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第3章 立ち上がれ! 絶望に汚されても
4.還る場所をなくして
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気付けば紫色の薄闇の中を、雪を踏みしめて歩いていた。夕暮れなのか、はたまた暁なのかは分からない。
湿っぽい雪の匂いが懐かしい。
彼方に見えるは、美しい白化粧を施した山の頂。視界を遮る針葉樹は一本たりとも見当たらず、薄暗い空との近さに驚く。
ティルスは今、自分が森林限界をとうに超えた高さの雪山にいることを知った。
(…………)
どういう訳か、寒さは微塵も感じなかった。
この標高で、この季節としてはあり得ない。
雪の匂いこそするものの、鼻の奥が凍りつくような、ツンとした冬の空気が感じられないのだ。
(もしかしてオレ、死んだのか……?)
“天上界”──清らかなる体を持つ者が死後に導かれ、第二の生を得る場所。
(そうか、ここは母なる山!)
山頂に見覚えのある人影を認めて、ティルスは走り出した。
足は雪上だとは思えないほど軽やかに進み、ティルスの体はまるで飛んでいるかのようにぐんぐん前へと進んで行った。
「ゲルハルト隊長!! みんな!!」
嬉々とした声で呼びかけて、一斉に振り向いた彼らの顔に──背筋が凍った。
「え……?」
怒りとも失望ともとれる冷ややかな視線が、ティルスに注がれる。
固い表情のまま、ゲルハルト隊長が口を開いた。
「お前は、儂らより。会って一か月の奴の方が大事だったんだな」
「え…………?」
そう吐き捨てられて、ティルスは息が詰まった。
揺らぐ視線の中で、隊長の姿が、碧湖守備隊の仲間達の姿が遠ざかっていく。
違う! そうじゃない! 待ってくれ、オレは──
◆◆◆◆◆◆
「──はぁッ! はぁッ……!」
目を覚ますと、いつもの薄汚い石壁と鉄格子が視界に入った。
心臓が嫌な感じにどくどくと脈打つ。べったりとした汗が、額や首筋をつたって気持ち悪い。
「ゆ、夢……」
何かを叫んで目覚めた気がする。テンプルがいたら起こしてしまっていたかもしれない。
(そうだ、今日はアイツ)
テンプルは集団戦の打ち合わせのために、今夜は別の部屋で寝泊まりをしている。
思えば今日は、誰とも口をきかず早々に床へと潜ったのだった。
ティルスは上体を起こし、胸元にペンダントが在ることを右手でしっかりと確かめてから、ぎゅっと握った。
(……落ち着け、隊長がッ!)
──隊長が、あんなことを言うわけないじゃないか。
あれは自分の、心の不安が反映しただけだ。
きっと。きっと!
──懸命にそう、強く。己の心に強く言い聞かせても、胸の鼓動は治まるどころか、どんどん加速していった。
ティルスは深く息を吸った。胸が押し潰されそうに苦しい。
(もしかしたら、本当に)
ティルスは膝を抱えてうずくまった。
この夢は隊長の本心で。
隊長はロシャナクを殺せと──
「だ、大丈夫……? ですか……?」
「ぬわぁッ!?」
思わず奇声を上げてしまったが、この声は。
「ア、アレリア?」
「お、驚かせてごめんなさい。その……」
貴方が父の名を苦しそうに叫んでいたので、と壁の向こうで控えめな声が続けた。
「!! ごめん! 隊長の……夢を、見ていた……みたいだ」
夢の内容は明かさずに「こちらこそ驚かせてごめん」と伝えると、アレリアは静かに「ううん、大丈夫」とささやいた。なんとなく、壁越しにでもアレリアが寄り添ってくれている気がして、ティルスは次第に落ち着きを取り戻していった。
「……アレリア、も、戻ってきたんだな……」
ティルスは石壁に向かって、静かに問いかけた。
「あの、はい。今日の夕方に……」
「ど、どこ行ってたんだ? ラケルドに嫌なことされなかったか?」
そう口にしてから、答えにくい質問をしてしまったとティルスは独り顔をしかめた。
しかし意外にも、壁の向こうのアレリアはすぐに返答してくれた。
「……闘技大会の宣伝のために、帝都から少し離れた街をまわっていたの」
「そう……だったのか……」
