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第3章 立ち上がれ! 絶望に汚されても
7.渡し守の鉄槌
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予想をはるかに超えた出来事に出くわすと、斯くの如く人間の体とは言うことを利かなくなるものなのか。
腰を抜かして砂地にへたり込みそうになるのを、震える脚でなんとか踏みとどまる。そして、ティルスは前を見据えた。
夏の日差しが降り注ぐ闘技場の真ん中で。
テンプルが自分と同様に、体を大きく震わせ、涙を流している。
「ッ……!? なっ…………」
観覧席から向けられている嘲りと好奇に満ちた視線も忘れ、ティルスは闘技場中央で混迷を極めた。
どうして?
反対の扉からは、ロシャナクが入場するはずだったのに。
テンプルは、午後に行われる集団戦に参加するはずではなかったか?
なんで? なんでこんなことに?
意味が、分からない。ロシャナク、ロシャナクはどうしたのか?
まさか、ロシャナクの身に、何か、あったのか?
どうして、どうして──。
(頭が、上手く働かない──)
「ティ、ティルス……ッ」
震える声で己の名を呼ばれ、ティルスはハッと我に返った。
「わ、わかんねェけど、なんか急に、こっちの方に出ろって……」
「えっ!?」
「お、お、俺もマジで意味わかんねーよぉ……!」
テンプルは「ティスルと殺し合いなんてしたくねぇよ!」と泣き叫ぶや、今にもその場で、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
『おい、どうした? さっさと試合を始めろ!』
鞭を携えたラケルドの、怒号がきこえる。
と同時に、降り注ぐ野次も一際大きな波となった。
(これ以上……)
開始を長引かせることは、許してもらえそうになかった。
(クソッ!)
出来ることなら、二本の剣を思いっきり白い砂へと叩きつけてやりたかった。皇帝と将軍アヴェルヌスが鎮座する場所がもう少し低ければ、怒りのままに奴らへと切っ先を向けて、剣を投げつけてやることだって!
──仮にそんなことをしても、今この場にあふれ返っている嘲笑がより一層大きくなるだけだと判断し、寸でのところで、ティルスは感情の爆発を思い止まった。それに、下手な真似をすれば、今度こそ己の命はないと思われた。おそらくだが、皇帝以外は、自分のことを殺してしまいたいと、常に隙をうかがっている気がする。
(どうする、どうするッ……!)
テンプルを殺して、自分だけが生き残ろうなどと思うものか。
“ならば自分の方が死のう”という選択肢も、もはやティルスは持ち合わせていなかった。ロシャナクと生きて明日を、と誓ったのだから。
「…………ッ!」
瞳を閉じて、喚き散らしてしまいたい衝動を必死に押さえる。そしてティルスは懸命に、ロシャナクと交わした約束を思い返した。
脳裏で、ロシャナクの声を反復する。
“ティルス。君の方が“剣闘士として人気があり期待されている”
“白熱した戦いを演じた後に、
──ティルス、君が負けて助命を請う”
“事前に試合運びや勝敗を示し合わせていると知れたら、最悪二人とも命はない”
(そうだ!)
相手が変わっただけだろう!
ティルスは己の心にそう刻み、覚悟を決めた。
テンプルと演じるのだ。白熱した試合を。そして自分の方が──
「ティルス、なぁ! 二人でなんとかさ……」
テンプルのすがるような眼差しを見止めて、瞬間。ティルスの首筋に稲妻が走った。それは、ほとんど直感に近い危機感だった。
──まずい。今、示し合わせなんてしたら!
(………………ッ!!)
ティルスは剣の柄をギュッと握った。
そして、懇願を続けようとするテンプルの声を、あからさまに遮って言い放つ。
「──闘技場で対峙した以上、もう仕方がない!」
「は? え?」
テンプルの困惑が、痛いほど見て取れるので辛かった。
本当は自分だって、こんな言葉を叩きつけたくない。
「なっ……なに言ってんだよティ……」
「正々堂々と戦おう、テンプル!」
(ごめん、テンプル!)
再び言葉を遮って、ティルスは双剣を構える姿勢をとった。
テンプルの顔が、青ざめていく。
切っ先を向けられて絶句する友人に、ティルスは捲し立て続けた。
「──テンプル。お前にも何か、譲れないものが、あるんじゃないのか!?」
「は……? へ……?」
「オレにはある。隊長に託されたんだ。生きている仲間を探して助けなきゃいけないし、ティエーラ王国を……取り戻さないといけない!」
「だから負けるわけにはいかない!」と闘技場全体に響き渡る声で叫んでみるものの、返ってきたのは帝国民達の乾いた笑いだけで、当の本人テンプルは「それはそうだと思うけどよ」と、ただ困惑を深めるばかりだった。
(ダメだ!)
