レコンキスタ

琥斗

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 第3章 立ち上がれ! 絶望に汚されても

 5.扉は開き◆

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 テンプルがあわただしく戻ってきたのは、ティルスがアレリアと会話をした日から二日後、──七月二十日の夜だった。

「ごめんなティルス! 打ち合わせ、一日じゃ終わんなかった!」
 テンプルが眉根をひそめながら、「ごめん」と手を合わせる。

「大丈夫だ」
 ティルスが腰かけていた寝床から一度立ち上がり優しく声をかけると、テンプルは安堵した表情を浮かべ、そのまま静かにティルスの隣へと座った。

集団戦グレガーティム、イケそうな気がする……俺、頑張る」

 そう語る横顔に、まだ少しだけ不安の色は残るものの、二週間前のように肩を震わせ怯えるテンプルの姿は、もうなかった。

「……ちゃんと打ち合わせできたんだな。頑張れよ」
「ああ!」

 テンプルは力強く頷いた。

「そういえば……」
「ん?」
「……アレリアも、戻ってきたな!」

 テンプルがニカッと笑いながら続ける。

「昨日はなんか話したのか?」
「ッ! あ、ああ……」
 屈託のない問いかけにも関わらず、ティルスは言葉に詰まってしまった。

「うん、ちょ、ちょっとだけ話せた。けど、ア、アレリアも長旅で疲れてたみてーだし」

 アレリアが地方都市を巡回していたことだけを口早に伝えると、ティルスは視線を落とし、押し黙った。自分とアレリアのことを気にかけてくれていたのだから、仔細を語るべきだろう。しかし一晩たった今でも、テンプルに語って聞かせるほどの心の整理はついていない。ティルスは固く口を結んだ。

「……大丈夫かティルス? なんか悩んでね?」
「ッ! だ、大丈夫だ。オレは何も、何も……」

 ティルスはぎゅっと目をつむった。

(テンプルには言えない────)

 ロシャナクとの決戦。アレリアと話した内容。
 そして自分がこれから―実行しようと考えていること。話すわけにはいかない。いかなかった。
 それを話してしまったら。テンプルはきっと。

「あのさ、ティルス……」

 ティルスの返答を待たず、テンプルは大きく息を吸いこんで、ふぅと一息吐くや、意を決した様子で続けた。

「ロシャナクさんとの決戦、のことなんだけどよ」
「………………ッ!」

 ティルスはあわてて横を向き、テンプルから顔をそむけた。涙ぐんだ瞳を見られないように、不自然な姿勢そのままで、再び押し黙る。

「……ロシャナクさんとさ、話さなくていいのか?」
「………………」

 ティルスは膝の上でぎゅっと両手を握った。
 こらえきれずこぼれた涙が、固く握った拳と手枷に雫を落としていく。
 少し間を置いたのち、ティルスは声をしぼり出した。

「…………話してしまうと、気持ちがぐちゃぐちゃになる。で、でも……」
 言おうか言わないか胸中で葛藤したまま、ティルスは震えた声で続けた。

「でも、実は、一つだけ。伝えたいことができた。
 ──試合の前の日に、ロシャナクの、部屋に戻ろうって……思ってるっ……」

 「そうか」と、ただ一言だけ、穏やかな声音でテンプルは呟いた。
 
 その後しばらくの間、テンプルは何も言わずに、まるでティルスの気持ちに寄り添うかのように、ただ静かに座っていた。ティルスのすすり泣きが少しだけ落ち着いた頃合いを見計らって、テンプルが再び口を開く。

「──試合の前日はな、貴族とかいっぱい来てお祭り騒ぎになる。ゆっくり話したいなら、それよりもっと、早く会いに行ってあげた方がいい」

「え?」

 思わぬ助言に、ティルスは顔を上げ、テンプルを仰ぎ見た。真剣な眼差しをたたえたテンプルと目が合う。

「お節介かもしれねーけど言うぜ。明日にでもロシャナクさんと話してきなって」
 ティルスの心のためにも、ロシャナクさんのためにもよ、とテンプルは大きく頷いた。

「どういう……ことだ?」
 意図が分からない。ティルスは涙を拭いながらテンプルに尋ねた。

「ロシャナクさん、なんか剣奴とか監視兵に、いろいろ聞きまわってるらしいぜ」
「えっ!?」
「あ、ごめん。詳細はわかんねー。でもさ、あの人、頭いいだろ?」
「うん」
「ティルスの話を聴いて思ってたんだけど、ロシャナクさん、別にあの日『ティルスを殺す』とも『自分の方が負けるつもり』とも言ってなくてさ、ただ『全力で戦うしかない』って言ってただけだろ? なんかさ、もしかしたら策があんのかもしれねーよ?」