「対戦相手の男の人が、親切で……」
「?」
「その人があたしのことを常に気にかけてくれたから……」
──ラケルド様に嫌なことはされなかった、と可憐な声が囁いた。
(よ、よかった……)
ティルスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「そうか……。た、対戦相手って?」
「………………………」
しばし沈黙が訪れる。
やがて壁越しにでも、アレリアがすすり泣いていることが分かった。
やはり何か嫌なことが──嫌な思いでもしたのだろうか。
(クソッ! こういう時なんて言えば……)
「あたし、二週間後の大会に出場するんだけど、あたしはこの男の人を、ころ、殺さなきゃいけないから……」
「!!」
聞けば、アレリアとその対戦相手──別の養成所の剣奴は、【ティエーラ属州完全平定記念大会】における一番の目玉勝負として、大々的に取り上げられているらしい。大会の周知のために、アレリア、対戦相手、ラケルド、その他大会運営に関わる何人かで地方都市を巡回し、『注目の二人』はたどり着いた先々で民衆に向かって手を振ったり、貴族達の前で模擬戦のようなものを披露したりした、とのことだ。行動を共にすることが多かった対戦相手の男性が、どうやら実直で、親切な人柄だったようである。
ティルスはただ茫然と、アレリアのか細い声に耳を傾けるしかなかった。
自分に良くしてくれた相手を殺さなければいけない悲しみは、今なら痛いほど分かる。
けれども自分は、その“痛み”に対する答えを、未だ持ち合わせてはいない。
故に、アレリアにかける言葉が見つからなかった。
「……で、でも、頑張らなきゃ、いけ、ないよね……」
「え?」
ティルスの返答を待たず、アレリアは泣きながら言葉を紡いだ。
「だって、そうじゃないと──今まであたしが命を奪ってしまった人や、あたしのために命を投げ出した人に、申し訳が……たっ……でも……」
でも、でも、と悲痛な声が、石壁を伝ってティルスの心を締め付けた。
今まで命を奪ってしまった人、という言葉が、心に重くのしかかる。
(…………)
ティルスは、いつかの夜にテンプルが“棘姫”について話していた内容を思い出した。
『あの子は闘技場で何人も殺してるし強いからな』
(…………)
そういえば、アレリアはいつからこの養成所に囚われているのだろう。ティエーラ王国の首都陥落時に奴隷となっていれば、約一年半前から剣奴になっている計算だ。
「……なぁアレリア」
こんなこと訊いてもよいのだろうかと思いつつ、ティルスは口ごもりながら尋ねた。
「アレリア、お、お前って、何回、勝った?」
「……はち、回」
八回。
確かロシャナクが言っていた。十回ぐらい勝利を収めれば、“解放される”と。
それなら、あと二回勝てば、奴隷身分解放じゃないか──と少しだけ心が湧きたったところで、無情にもアレリアが続けた言葉に、高揚した気持ちは泡と化した。
「ラケルド……様の、お父様、ボントゥス……様に、十五回勝利を収めたらティエーラ王国への帰還を。『お父さんのところに君を返してあげる』って言われていたけれど……」
ここまで一息に言葉を紡いでから、アレリアはわぁっと声を上げて泣き出した。
「でもっ……っもうっあたしには、帰る場所も、お父さんもっ──……そもそも、こんな罪を重ねた身で、死んだって帰る場所はっ……っ……」
──自分は、お父さんと同じ場所には逝けない。
「──ッ!!」
嗚咽に、胸が締め付けられる。
壁越しに伝ってくる深い悲しみと絶望に、ティルスは完全にかける言葉を失った。
と同時に、強い後悔の念が体中を駆け巡る。
自分がもたらした情報は、彼女にとっては絶望でしかなかったこと。
そして。
養成所のこともろくに知りもせず。アレリアの事情も聴かないうちに。
ましてや今、己の命など投げ出してしまおうかと自問自答している分際で!
(どうして……)
どうして自分は、彼女と初めて会った日に『頑張ろう』なんて、無責任な言葉をかけたんだ──。
『騒がしいな? なんかあったのか?』
(──ッ!? ラケルド!? クソッ!!)