もっと決定打になるような言葉を。煽り文句を言わないと。
怒り狂って、自分を殺すつもりで斬りかかってきてほしい。真剣勝負を、演じるために!
「闘技場では、“友人”なんて関係ねぇ!」
無表情を装って。努めて冷たい声で、ティルスはそう吐き捨ててみせた。
「ッ…………!?」
テンプルの瞳が揺れた。そして、表情がみるみると悲しみに染まっていく。
今まで、見たことのないほどに。顔を歪めて。
震える口元が、何かを告げようとしていたが、声にならないようで──。
「──来い! テンプル!」
胸が痛むのを押し殺して、ティルスは言い放った。
テンプルに向けた剣の切っ先を、数回揺らして「かかってこい」と挑発してみせる。だが、テンプルは茫然と立ち尽くしたまま、まるで動こうとしない。
「……来ないなら、こっちから始めるぞ!」
ティルスは砂を蹴った。テンプルとの間合いを詰めるや、上段の構えから右手側の剣を振り下ろす。テンプルでも防げるように、ややゆっくりとした動作で。
「わっ……! わぁ……!?」
かろうじて、訓練通りにテンプルは刃を受け止めてくれた。ただ、本当に斬りかかられると思っていなかったのか、振り下ろされた斬撃を弾き返すと同時に、尻餅をつく形でその場にどっ、と倒れ込んだ。ティルスを仰ぎ見るその目には「信じられない」という驚愕の色が浮かんでいた。
手を差し伸べて起こしてあげたい気持ちを必死に堪えて、ティルスは冷たい視線を投げ返した。テンプルの瞳から、光が、消え去った。
「……なんだ、よ……」
先程まで青ざめていたテンプルの顔が、今度はたちまち紅へと染まっていく。
テンプルは長剣を握る右拳に力を込めながら、唸るように呟いた。
「ロシャナクさんとのことは、あんなに悩んだくせに……。俺のことは……。俺のことは、はは、こんなあっさり……」
悩んでくれないんだな、と自嘲交じりの涙声が告げる。
「……………………」
ティルスは冷たい視線のまま、剣の構えを解かず、ただ黙すのみを貫いた。
冷徹に務めること。それが今のティルスができる、せめてもの精一杯だった。
──ごめん。テンプル。本当にごめん。そんなこと思ってない!
「──うわぁぁぁぁッ!! なんでだよティルス!!」
今度は、テンプルが勢いよく砂地を蹴った。飛びかかるように、ティルスとの間合いを詰める。怒りに任せた、ぐちゃぐちゃの斬撃を受け止めながら、ティルスはやっと安堵した。
(そうだ! テンプル! これでいい!!)
今この瞬間は、本気で自分のことを恨んでくれていい! 憎んでくれていい!
それで演技だと見紛うことのない、本気の試合を演出できていれば。
汗と共に、涙が宙を舞う。
互いが望んでなどいない剣戟が、偽りの火花を散らす。
どうして。どうして。ティルス。ひどいよ。
◆◆◆◆◆◆
──どのぐらい、テンプルの怒りを受け止めただろうか。
ティルスは“白熱した試合”を演じることの難しさを痛感した。
(実力の差がありすぎる!)
ロシャナクと自分の実力は、おそらく互角だった。だが、テンプルはと言うと、本人も話していた通り、半年前までは鉱山で働く奴隷だったのである。ありていに言えば、剣士として弱かった。これがティエーラ王国に侵入を試みようとする賊であるなら、一撃で葬り去っているレベルだった。
(クソッ……!)
トドメを刺せるのに、あえてそのトドメを刺さないこと。避けるのが容易である攻撃を、すれすれのところで躱しているように見せかけること。どれをとっても難しかった。
時々、わざとらしく地面に膝をついてみたり、肩で息をして疲労している風を装ったりしているが、あまりにも頻回に、大げさにやりすぎると、さすがの観客達も不審に思い始めるだろう。「死にたくない」「戦わなきゃいけない」と嘆き、必死に食らいついてくるテンプルを相手に、ティルスは別の思惑と不安を抱えながら、額に脂汗を浮かせていた。
(いつまで続けるべきだ? まだか!?)