 考えもしなかった。ロシャナクは『どちらか一方が死ぬことは、避けられぬ運命』だとして、冷徹に割り切っているのだと思っていた。そう、ずっと、己の心の中で決めつけていた。

「とりあえず、話したほうがいいってマジで! お互いのため!」
「ッ……ッ……うん、ッ……」

 まだ、淡い期待をしても。
 してみても、良いのだろうか。

「っ…………」
 ティルスは両手で顔を覆った。
 温かい涙が、ティルスの頬をつたって流れていく。
 まだ何も解決していないが、ティルスは今日、たった今、初めて、ずっと避け続けていた『ロシャナクとの決闘』に対する踏み込んだ会話を、テンプルと話せたのだった。

「ごめんなティルス、俺も今日まで、なんて言っていいかわかんなくてよ……」

 そう言ってテンプルは、大きな手で何度もティルスの背中をさすってくれた。
 苦しかった心が、ほんの、ほんの少しだけ、ほぐれていく。
 ティルスが勝ってほしいと言えば、ロシャナクさんの命を軽んじることになるし、逆にロシャナクさんが勝ってほしいとも言えねぇしよ、とテンプルは涙ぐみながらその胸中を明かしたのだった。

「そうだよな、言いづらいよな……っ」

 こんな命の選択を。こんな仄暗い葛藤を、自分達にさせる帝国が、心底憎い。


「……………」


 でも。

(ごめんな、テンプル──)

 こんなに自分のことを思ってくれる“友人”には、やはりすべてを話すべきなのだろう。でも、今、伝えてしまったら。テンプルはきっと──。

「……………」



 ──友人テンプルには明かさない、とある想いを胸に秘めたまま。
 ティルスは翌日、ロシャナクとアルクが寝泊まりする部屋へと戻った。

◆◆◆◆◆◆

「ティルス……!?」
 ロシャナクが、瞳を大きく見開いて困惑している。アルクも、思いもよらないタイミングでのティルスの帰還に目をいていた。二人が驚くのも無理はない。ティルスがこの部屋に戻ったのは、実に約三週間ぶりのことであった。

 仄暗い闇の中。立ち尽くす三者の間に、重苦しい雰囲気が漂う。

「あの……えと……」
 ティルスが唇を湿らせて、声をしぼり出した。

「オレに親切にしてくれたのに、この前はロシャナクにひどいこと言ってすまなかった」
「えっ……?」


『……なんでだよ。なんで、オレに優しくなんてしたんだよ。 …………ひどいよロシャナク』


 ティルスはまず、決闘の組み合わせが決まった日に、思わず口をついて出てしまったこの言葉を詫びた。動揺していたとはいえ、ロシャナクを傷つけてしまったと思ったからだ。今日ロシャナクに会ったら、開口一番に謝罪をしようと、心に決めていた。

「短い間だったけど、こんなオレなんかに、……優しくしてくれて、ありがとう」
「ティルス…………」

(次に伝えることは)

 涙をこらえながら。努めて冷静に。
 ティルスは首から下げているゲルハルト隊長のペンダントの、金具を。
 ──そっと、外した。

「ティルス!?」
「おい、お前……!?」

 両の手に繋がれている鎖がガシャガシャと音を立て、狭い房の中で反響する。
 ティルスは首元から離れた外したペンダントを愛おしそうに握りしめたのち
 形見であるはずのそれを、ロシャナクに向かってぐいっと差し出した。

「……ティルス?」
 状況が飲みこめず、相対するロシャナクは固い表情のまま、ただ茫然と立ち尽くしている。

「……これを、アレリアに渡してほ……し……」
「えっ!?」
「決闘の前だ……と、バタつく、か、も……しッ」

 泣くまい、と決めていたにも関わらず、早くも涙が込み上げ、最後の方は言葉にすらならなかった。続けようと思う言葉も、悲しみで喉が締め付けられてしぼり出すことができない。ティルスはその場でうつむき、わぁっと泣き出した。


