日のことなんだけど。アレリアは養成所にいる日、でお願いできないか!?」
試合の宣伝とかなんとかで、ラケルド達とアレリアが一緒に不在になってしまう時期があるみたいなんだ。その時に脱走してしまったら──、と話した時点で、イリスはティルスが伝えたい意図を察したようだった。ロシャナクとアルクも無言で頷く。
「アレリアさんも一緒に脱走させてあげたいもんね。分かったわ!」
「ありがとう。あと……」
ティルスは少しだけ間を置いてから、ゆっくりと唇を動かした。これはロシャナクとアルクにも、事前に相談できていない内容だった。
「できればアレリアにも、この計画のことを教えてやってくれないか? オレ達はほとんど接点を持てないんだけど、イリスだったら……」
「え、ええっと……」
イリスは確かめるように、ロシャナクとアルクの顔を見やった。二人はほんの少しだけ複雑そうな表情を浮かべたが、やがてロシャナクが「まぁティルスの気持ちを考えたらそうだよね」と呟くと、彼らは表情を和らげた。
しかし、どうしてだろう。今度は対照的にイリスの表情がみるみると曇っていった。
「気持ちは分かったわ。で、でも、伝えられるかどうかは……」
「どういうことだ?」
先程までの元気な様子から打って変わって、肩を落として口ごもり始めたイリスに、ティルスは思わず心配になり、詰め寄った。
「わたし、アレリアさんにご飯を持って行ったり、今はちょっとした身の回りのお世話もしているから、毎日顔を会わせてはいるんだけど。でもね。ずっと常に、アレリアさんの側で兵士が見張ってて……」
バレずに耳元で話せるかどうかは分からないわ、とイリスは不安な気持ちを偽ることなく吐露した。
「は? お世話!? 見張り!?」
「え!? 知らないの?」
ティルスの返答を待つまでもなく、イリスはこの場にいる剣奴三人が重大な事実を知らないでいることに気づいたらしい。イリスは薄汚い石床に視線を落とすと、涙交じりの声でぽつりと漏らした。
「アレリアさん三日前に、
──自殺しようとしたみたいなの」
◆◆◆◆◆◆
自殺未遂。
重すぎる言葉に、ティルスは雷に打たれたように寝床から動けなくなった。
(アレリアが、自殺、未遂……?)
視界が歪む。鈍器か何かで殴られた時のように、頭がぐわんぐわんと揺れた。
「イリス。その話、詳しく教えてもらえないかな?」
茫然とするティルスに代わって、ロシャナクが言葉を紡ぐ。イリスはしばらくうつむいていたが、やがて意を決したようにしゃべり出した。
「八月六日の午後だったかな。井戸の近くで手首から血を流したアレリアさんが倒れているのを、看守が見つけて……」
「なん、だと……?」
「どうして、そんな……」
「…………」
ロシャナクとアルクは息を呑んで、続く言葉を待った。ティルスも覚束ない意識の中で、なんとかイリスの言葉を追おうと努める。
やがてイリスは、神妙な面持ちで再び口を開いた。
「表向きは、“剣奴に暴行を加えられたショック”ということになっているけれど」
「表向き?」
「……………………」
イリスはしばらくうつむいたまま、なんて言ったらいいんだろう、どこまで言ったらいいんだろう、と必死に言葉を選んでいる様子だった。膝の上で結ぶ手が、心なしかこわばっているように見えた。
「本当のところは、ラケルド様に。
──お仕置きと称して、ひどい性的な暴行を受けたからって噂になってる」
実際に、その様子を窓から見た剣奴がいるみたいなの。
イリスが比較的、冷静に言葉を紡げたのはここまでだった。
ぽたぽたと涙の雫が、一粒、また一粒と可憐な手のひらに落ちていく。一度あふれ出してしまった感情は、もう抑えられない様子だった。「アレリアさん、嫌だっただろうな」「そういうことに慣れているわたし達だって、あれは……」そう言って、イリスは両手で顔を覆った。