テンプルの斬撃を受け流しながら、思考し、同時に闘技場全体の雰囲気も探る。
思いの外、己の迫真さは会場に伝わっているようで、期待のティエーラ人・双剣の【興行師殺し】のまさかの敗北を嘆く声と、新人剣闘士・テンプルの善戦に湧く様子を感じ取ることができた。
(いける! これなら……)
ティルスはすかさず、テンプルとの鍔迫り合いに持ち込んだ。
刃と刃が重なる、その刹那。
「──ありがとう、テンプル。必死に戦ってくれて」
「えっ?」
「右脚を、軽く斬ってくれ」
「なっ?」
「──オレが負けて、助命を請う」
周囲にバレずに耳打ちできるのは、わずか数語だった。端的にこの剣戟の意図を伝えるや、ティルスは迫りくる長剣をかろうじて弾き返したふりをしながら、後方へと引き下がった。そして、右ふとももを手で押さえながら、痛む素振りを開始する。そう、あの忌々しい焼き印を四度も押された右脚だ。
「ティ…………ッ」
テンプルの潤んだ瞳が「本当にいいのか?」と彷徨う。躊躇している暇なんてない。ティルスは静かに頷いて、「早く!」と目線で訴えた。
(来いテンプル! そう、ここだ! ここを斬るんだ!)
「ウ、ウァァァァ!!!!」
右脚に迫る長剣の切っ先を、ティルスは避けることはしなかった。
むしろあえて、刃に肌を滑らせにいく。
「ッ…………!」
(これぐらい痛くねえ!)
狙い通り、テンプルの放った切っ先は布地を切り裂き、ティルスのふとももに十センチほどの刀傷を刻み込む。
(よし……!)
傷は浅いが、鮮血が出るほどに負傷することができた。
心臓からも遠い箇所である。命に別状はないだろう。
これが帝国兵との白兵戦であるなら、構わず戦闘を続行している程度の傷だ。
しかし、演技の神髄はここからだ。
ティルスは勢いよく二本の剣を手放すと、右足を抱えてうずくまった。これ以上は無理、というような仕草を審判らしき帝国人の男達に送る。
「ッ、ッ、ティ、ティルス……!!」
ぽたぽたと滴る血が、砂地を染めるのを目の当たりにして気が動転したのか、テンプルは長剣を構えたまま硬直していた。だが、かえってそれが功を奏している。ラケルドと皇帝の意向、そして観客達の総意を確かめ、トドメを刺すべきか、それとも……という、指示を待っているかのような形に、上手く持ち込んでくれていた。
「フフッ! イイ物が見れたよ~♪」
審判とラケルドが伺いを立てるまでもなく、皇帝──第七代皇帝・アドアステルは自ずと観覧席前方に身を乗り出した。
ああ、またこの無機質な瞳に見下される。
ほどなくして、聞きたくもない、耳障りな声が嬉々として告げた。
「やっぱりキミは面白いねぇ~♪」
「……………………ッ」
(……お願いだ)
ティルスは半裸の男──ティエーラ王国の破滅と、ゲルハルト隊長の命を奪った張本人を静かににらみつけた。ひとまず、どんな形でもいい。見世物にされたことは腹立たしい以外の何物でもないし、皇帝や将軍アヴェルヌスの存在は本当に、本当に癪だが。
(……だけど)
テンプルと自分の命が助かるのなら。
(頼む……!)
頼むから、お前らの力で。その地位で。慈悲を行使してくれ!
しばしの間、舐めるような視線でティルスを見やった後、皇帝アドアステルはニヤッと口角を上げ、声を張り上げた。
「は~い! ティルス君、頑張ったね~って思う人~~~?」
皇帝がそう言って大仰に両手を掲げると、会場全体が好意的な歓声に満ち溢れた。
(助かった、のか……?)
奴隷姿のままアレリアと戦ったあの一戦を踏まえて考えると、主催者が敗者を称え、観客達が拍手や歓声で応じるのは、“敗者の助命を望む”“観客は助命を受け入れた”という証だと思われた。「殺せ! 殺せ!」という怒号が飛び交わないということは。自分達は無事、助かった、のだろうか──。
ティルスは息を凝らして、続く皇帝の言葉を待った。
(勝者はテンプル。負けた自分も、助命を受け入れら……)
「やっぱりキミは、どこに行っても“弱き者”を庇おうとしちゃうんだねぇ」
「…………は?」
「…………フフッ! ハハハははッ!」
「──ッ!?」
急な嘲笑に唖然とするのも、束の間。
ティルスの全身に強い、強い悪寒が走った。
まただ。紫色の瞳に底知れぬ冷たさを感じて。
とてつもなく嫌な予感がするのは。前にも──
(そうだッ……!!)