「……おい、それじゃあ分かんねぇよ」


 意外にも、ティルスをなだめにかかったのは、いつもは他者を寄せ付けない雰囲気をまとっているアルクだった。

「落ち着いて。俺達に分かるように、もっと最初から話せ」
 厳しさの中にもどこか温かさを感じる声音でそう諭され、ティルスは顏を上げ、少しだけ平静を取り戻した。

「ティルス、どういうこと?」
 ロシャナクもティルスに詰め寄り、心配そうな表情で問いかける。

「……オレは」
 ティルスは大きく息を吸い込んだ。


「今度の試合、オレの方が、負けよう死のうと思ってる」


「え!?」
「な!?」

「ずっと、この部屋を出てから考えていたんだ。
 どっちが、生き残るべきなんだ、って……」

 ティルスは漆黒の闇の中、一人きりで考え続けていたことを、ついに語りだした。
 隊長の想いに報いたい、帝国に負けたくないという気持ちはあるが、剣奴になってからというもの常に八方ふさがりの状態にあり、加えて今の自分には確固たる目標がなく、家族や仲間も、もう全員この世にはいないということ。
 だから、ロシャナクを殺してまで生き残りたいという渇望が、湧いてこないこと。
 
 そもそも、ロシャナクを殺すという決断が、できなかったこと……。

「それならっ! オレ、オレなんかよりっ」
 ティルスは腕で涙を拭い、泣きじゃくりながら続けた。

 “会いたい人がいる”と言っていた、ロシャナクが生き残るべきなんだ──と。

「──っ!?」

 ティルスがそう告げると、ロシャナクはひどく顔を歪め、息を呑んだ。アルクに「それはテンプルとアレリアにも言ってあるのか!?」と問われ、「言ってない、自分が死ぬつもりだなんて、とても言えなかった」と打ち明けると、二人はさらに表情を引きつらせた。

「で、でもなっ」

 ティルスは、自分の命についてはそう思ったが、でも、隊長の娘──アレリアのことだけは、どうしても気がかりでなんとかしたいと思っていることを、精一杯伝えた。

「こ、これは形見のペンダントだ。これを今のうちに、渡しておくから、ロシャナクの寝床に隠しておいてっオレが死んだら、隙をみてっ……アレリアに渡してほしいんだ……!」

 ティルスはもう一度、ペンダントをロシャナクに向けて差し出した。


「………………」


 ロシャナクは、歪んだ表情のまま微動だにせず、差し出されたペンダントに手を伸ばそうとしない。
 それでもティルスは、震えた声で続けた。

「そ、そしてロシャナクの目が届くうちは、ア、アレリアを守ってやってくれないか」
「え…………?」
「アレリアが暴行を受けそうになったら、助けてあげてほしい!」

 ロシャナクは、たとえ帝国兵となり剣奴を使役する側になったとしても、自分なんかとは違い上手く立ち回っていけるだろう。そう見越しての、身勝手なお願いだった。

「アレリアが落ち込んでいたら、お前は何も悪くない、大丈夫だって。そう励まし続けてあげてほしい……っ!勝手なお願いだって分かってる! でも、どうか……」

 ティルスはペンダントを差し出したまま、深々と頭を下げた。

 ロシャナクの返事はない。アルクも言葉を失っていた。
 束の間、房の中を静寂が支配する。



 ──やがて。
 差し出した右手が、温かく大きな手に包まれた。

「ティルス。……それは、これから君が、アレリアに直接言ってあげるんだ」

 静かな声でそう告げられ、驚いて顔を上げると、柔和な表情で涙を浮かべるロシャナクの姿が、そこにはあった。ロシャナクが両手で、ティルスの右手をペンダントごと優しく包み込んでいる。

「ごめんティルス、君をそこまで追い詰めていたなんて……」
「え……?」
「順を追って、話そう」

 ロシャナクは天井の鉄格子を見上げるや、口元で人差し指を立てて「静かに」と合図をしてから、鉄格子の死角に位置する寝床の方へと目を向けた。目線に促されるまま、アルク、ティルス、ロシャナクの順に皆で一つの寝床へと腰かけ、肩を寄せ合う。