三人は絶句せざるを得なかった。
しばらくの間、ただイリスのすすり泣く声だけが、薄暗い房の中を支配していた。
(窓…………)
ティルスは青ざめた。
そして、全身から血の気が引く思いだった。
ああ。これって。そう、これは──。
「倉庫の……柵の……あの時」
倉庫にラケルドが入っていった時。もう一人いたような気がした。影を見たような気がしていた。あれが、あの時の姿が。そう──。見間違いなんかじゃなかったんだ。あれは。
「……クソ野郎……あの時……」
同じく、三人で柵を見に行った際の出来事だと気付いたアルクが、今にも泣き出しそうな声音で呟いた。
「そ、それで。今、アレリアはどんな状態なの?」
なんとか平静を装って、問いかけたのはロシャナクだった。イリスは涙をぬぐって顔を上げると、「そうだよね、ちゃんと話さないとね」と背筋を正した。
「出血はたくさんあったみたいだけど、命に別状はないって。その日すぐに治療を受けて、今はお屋敷の治療室で休養しているわ」
だから、大丈夫──イリスは胸に手を当てて、まるで自分自身に言い聞かせるように、何度か繰り返した。
「そうだったんだね。……言いにくいことを、僕達に教えてくれてありがとう」
ロシャナクは「そろそろ君も休まないとね」と、さりげなくイリスに退室を促すのだった。
「アレリアさんもこんな状況だし……うん、わたし頑張る。なんとかアレリアさんに少しでも計画のことを伝えられるように工夫してみる。希望がある、って伝えたいもんね」
無理やりにでも気持ちを前向きにしようと彼女が発した言葉は、悲しいことに、尚も茫然自失として固まったままのティルスの頭上を、むなしく通り過ぎて行った。
◆◆◆◆◆◆
深夜。
イリスがとっくにこの部屋を去った後も、ティルスは一睡もできなかった。
眩暈のような、地震のような。世界がずっと不気味に揺れている気がして、とても眠りにつけなかった。
アレリアが心と体に受けた傷と痛みを想うと、息ができなくなるほどに胸が締め付けられた。加えてとめどなくあふれてくるのは、己に対する「どうして!」という、強い強い後悔の念だった。
(どうして…………)
──どうしてオレは、あの時の“違和感”をなかったことにしたんだ?
(あの時……なぁ、あの時!)
ロシャナクの手を振り払ってでも、自分は倉庫に確かめに行くべきだったんだ! そして倉庫に侵入していれば、少なくともアレリアが嫌な目に遭う前に、もしくはせめて、その行為の途中で、助け出すことができたかもしれないのに!
(クソ!! クソ!!)
ティルスは歯を食いしばって泣き続けた。できることなら、拳を精一杯、この石壁に叩きつけてやりたい。悔しい。不甲斐ない。申し訳ない。助け出せたはずなんだ。いつもなら、いつもの自分なら。どうして、どうして、あの日に限って!
(柵なんて後回しでもよかっただろ!)
あの日、あの時、倉庫の中で。たった一人とてつもない暴力に晒されて、その後自ら死を選ぶまでに追い詰められた──アレリアの絶望的な気持ちを慮ると、悔しくて悲しくて、どこまでも重苦しい真っ黒な気持ちで、身が引き裂かれそうになった。自分なんかより、アレリアの方が、もっと、もっと、もっと辛いはずなのに。
(ごめん、アレリア…………)
──次、同じような状況になったら。
オレはどんな手段を使ってでも……。
(……………………)
夜が明けるまで。ティルスは涙でぐしゃぐしゃになった手で、形見のペンダントをちぎれるほどに、握りしめ続けるのだった。
「だから! お、女を抱きたいって言っているんだ!」
帝国兵に声を叩きつけるが、返ってきたのは昨日とまったく同じ回答だった。
「気持ちは分かった! だがな、ここ数日ラケルド様にとてもお声をかけられる雰囲気じゃ……」
「ッ……!」
夕闇が迫る中、ティルスは房の入り口で拳を握りしめた。
(クソッ!)