これは、碧湖守備隊の仲間たちが約束を反故にされて皆殺しにされた時と同じ──!
「でもさぁ、
そっちの玩具は面白くなかったんだよねぇ!!」
つんざくような声で皇帝が吐き捨てるのとほぼ同時に、ティルスは走り出していた。呆然とするテンプルに向かって!
「テンプル! テンプル!」
『守備兵! 止めろ!』
ラケルドを警備していた帝国兵が、一斉にティルスを制止しにかかる。帝国兵の一人に羽交い絞めにされるも、ティルスはなんとか振り払い、体を前へ進めようと試みるが、今度はもう一人の帝国兵に背後から右脚を掴まれ、勢いよくその場に転倒した。すかさず残りの帝国兵達がその身に折り重なり、ティルスは力づくで地面へと抑え付けられた。必死にもがくが、多勢に無勢である。五人以上に体を押さえつけられては、重みで体を起き上がらせることができなかった。
「クソッ! 放せ! クソクソ──ッ!!」
砂が苦い。かろうじて顔だけ上げると、恐ろしい形相の仮面をつけた黒衣の人物が、入場口からぬらっと姿を現わした。手には石斧だろうか、ハンマーだろうか、重量のありそうな得物を携えている。
「へ? お、お前、なに……? は?」
不気味な装いをした人物は、テンプルに近づくと、何の躊躇もなく。
──その石斧を、勢いに任せてテンプルの腹部へと叩きこんだ。
「―ッ!? テンプル!?」
ティルスが友人の名を呼ぶ声は、闘技場に満ちる下卑た笑いと狂った歓声にかき消された。不意の攻撃を食らったテンプルは、棒切れのように吹っ飛んで、固い砂地へと倒れ込んでいった。物騒な得物はみぞおちを捉えたのか、テンプルは腹部を抑えたまま、呼吸もままならず、苦悶の表情を浮かべている。
「やめろ、やめろ! やめろ!」
ティルスの叫び声虚しく、黒衣の人物が再びテンプルに近づく。
今度はその鉄槌を──激しく顔面へと振り下ろした。
何度も、何度も。何度も。何度も。
血しぶきが、白い砂と紺碧の空に舞う。
「グワァッ……ッ!? アッ」
「テンプル──!!」
テンプルを助け出さなければ。今すぐあの仮面の男を止めないと。テンプルが、テンプルが。奴に殴り殺されてしまう!!
早く、ここを抜け出して、テンプルの下に──
「ティ、ティルスたすけ―……」
「テンプル! テンプル! クソッ! やめろォォォォ!」
『相変わらず五月蠅いヤツだな。おい、黙らせろ』
「ッ…………!!」
とたん、首の後ろに衝撃を感じ、ティルスの視界が歪んでいった。
(テ、テンプ、ル……)
意識が溶けていく。石斧がどんどん、緋色に染まっていく。
(テ、テン、プ、ル…………)
暗転した世界の中で、顔面から血を流すテンプルが、力なく。己に向かって右腕を伸ばす、その姿が。
ティルスが見た──彼の最期だった。
◆◆◆◆◆◆
「ティルス、ティルス……!」
荷馬車が養成所に着いたようだった。帝国兵に乱暴に引きずり降ろされると、瞬く間にロシャナクが駆け寄ってきた。すぐ後ろには、アルクの姿も見て取れた。地面に腰を下ろしたまま、ティルスはぼんやりとした眼差しで、夕焼けを背後にする二人を仰ぎ見た。
「…………ロ、ロシャ……」
「試合の直前、集団戦の方に出ろって。
……帝国兵を演じるチームの方に、シバ人が欲しいって……」
そう、帝国兵に言われたんだ、とロシャナクは今にも消えてしまいそうな声で告げた。
(…………そう、だったんだ)
憔悴しきった自分を案じて、差し伸べてくれたロシャナクの手を。
──静かに振り払って。ティルスはよろよろと立ちあがった。
「ティルス! ティルス!」
ロシャナクが呼び止めようとする声を、背中で受けながら。
覚束ない足取りで、房の入り口へと向かう。
ああ、きっと自分は。
大切な友人に、取り返しのつかないことを、してしまったんだ──
腰を抜かして砂地にへたり込みそうになるのを、震える脚でなんとか踏みとどまる。そして、ティルスは前を見据えた。
夏の日差しが降り注ぐ闘技場の真ん中で。
テンプルが自分と同様に、体を大きく震わせ、涙を流している。
「ッ……!? なっ…………」
観覧席から向けられている嘲りと好奇に満ちた視線も忘れ、ティルスは闘技場中央で混迷を極めた。
どうして?