◆◆◆◆◆◆

「何から話そうかな……」
 ロシャナクは顎に指をあて、しばらく黙考したのち、静かに口を開いた。

「……二人で生き残る可能性を、模索していた」



「………………え?」



 ティルスは目を丸くして困惑した。組み合わせが決まったあの日、確か『それは無理だ』『慈悲や助命は狙って作り出すものではない』と言っていなかったか。だから全力で戦うしかないと──。

 ティルスの混乱を感じ取ってか、ロシャナクは噛み砕くように説明を続けた。

「……あの日、ティルスに言った言葉は嘘じゃない。観客や貴族達は“やらせ”を嫌うし、事前に試合運びや勝敗を示し合わせていると知れたら、最悪二人とも命はない。アドアステル帝は、ことに真剣勝負の剣闘士試合殺し合いに関心を寄せている。だからそんなことがバレたら……」

 ここまで一息に告げると、ロシャナクは視線を落とし、少し口ごもった。

「……らしくないな、僕も。どうして君のことになると……」
「え? なんて?」
「…………ううん、なんでもない」

 独り言のように漏らした言葉を言い直すことはせず、ロシャナクは首を横に振った。目配せでなんとなく「気にしないで」と言われた気がして、ティルスはそれ以上の追及をやめた。

「えーと。つまり、その……“可能性”ってやつをあからさまに実行するのはバレたらヤバイし危険だけど、とりあえず方法はあるってことだな?」

 ティルスが確かめるように問いかけると、ロシャナクとアルクは「ああ」と頷いた。
 では、その可能性とは? そしてロシャナクはいつから思案を巡らせていたのだろう。率直に尋ねてみようと口を開きかけたところで、先に言葉を紡いだのは眉間のしわを濃くしたロシャナクだった。

「ごめんねティルス。僕が何も話さなかったせいで」
「え!?」
「──君が“自分の命を絶つ”なんて結論に至るほどに、三週間も……苦しい思いをさせて……しまった」

 いつになく申し訳なさそうに表情を曇らせながら、ロシャナクはもう一度「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。

(そうか……)

 自分はロシャナクに突き放されていたわけではなかった。彼も自分と同様に迷い、葛藤を抱えていた。その事実が。想いが。組み合わせが決まった日から、ティルスの心にずっと刺さっていたままの棘を抜き、わだかまりを溶かしていく。

「実は、組み合わせが決まった日から、ぼんやりと、考えてはいたんだ」
「なっ!? え、ええええええええ!?」

 予想外の言葉に、思わず声が飛び出る。

「おい! 声がデケェ! 気を付けろッ……」
 隣に座るアルクが、小さな声で凄む。ティルスはあわてて、両手で口を塞いだ。

「ご、ごめんアルク! えと、ロシャナク、続けてくれ」
「う、うん。でも、ティルス、君に可能性を明かさなかったのは。君ってすごく、感情が表に出やすいから」
「……え?」
「ラケルドや貴族が見たいのは、友人と殺し合いをすることになる剣奴きみの狼狽した様子や苦痛の表情だ。組み合わせが決まった直後に、“可能性がある”と明かしてしまえば、君はおそらく次の日の訓練から、さっぱりとした顔で過ごすだろうと思った」
「うっ」

 図星過ぎて、ぐぅの音も出ない。

「そんな様子じゃ、ラケルドに不審に思われる。何かしめし合わせがあると勘ぐられる……そう、危惧した」
「な、なるほど……」
「だから、いっそ君には」

 闘技場で、決闘している最中に明かそうと思っていた、と。

(ロシャナク……!)

 自分が知らないところで、こんなにも気配りされていたとは。

「……今、教えてくれ!」
 ティルスは顔を紅潮させて、ロシャナクに詰め寄った。

 心に再び、あかりが宿った気分だった。ロシャナクの思いやりにも胸が熱くなったが、可能性がある、なんらかの方法があると認め合えたことが何より嬉しい。状況を打開できるかもしれないのだから!