ロシャナクにイリスという少女を連れてくるように頼まれてから、もうすでに三日が経過しようとしている。ロシャナクとアルクが考えてくれた脱走計画を成功させるためにも、女の子達に早く作戦の内容を伝えるためにも、なんとしてもイリスと接点を持ちたい。
「頼む! イリスって女の子を……」
「あ~! もう」
もう一度、声を張り上げて「ラケルドに会わせろ」とお願いしようとした、その時だった。耳障りに砂地を蹴る足音と共に、嘲笑交じりの声が横入りする。
「そんなにあのじゃじゃ馬がいいのか? いいぞ」
「ラ、ラケルド様……!」
うろたえる兵士には気にも留めず、ラケルドは少し離れた先にある調理場の方を見やると、下卑た笑いを浮かべながら少女の名を叫んだ。
「おいイリス、来い」
ほどなくして、イリスが栗色の髪を揺らしながら、小走りでこちらへとやってきた。イリスは状況が飲みこめないのか、息を弾ませたままラケルドとティルスを交互に見つめる。瞬間、深緑を宿した丸い瞳と視線がかち合い、ティルスは思わずドキリとして背筋を伸ばした。
「お前、今日はティエーラ人の部屋に行ってやれ」
「……ッ!!」
ラケルドはイリスに目もくれず、まるで物を扱うような調子で適当に言い放った。
「……わかりました」
(えっ)
自分から求めていたことだが、特に動揺することもなく承諾したイリスに、ティルスは驚きを隠せなかった。初対面も同然の男に、強くその身を求められているのだ。気持ち悪すぎて、絶対に嫌な顔をされるだろうと思っていた。それなのに。
平然としているように見える彼女の様子は、この状況に対する“諦め”なのか、精一杯の強がりなのか。それとも──。
「あはは、ティエーラ人、女とヤッたことあんのかよ?」
ティルスの思案は、興行師の笑い声で中断を余儀なくされた。
(……………………)
やはり言われた。想定内の反応だった。ティルスは胸の内で、ゆっくりとロシャナクの言葉を反芻した。
『やつに心無い言葉をかけられても、気にしないように。言い返さず無視』と。
「……………………」
ティルスは砂地へと視線を落とし、無言を貫いた。しばらくの間、興行師の下品な嘲りを適当に受け流す。
ラケルドの言葉ひとつひとつが本当に癪だったが、自分が馬鹿にされたり、見下されたりするのは、とりわけ耐えようと思えば耐えられるものだった。何を言われようが、別に構わない。イリスを自分達の部屋に呼ぶという目的さえ、達成できれば。
「はは、本当は“アレリア”がいいんだろ?」
「──!」
唐突に出てきた彼女の名に、奥歯を噛む。
視線を合わせるまでもなく、ラケルドが自分の反応を確かるために、舐めまわすように己の顔を覗き込んでいるのが分かった。
(……………………ッ!!)
どことなく不快な含みを持たせて笑う興行師に、感情的に言い返しそうになるのを、砂地に伸びる影をじっと見つめながら、ティルスは必死に耐えた。
「でもごめんな~あの“お姫様”は、お前達剣奴には輪姦せないんだよな」
「──ッてめぇ!!」
どこまでも最低で最悪な言葉に、沸き立つような怒りが全身を駆け巡った。頭に血がのぼり、視界が歪む。もう、虫唾が走る気持ちを我慢することはできなかった。
ティルスはラケルドの胸ぐらを掴んでやろうと、飛ぶように右腕を伸ばしかけたところで──、制御できなくなったはずの感情まかせの行動は、思わぬ形で動きを止めざるを得なかった。
(えっ!?)
先程まで平然とした態度で、ただ従順に興行師の横に佇んでいただけのイリスが、なんと緑色の瞳を怒りでわななかせながら、右足をそぉっと上げたではないか。瞳からにじみ出る怒りの色は、ティルスと同等──いや、それ以上の強い感情を宿していた。その予想外の動きとただならぬ様子に、一瞬思考が停止しかけたが、すぐさまティルスはイリスの意図を理解した。
(ラケルドの足を踏みつけようとしている!?)
──そんなコトを君がしたら、まずい!