反対の扉からは、ロシャナクが入場するはずだったのに。
テンプルは、午後に行われる集団戦に参加するはずではなかったか?
なんで? なんでこんなことに?
意味が、分からない。ロシャナク、ロシャナクはどうしたのか?
まさか、ロシャナクの身に、何か、あったのか?
どうして、どうして──。
(頭が、上手く働かない──)
「ティ、ティルス……ッ」
震える声で己の名を呼ばれ、ティルスはハッと我に返った。
「わ、わかんねェけど、なんか急に、こっちの方に出ろって……」
「えっ!?」
「お、お、俺もマジで意味わかんねーよぉ……!」
テンプルは「ティスルと殺し合いなんてしたくねぇよ!」と泣き叫ぶや、今にもその場で、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
『おい、どうした? さっさと試合を始めろ!』
鞭を携えたラケルドの、怒号がきこえる。
と同時に、降り注ぐ野次も一際大きな波となった。
(これ以上……)
開始を長引かせることは、許してもらえそうになかった。
(クソッ!)
出来ることなら、二本の剣を思いっきり白い砂へと叩きつけてやりたかった。皇帝と将軍アヴェルヌスが鎮座する場所がもう少し低ければ、怒りのままに奴らへと切っ先を向けて、剣を投げつけてやることだって!
──仮にそんなことをしても、今この場にあふれ返っている嘲笑がより一層大きくなるだけだと判断し、寸でのところで、ティルスは感情の爆発を思い止まった。それに、下手な真似をすれば、今度こそ己の命はないと思われた。おそらくだが、皇帝以外は、自分のことを殺してしまいたいと、常に隙をうかがっている気がする。
(どうする、どうするッ……!)
テンプルを殺して、自分だけが生き残ろうなどと思うものか。
“ならば自分の方が死のう”という選択肢も、もはやティルスは持ち合わせていなかった。ロシャナクと生きて明日を、と誓ったのだから。
「…………ッ!」
瞳を閉じて、喚き散らしてしまいたい衝動を必死に押さえる。そしてティルスは懸命に、ロシャナクと交わした約束を思い返した。
脳裏で、ロシャナクの声を反復する。
“ティルス。君の方が“剣闘士として人気があり期待されている”
“白熱した戦いを演じた後に、
──ティルス、君が負けて助命を請う”
“事前に試合運びや勝敗を示し合わせていると知れたら、最悪二人とも命はない”
(そうだ!)
相手が変わっただけだろう!
ティルスは己の心にそう刻み、覚悟を決めた。
テンプルと演じるのだ。白熱した試合を。そして自分の方が──
「ティルス、なぁ! 二人でなんとかさ……」
テンプルのすがるような眼差しを見止めて、瞬間。ティルスの首筋に稲妻が走った。それは、ほとんど直感に近い危機感だった。
──まずい。今、示し合わせなんてしたら!
(………………ッ!!)
ティルスは剣の柄をギュッと握った。
そして、懇願を続けようとするテンプルの声を、あからさまに遮って言い放つ。
「──闘技場で対峙した以上、もう仕方がない!」
「は? え?」
テンプルの困惑が、痛いほど見て取れるので辛かった。
本当は自分だって、こんな言葉を叩きつけたくない。
「なっ……なに言ってんだよティ……」
「正々堂々と戦おう、テンプル!」
(ごめん、テンプル!)
再び言葉を遮って、ティルスは双剣を構える姿勢をとった。
テンプルの顔が、青ざめていく。
切っ先を向けられて絶句する友人に、ティルスは捲し立て続けた。
「──テンプル。お前にも何か、譲れないものが、あるんじゃないのか!?」
「は……? へ……?」
「オレにはある。隊長に託されたんだ。生きている仲間を探して助けなきゃいけないし、ティエーラ王国を……取り戻さないといけない!」
「だから負けるわけにはいかない!」と闘技場全体に響き渡る声で叫んでみるものの、返ってきたのは帝国民達の乾いた笑いだけで、当の本人テンプルは「それはそうだと思うけどよ」と、ただ困惑を深めるばかりだった。
(ダメだ!)