 「あ、明日からも、バレないようにちゃんと、しょんぼりして過ごす!」
 ティルスはあわてて付け加えた。

 ロシャナクは一瞬、迷うように視線を泳がせたが、やがてしっかりとティルスを見据えると、凛とした口調で告げた。

「白熱した戦いを演じた後に、
 ──ティルス、君が負けて助命を請う」

「なっ…………?」

 端的に言うと、ティルス。君の方が“剣闘士として人気があり期待されているからだ”とロシャナクは言った。監視兵にそれとなく尋ねてみたり、貴族と接触する機会の多い剣奴達に聞き込みを行った結果、とのことだった。人気を博している剣奴は多くの場合、たとえ敗北を喫したとしても、主催者と観客へ助命を請え命乞いをすれば、命拾いできるのだという。特にティルスは、アドアステル帝が強く関心を寄せているみたいだから……と、ロシャナクは苦い表情で続けた。また、剣奴であれば絶対服従せざるを得ない対象である興行師ラケルドを殴ったことで、ティルスには【興行師殺しラニスタキラー】という通り名までつき始めていると……。

「でも、やるかやらないかは、当然君が決めていい」

 助命は確実ではないし、これは君の方に負けてくれと僕が頼んでいるようなものだ──リスクを負うのはティルスばかりだから、とロシャナクは顔を歪めた。

「──やろう、ロシャナク!」
 意気揚々と「当たり前じゃねーか、可能性があるなら」と耳打ちすると、ロシャナクは意外だったのか、「えっ」と感嘆の声を漏らし、驚いた表情をのぞかせた。ティルスがもう一度「やる」と言いながら力強く頷くと、ロシャナクの瞳にも光が宿っていく。

「……分かった」

 “生き残ろう”
 
 互いに握り合う手は熱く。語らいは深夜にまで及び。
 ──交わした約束に、希望を込めて。
 訪れた夜明けに、二人は目を細めるのだった。

◆◆◆◆◆◆

 試合当日まで残り一週間を切ってからというもの、ティルスは自室で夜を明かしたり、テンプルの部屋で寝泊まりしたり、を交互に繰り返した。自室で過ごす際は、ロシャナクとの綿密な打ち合わせを。テンプルの部屋で過ごす夜は、テンプルと話した後に、石壁の向こうのアレリアにも声をかける。彼女との会話が弾むことはなかったが、他愛もない挨拶や会話には、少しずつ応じてくれるようになった。

 早く過ぎ去って欲しいような、それとも、時間が止まってほしいような。
 ──尊い日々は、瞬く間に過ぎ。

 闘技大会前日、七月三十日の夜。ティルスの姿は、テンプルの部屋に在った。

「俺、明日の集団戦グレガーティム、がんばるよ」
 って言っても緊張するなぁ、今日は眠れそうにないよなぁ、とテンプルは大きく息を吸ったり吐いたりを繰り返した。

「ティルスも色々アドバイスしてくれたし、頑張るわ」

 それにしても、ティルスってマジで精鋭部隊だったんだなぁと、テンプルは一人感嘆するように呟いた。

(テンプルもアルクも、どうか生き残ってくれよ……!)

 テンプルにロシャナクとのやり取りを報告した後、もっぱら二人で話す内容は集団戦グレガーティムの話題であった。少しでも実践経験の乏しいテンプルの力になれれば……と、ティルスは戦場における立ち回りや、剣の扱い方など、兵士として自分が持ち得るすべての知識を、テンプルに教え込んだのだった。

「あのさ……」
 ふと、テンプルが腰かけていた寝床から立ち上がり身をかがめるや、寝床の下へと手を伸ばす。何か取り出すのだろうか、と静かに見守っていると、唐突に「やっぱやめたわ」と言の葉は宙を舞う。

「……集団戦グレガーティムから戻ったら話すよ」

 気になるが、本人がそう言うなら仕方がない。ティルスは「分かった」と頷いた。テンプルが覗かせた、少しだけ寂しいような、切ないような。彼らしからぬ表情が気にかかったけれど。

「──アレリアも、おやすみ」

「…………おやすみなさい」

(アレリアもどうか……)


 いざ、運命の決戦は明日──。


◆◆◆◆◆◆

 闘技場へと続く薄暗い通路の中。
 今日は奴隷服のままでもない。裸足姿でもない。
 数日前に無理やり試着させられた洋服へと着替えさせられる。
 手渡されるのはやはり、ティエーラ王国で扱い慣れていた剣とは違う、刃渡りの長い二本のグラディウス

(大丈夫、必ず成功させてやる)

 ティルスは大きく息を吸い込み、鉄柵の向こうへと目を向けた。
 石造りのアーチの先は、あの忌々しい狂気が渦巻く闘技場だ。

(やる、やってやる──!)

 ティルスは、足を踏み出した。

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