止めなければ。自分よりも血気盛んな相手を見ると、どうしてだろう。不思議と冷静な気持ちになれるものだった。ティルスは咄嗟にラケルドとイリスの間に割って入ると、力の限り叫んだ。
「いいからオレにイリスを抱かせてくれ!!」
◆◆◆◆◆◆
「えーと」
イリスは鉄扉をくぐるなりティルスの姿を確かめるや、会話もそこそこにワンピースの肩紐を下げ衣服を脱ごうとした。一方のティルスは反射的に両手で目を覆うと、顔を真っ赤にしてうろたえた。
「わー!! 違う! 違うんだ! そ、その……」
「えっ?」
「……脱がなくて大丈夫です、イリスさん。こんな風に面と向かってお話をするのは初めてだね」
僕からすべて説明するよ、とロシャナクが寝床から立ち上がる。ロシャナクはイリスの肩に優しく触れながら「ラケルドに怪しまれないように、形だけでいいので、僕の寝床に一緒に入ってくれませんか?」と耳元で静かにささやいた。イリスは少しだけ目を丸くしていたが、やがて小さく頷くと、ロシャナクと共にその身をぼろ布の中へと横たえる。
イリスがロシャナクからすべての事情を聴く間、ティルスは深呼吸をして、胸が早鐘を打つのをゆっくりと整えた。隣に座るアルクが、様々な心労を察してだろうか。珍しく己の肩に左手を置いて「落ち着け」などと励ましてくれた。
(はぁ、びっくりした……)
ティルスは手の甲で額の汗をぬぐった。それにしても、ロシャナクはすごい。こんな状況でも冷静に、穏やかな対応ができている。イリスもきっと、肝の座った頭の回転が速い子なのだろう。ロシャナクの腕に抱かれながらも、緊張や動揺といった素振りはほとんど見せることなく、てきぱきとその話を聴いていた。
「は~なるほどね! なんかおかしいなぁとは思ったのよ」
ロシャナクから一通りの内容を聴き終えた後、イリスは寝床から起き上がると、チラりとティルスを一瞥した。
「ティルス、さんだっけ? あんな風にがっつくタイプじゃなさそうなのに意外だな~って思ったんだよね」
「わー!! もう忘れてくれ…………」
イリスは気さくな笑みで話しかけてくれたが、ティルスは耳まで真っ赤になりながら両手で顔を覆った。よくよく考えたら、この三日間、自分の行動は奇行だらけだった。無事イリスと接点を持つことに成功したからよかったが、なにしろ言動が恥ずかしすぎる。
「それで、肝心の作戦の方はどうだ? イリス……さん、よ」
なんとも言えない空気を仕切り直すように、アルクが静かに口を開いた。「イリス、でいいわよ」とほほ笑みながら、彼女は凛とした口調で続けた。
「作戦、すごくいいと思う。ちょっとドキドキするけど。女の子達もみんな、こんな環境から抜け出してやりたいと思っているし」
四人は高揚する気持ちを押さえながら、互いに見つめ合い、頷き合った。ティルスの目にも、はつらつとするイリスの姿が頼もしく映った。仲間がまた一人増えた。嬉しい。
「これで、ヤツに肉を抜く以外の仕返しができるわね!」
「え? なんだって?」
さらりと流れていった言葉をティルスが聞き返すと、「あ! ううん。こっちの話」とイリスは両手を振って「気にしないで」という素振りをしてみせた。そして、ロシャナク達に会話を促されるまでもなく、淡々と話を進めていく。
「アイツの不在の日なんだけど、まだ今月の予定が分かってないの。寝室に呼ばれた時か、まぁその機会がなかったら食事を運ぶ時にでも盗み聴きするわ! 結果は、配膳の時に耳打ちでいい?」
「うん、大丈夫だよ」
ロシャナク達が相槌をうつ中、ティルスは一人あっけにとられていた。『剣奴の部屋に行け』と命じられた状況でも平然としていて、今はさらりと『寝室に呼ばれた時にきく』なんて言ってのける。
(もしかしてイリス、めちゃくちゃ心が強い?)