もっと決定打になるような言葉を。煽り文句を言わないと。
怒り狂って、自分を殺すつもりで斬りかかってきてほしい。真剣勝負を、演じるために!
「闘技場では、“友人”なんて関係ねぇ!」
無表情を装って。努めて冷たい声で、ティルスはそう吐き捨ててみせた。
「ッ…………!?」
テンプルの瞳が揺れた。そして、表情がみるみると悲しみに染まっていく。
今まで、見たことのないほどに。顔を歪めて。
震える口元が、何かを告げようとしていたが、声にならないようで──。
「──来い! テンプル!」
胸が痛むのを押し殺して、ティルスは言い放った。
テンプルに向けた剣の切っ先を、数回揺らして「かかってこい」と挑発してみせる。だが、テンプルは茫然と立ち尽くしたまま、まるで動こうとしない。
「……来ないなら、こっちから始めるぞ!」
ティルスは砂を蹴った。テンプルとの間合いを詰めるや、上段の構えから右手側の剣を振り下ろす。テンプルでも防げるように、ややゆっくりとした動作で。
「わっ……! わぁ……!?」
かろうじて、訓練通りにテンプルは刃を受け止めてくれた。ただ、本当に斬りかかられると思っていなかったのか、振り下ろされた斬撃を弾き返すと同時に、尻餅をつく形でその場にどっ、と倒れ込んだ。ティルスを仰ぎ見るその目には「信じられない」という驚愕の色が浮かんでいた。
手を差し伸べて起こしてあげたい気持ちを必死に堪えて、ティルスは冷たい視線を投げ返した。テンプルの瞳から、光が、消え去った。
「……なんだ、よ……」
先程まで青ざめていたテンプルの顔が、今度はたちまち紅へと染まっていく。
テンプルは長剣を握る右拳に力を込めながら、唸るように呟いた。
「ロシャナクさんとのことは、あんなに悩んだくせに……。俺のことは……。俺のことは、はは、こんなあっさり……」
悩んでくれないんだな、と自嘲交じりの涙声が告げる。
「……………………」
ティルスは冷たい視線のまま、剣の構えを解かず、ただ黙すのみを貫いた。
冷徹に務めること。それが今のティルスができる、せめてもの精一杯だった。
──ごめん。テンプル。本当にごめん。そんなこと思ってない!
「──うわぁぁぁぁッ!! なんでだよティルス!!」
今度は、テンプルが勢いよく砂地を蹴った。飛びかかるように、ティルスとの間合いを詰める。怒りに任せた、ぐちゃぐちゃの斬撃を受け止めながら、ティルスはやっと安堵した。
(そうだ! テンプル! これでいい!!)
今この瞬間は、本気で自分のことを恨んでくれていい! 憎んでくれていい!
それで演技だと見紛うことのない、本気の試合を演出できていれば。
汗と共に、涙が宙を舞う。
互いが望んでなどいない剣戟が、偽りの火花を散らす。
どうして。どうして。ティルス。ひどいよ。
◆◆◆◆◆◆
──どのぐらい、テンプルの怒りを受け止めただろうか。
ティルスは“白熱した試合”を演じることの難しさを痛感した。
(実力の差がありすぎる!)
ロシャナクと自分の実力は、おそらく互角だった。だが、テンプルはと言うと、本人も話していた通り、半年前までは鉱山で働く奴隷だったのである。ありていに言えば、剣士として弱かった。これがティエーラ王国に侵入を試みようとする賊であるなら、一撃で葬り去っているレベルだった。
(クソッ……!)
トドメを刺せるのに、あえてそのトドメを刺さないこと。避けるのが容易である攻撃を、すれすれのところで躱しているように見せかけること。どれをとっても難しかった。
時々、わざとらしく地面に膝をついてみたり、肩で息をして疲労している風を装ったりしているが、あまりにも頻回に、大げさにやりすぎると、さすがの観客達も不審に思い始めるだろう。「死にたくない」「戦わなきゃいけない」と嘆き、必死に食らいついてくるテンプルを相手に、ティルスは別の思惑と不安を抱えながら、額に脂汗を浮かせていた。
(いつまで続けるべきだ? まだか!?)
テンプルの斬撃を受け流しながら、思考し、同時に闘技場全体の雰囲気も探る。
思いの外、己の迫真さは会場に伝わっているようで、期待のティエーラ人・双剣の【興行師殺し】のまさかの敗北を嘆く声と、新人剣闘士・テンプルの善戦に湧く様子を感じ取ることができた。
(いける! これなら……)
ティルスはすかさず、テンプルとの鍔迫り合いに持ち込んだ。
刃と刃が重なる、その刹那。
「──ありがとう、テンプル。必死に戦ってくれて」
「えっ?」
「右脚を、軽く斬ってくれ」
「なっ?」
「──オレが負けて、助命を請う」
周囲にバレずに耳打ちできるのは、わずか数語だった。端的にこの剣戟の意図を伝えるや、ティルスは迫りくる長剣をかろうじて弾き返したふりをしながら、後方へと引き下がった。そして、右ふとももを手で押さえながら、痛む素振りを開始する。そう、あの忌々しい焼き印を四度も押された右脚だ。
「ティ…………ッ」
テンプルの潤んだ瞳が「本当にいいのか?」と彷徨う。躊躇している暇なんてない。ティルスは静かに頷いて、「早く!」と目線で訴えた。
(来いテンプル! そう、ここだ! ここを斬るんだ!)
「ウ、ウァァァァ!!!!」
右脚に迫る長剣の切っ先を、ティルスは避けることはしなかった。
むしろあえて、刃に肌を滑らせにいく。
「ッ…………!」
(これぐらい痛くねえ!)
狙い通り、テンプルの放った切っ先は布地を切り裂き、ティルスのふとももに十センチほどの刀傷を刻み込む。
(よし……!)
傷は浅いが、鮮血が出るほどに負傷することができた。
心臓からも遠い箇所である。命に別状はないだろう。
これが帝国兵との白兵戦であるなら、構わず戦闘を続行している程度の傷だ。
しかし、演技の神髄はここからだ。
ティルスは勢いよく二本の剣を手放すと、右足を抱えてうずくまった。これ以上は無理、というような仕草を審判らしき帝国人の男達に送る。
「ッ、ッ、ティ、ティルス……!!」
ぽたぽたと滴る血が、砂地を染めるのを目の当たりにして気が動転したのか、テンプルは長剣を構えたまま硬直していた。だが、かえってそれが功を奏している。ラケルドと皇帝の意向、そして観客達の総意を確かめ、トドメを刺すべきか、それとも……という、指示を待っているかのような形に、上手く持ち込んでくれていた。
「フフッ! イイ物が見れたよ~♪」
審判とラケルドが伺いを立てるまでもなく、皇帝──第七代皇帝・アドアステルは自ずと観覧席前方に身を乗り出した。
ああ、またこの無機質な瞳に見下される。
ほどなくして、聞きたくもない、耳障りな声が嬉々として告げた。
「やっぱりキミは面白いねぇ~♪」
「……………………ッ」
(……お願いだ)
ティルスは半裸の男──ティエーラ王国の破滅と、ゲルハルト隊長の命を奪った張本人を静かににらみつけた。ひとまず、どんな形でもいい。見世物にされたことは腹立たしい以外の何物でもないし、皇帝や将軍アヴェルヌスの存在は本当に、本当に癪だが。
(……だけど)
テンプルと自分の命が助かるのなら。
(頼む……!)
頼むから、お前らの力で。その地位で。慈悲を行使してくれ!
しばしの間、舐めるような視線でティルスを見やった後、皇帝アドアステルはニヤッと口角を上げ、声を張り上げた。
「は~い! ティルス君、頑張ったね~って思う人~~~?」
皇帝がそう言って大仰に両手を掲げると、会場全体が好意的な歓声に満ち溢れた。
(助かった、のか……?)
奴隷姿のままアレリアと戦ったあの一戦を踏まえて考えると、主催者が敗者を称え、観客達が拍手や歓声で応じるのは、“敗者の助命を望む”“観客は助命を受け入れた”という証だと思われた。「殺せ! 殺せ!」という怒号が飛び交わないということは。自分達は無事、助かった、のだろうか──。
ティルスは息を凝らして、続く皇帝の言葉を待った。
(勝者はテンプル。負けた自分も、助命を受け入れら……)
「やっぱりキミは、どこに行っても“弱き者”を庇おうとしちゃうんだねぇ」
「…………は?」
「…………フフッ! ハハハははッ!」
「──ッ!?」
急な嘲笑に唖然とするのも、束の間。
ティルスの全身に強い、強い悪寒が走った。
まただ。紫色の瞳に底知れぬ冷たさを感じて。
とてつもなく嫌な予感がするのは。前にも──
(そうだッ……!!)