いや、たとえ心が強い少女だとしても、自分達の都合で、危険かつ申し訳ない頼みごとをしていることには変わりない。ティルスが頭を下げると、ロシャナクとアルクも続いて、イリスに頭を下げた。
「大丈夫だって! そんな……」
イリスが照れ隠しともとれる笑みを浮かべるのが頼もしい反面、ティルスはなんとはなしに心が痛んだ。
しんみりとした空気を変えようとするかのように、イリスが明るい声で告げた。
「あんまり長居してると怪しまれちゃうよね! わたしそろそろ……」
「あ、待って、待ってくれ」
イリスが立ち上がり退室の準備をしようとしたその時。ふとティルスは言いそびれた内容を思い出し、あわててイリスを引き留めた。
「ラケルドの不在日──脱走を実行する日のことなんだけど。アレリアは養成所にいる日、でお願いできないか!?」
試合の宣伝とかなんとかで、ラケルド達とアレリアが一緒に不在になってしまう時期があるみたいなんだ。その時に脱走してしまったら──、と話した時点で、イリスはティルスが伝えたい意図を察したようだった。ロシャナクとアルクも無言で頷く。
「アレリアさんも一緒に脱走させてあげたいもんね。分かったわ!」
「ありがとう。あと……」
ティルスは少しだけ間を置いてから、ゆっくりと唇を動かした。これはロシャナクとアルクにも、事前に相談できていない内容だった。
「できればアレリアにも、この計画のことを教えてやってくれないか? オレ達はほとんど接点を持てないんだけど、イリスだったら……」
「え、ええっと……」
イリスは確かめるように、ロシャナクとアルクの顔を見やった。二人はほんの少しだけ複雑そうな表情を浮かべたが、やがてロシャナクが「まぁティルスの気持ちを考えたらそうだよね」と呟くと、彼らは表情を和らげた。
しかし、どうしてだろう。今度は対照的にイリスの表情がみるみると曇っていった。
「気持ちは分かったわ。で、でも、伝えられるかどうかは……」
「どういうことだ?」
先程までの元気な様子から打って変わって、肩を落として口ごもり始めたイリスに、ティルスは思わず心配になり、詰め寄った。
「わたし、アレリアさんにご飯を持って行ったり、今はちょっとした身の回りのお世話もしているから、毎日顔を会わせてはいるんだけど。でもね。ずっと常に、アレリアさんの側で兵士が見張ってて……」
バレずに耳元で話せるかどうかは分からないわ、とイリスは不安な気持ちを偽ることなく吐露した。
「は? お世話!? 見張り!?」
「え!? 知らないの?」
ティルスの返答を待つまでもなく、イリスはこの場にいる剣奴三人が重大な事実を知らないでいることに気づいたらしい。イリスは薄汚い石床に視線を落とすと、涙交じりの声でぽつりと漏らした。
「アレリアさん三日前に、
──自殺しようとしたみたいなの」
◆◆◆◆◆◆
自殺未遂。
重すぎる言葉に、ティルスは雷に打たれたように寝床から動けなくなった。
(アレリアが、自殺、未遂……?)