これは、碧湖守備隊の仲間たちが約束を反故にされて皆殺しにされた時と同じ──!
「でもさぁ、
そっちの玩具は面白くなかったんだよねぇ!!」
つんざくような声で皇帝が吐き捨てるのとほぼ同時に、ティルスは走り出していた。呆然とするテンプルに向かって!
「テンプル! テンプル!」
『守備兵! 止めろ!』
ラケルドを警備していた帝国兵が、一斉にティルスを制止しにかかる。帝国兵の一人に羽交い絞めにされるも、ティルスはなんとか振り払い、体を前へ進めようと試みるが、今度はもう一人の帝国兵に背後から右脚を掴まれ、勢いよくその場に転倒した。すかさず残りの帝国兵達がその身に折り重なり、ティルスは力づくで地面へと抑え付けられた。必死にもがくが、多勢に無勢である。五人以上に体を押さえつけられては、重みで体を起き上がらせることができなかった。
「クソッ! 放せ! クソクソ──ッ!!」
砂が苦い。かろうじて顔だけ上げると、恐ろしい形相の仮面をつけた黒衣の人物が、入場口からぬらっと姿を現わした。手には石斧だろうか、ハンマーだろうか、重量のありそうな得物を携えている。
「へ? お、お前、なに……? は?」
不気味な装いをした人物は、テンプルに近づくと、何の躊躇もなく。
──その石斧を、勢いに任せてテンプルの腹部へと叩きこんだ。
「―ッ!? テンプル!?」
ティルスが友人の名を呼ぶ声は、闘技場に満ちる下卑た笑いと狂った歓声にかき消された。不意の攻撃を食らったテンプルは、棒切れのように吹っ飛んで、固い砂地へと倒れ込んでいった。物騒な得物はみぞおちを捉えたのか、テンプルは腹部を抑えたまま、呼吸もままならず、苦悶の表情を浮かべている。
「やめろ、やめろ! やめろ!」
ティルスの叫び声虚しく、黒衣の人物が再びテンプルに近づく。
今度はその鉄槌を──激しく顔面へと振り下ろした。
何度も、何度も。何度も。何度も。
血しぶきが、白い砂と紺碧の空に舞う。
「グワァッ……ッ!? アッ」
「テンプル──!!」
テンプルを助け出さなければ。今すぐあの仮面の男を止めないと。テンプルが、テンプルが。奴に殴り殺されてしまう!!
早く、ここを抜け出して、テンプルの下に──
「ティ、ティルスたすけ―……」
「テンプル! テンプル! クソッ! やめろォォォォ!」
『相変わらず五月蠅いヤツだな。おい、黙らせろ』
「ッ…………!!」
とたん、首の後ろに衝撃を感じ、ティルスの視界が歪んでいった。
(テ、テンプ、ル……)
意識が溶けていく。石斧がどんどん、緋色に染まっていく。
(テ、テン、プ、ル…………)
暗転した世界の中で、顔面から血を流すテンプルが、力なく。己に向かって右腕を伸ばす、その姿が。
ティルスが見た──彼の最期だった。
◆◆◆◆◆◆
「ティルス、ティルス……!」
荷馬車が養成所に着いたようだった。帝国兵に乱暴に引きずり降ろされると、瞬く間にロシャナクが駆け寄ってきた。すぐ後ろには、アルクの姿も見て取れた。地面に腰を下ろしたまま、ティルスはぼんやりとした眼差しで、夕焼けを背後にする二人を仰ぎ見た。
「…………ロ、ロシャ……」
「試合の直前、集団戦の方に出ろって。
……帝国兵を演じるチームの方に、シバ人が欲しいって……」
そう、帝国兵に言われたんだ、とロシャナクは今にも消えてしまいそうな声で告げた。
(…………そう、だったんだ)
憔悴しきった自分を案じて、差し伸べてくれたロシャナクの手を。
──静かに振り払って。ティルスはよろよろと立ちあがった。
「ティルス! ティルス!」
ロシャナクが呼び止めようとする声を、背中で受けながら。
覚束ない足取りで、房の入り口へと向かう。
ああ、きっと自分は。
大切な友人に、取り返しのつかないことを、してしまったんだ──
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