視界が歪む。鈍器か何かで殴られた時のように、頭がぐわんぐわんと揺れた。
「イリス。その話、詳しく教えてもらえないかな?」
茫然とするティルスに代わって、ロシャナクが言葉を紡ぐ。イリスはしばらくうつむいていたが、やがて意を決したようにしゃべり出した。
「八月六日の午後だったかな。井戸の近くで手首から血を流したアレリアさんが倒れているのを、看守が見つけて……」
「なん、だと……?」
「どうして、そんな……」
「…………」
ロシャナクとアルクは息を呑んで、続く言葉を待った。ティルスも覚束ない意識の中で、なんとかイリスの言葉を追おうと努める。
やがてイリスは、神妙な面持ちで再び口を開いた。
「表向きは、“剣奴に暴行を加えられたショック”ということになっているけれど」
「表向き?」
「……………………」
イリスはしばらくうつむいたまま、なんて言ったらいいんだろう、どこまで言ったらいいんだろう、と必死に言葉を選んでいる様子だった。膝の上で結ぶ手が、心なしかこわばっているように見えた。
「本当のところは、ラケルド様に。
──お仕置きと称して、ひどい性的な暴行を受けたからって噂になってる」
実際に、その様子を窓から見た剣奴がいるみたいなの。
イリスが比較的、冷静に言葉を紡げたのはここまでだった。
ぽたぽたと涙の雫が、一粒、また一粒と可憐な手のひらに落ちていく。一度あふれ出してしまった感情は、もう抑えられない様子だった。「アレリアさん、嫌だっただろうな」「そういうことに慣れているわたし達だって、あれは……」そう言って、イリスは両手で顔を覆った。
三人は絶句せざるを得なかった。
しばらくの間、ただイリスのすすり泣く声だけが、薄暗い房の中を支配していた。
(窓…………)
ティルスは青ざめた。
そして、全身から血の気が引く思いだった。
ああ。これって。そう、これは──。
「倉庫の……柵の……あの時」
倉庫にラケルドが入っていった時。もう一人いたような気がした。影を見たような気がしていた。あれが、あの時の姿が。そう──。見間違いなんかじゃなかったんだ。あれは。
「……クソ野郎……あの時……」
同じく、三人で柵を見に行った際の出来事だと気付いたアルクが、今にも泣き出しそうな声音で呟いた。
「そ、それで。今、アレリアはどんな状態なの?」
なんとか平静を装って、問いかけたのはロシャナクだった。イリスは涙をぬぐって顔を上げると、「そうだよね、ちゃんと話さないとね」と背筋を正した。
「出血はたくさんあったみたいだけど、命に別状はないって。その日すぐに治療を受けて、今はお屋敷の治療室で休養しているわ」
だから、大丈夫──イリスは胸に手を当てて、まるで自分自身に言い聞かせるように、何度か繰り返した。
「そうだったんだね。……言いにくいことを、僕達に教えてくれてありがとう」
ロシャナクは「そろそろ君も休まないとね」と、さりげなくイリスに退室を促すのだった。
「アレリアさんもこんな状況だし……うん、わたし頑張る。なんとかアレリアさんに少しでも計画のことを伝えられるように工夫してみる。希望がある、って伝えたいもんね」
無理やりにでも気持ちを前向きにしようと彼女が発した言葉は、悲しいことに、尚も茫然自失として固まったままのティルスの頭上を、むなしく通り過ぎて行った。
◆◆◆◆◆◆
深夜。
イリスがとっくにこの部屋を去った後も、ティルスは一睡もできなかった。
眩暈のような、地震のような。世界がずっと不気味に揺れている気がして、とても眠りにつけなかった。
アレリアが心と体に受けた傷と痛みを想うと、息ができなくなるほどに胸が締め付けられた。加えてとめどなくあふれてくるのは、己に対する「どうして!」という、強い強い後悔の念だった。
(どうして…………)
──どうしてオレは、あの時の“違和感”をなかったことにしたんだ?
(あの時……なぁ、あの時!)
ロシャナクの手を振り払ってでも、自分は倉庫に確かめに行くべきだったんだ! そして倉庫に侵入していれば、少なくともアレリアが嫌な目に遭う前に、もしくはせめて、その行為の途中で、助け出すことができたかもしれないのに!
(クソ!! クソ!!)
ティルスは歯を食いしばって泣き続けた。できることなら、拳を精一杯、この石壁に叩きつけてやりたい。悔しい。不甲斐ない。申し訳ない。助け出せたはずなんだ。いつもなら、いつもの自分なら。どうして、どうして、あの日に限って!
(柵なんて後回しでもよかっただろ!)
あの日、あの時、倉庫の中で。たった一人とてつもない暴力に晒されて、その後自ら死を選ぶまでに追い詰められた──アレリアの絶望的な気持ちを慮ると、悔しくて悲しくて、どこまでも重苦しい真っ黒な気持ちで、身が引き裂かれそうになった。自分なんかより、アレリアの方が、もっと、もっと、もっと辛いはずなのに。
(ごめん、アレリア…………)
──次、同じような状況になったら。
オレはどんな手段を使ってでも……。
(……………………)
夜が明けるまで。ティルスは涙でぐしゃぐしゃになった手で、形見のペンダントをちぎれるほどに、握りしめ続けるのだった。
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