ティルスはあわてて、ぼろ布にくるまり全身を隠した。勝手に部屋を移動している上に、アレリアと接触している。このことを咎められるのが自分だけならよいが、ラケルドの気に障り、アレリアにまで危害が及んでしまったら最悪だ。
近づく足音。おそらく天井の鉄格子から、ラケルドが自分を見下ろしている。
(…………ッ)
早くどっかへ行け。ティルスは息を殺して、厄災が過ぎ去るのを待った。
『なんだ、“お姫様”が泣いてるだけか』
監視兵らしき男達とそう笑い合いながら、ラケルドの耳障りな声と足音は遠ざかって行った。
(危なかった……)
ティルスは静かに身を起こすと、再び小さな声で石壁に向かって話しかけた。
「アレリア……何も、言えなくて、してやれなくて、ごめん」
「…………っ、っ」
「おやすみ……アレリア」
「…………」
何の慰めにもならない、陳腐な言葉しか出てこない自分を浅ましく思う。
──当然ながら、彼女の返事はなかった。
鉄格子から漏れる松明の灯りが消えた頃。
せめてもの想いで石壁に寄り添い、アレリアのすすり泣きが止むのを待ってから。
ティルスはまぶたを閉じた。
◆◆◆◆◆◆
当然、眠りにつけるわけはなく。
ティルスは茫然と、寝床の上で膝を抱えていた。
( “頑張らなきゃいけない”か……)
アレリアの気持ちは揺れていたし、泣いてこそいたが、彼女はある種の覚悟を決めているのだ、とティルスは感じ取っていた。アレリアは、たとえどんな形であれ、自分が奪ってしまった命に対する責任を強く感じ、重く受け止めている。詳細は分からなかったが、おそらく彼女はその事実や想いに何かしら報いるために、──今回の大会でも対戦相手を殺すのだろう。繊細な心を、痛めながらも。
(…………なんで、だろうな)
涙が頬をつたう。
こんな話を聴いたら、自分も頑張ろう、やるしかないと。
思わなければいけないのに。どうして。どうして。
漆黒の闇の中、ティルスは両手でペンダントを握った。
ティエーラ王国を追われ、剣奴になってからの、怒涛の日々を思い返す。
(ああ、そうだ。オレが死んだら……)
ペンダントを託してくれたゲルハルト隊長の想いも。
アレリアが必死にラケルドに抵抗した勇気も。
すべて無駄になるんだ。
そう思うと、胸にぽっかりと穴があいたような、虚しい気持ちが広がる。
報いなきゃいけない、と思う。
託されたのなら。
託されたのだからこそ。
(でも……)
それは。
その想いを持ってして、“ロシャナクを殺していい”と断じられるものなのだろうか。
その想いは、ロシャナクの命を奪うに値することなのだろうか。
「…………」
(その想いは……)
絶望の淵にいた自分に、一時の生きる力を与えてくれた友人を殺してまで、守り抜くべきものなのだろうか?
ロシャナクを殺したら、今度はその決意にも報いなければならない。
──そう、今のアレリアのように。
じゃあ次は誰を殺す? アルクと当たったら? テンプルと当たったら?
よく知らない剣奴だったらマシなのか?
そうやって血塗れた先で。
自分は。自分は、何者になれる?
心の中で自問自答を繰り返した後、ティルスは先ほど見た夢──雪山での隊長の姿を、もう一度思い出した。
(もしかしたら、あの夢は……)
隊長に唯一の心残りがあるとすれば。
それは自分のことではなく。
「…………ッ」
ティルスは両手で顔を覆った。
声を押し殺して、咽び泣く。
(ああ、きっとそうだ)
心の奥と向き合った結果、ある一つの“解”が、ティルスの心に浮かび始めていた。
「…………」
ティルスは石壁にもたれかかった。
壁の向こうの、アレリアを想う。
初めて会った日の、闘技場での出来事を思い返す。
ラケルドに触れられ、動けず涙を流すだけだった彼女を。
(アレリア…………)
考えたくはなかったが、もしかしたら彼女は日常的に、あのような暴力を受けているのではないだろうか? 男の自分でさえ、奴隷に身をやつしてからというもの、身体に危害を加えられる機会は決して少なくなかった。女性であれば尚更、それが性的な内容に及ぶことは、想像に難くなかった。
(そうだよな、アレリアはきっと、一人で立ち向かうのは……)
難しいだろうな、とティルスはぎゅっと目をつむった。彼女の受けてきたであろう傷や痛みを思うと、胸が張り裂けそうになる。
(ごめんな、アレリア。“オレ”がずっと側で守ってやれれば)
でも、それは──。
たった今、自分が決めた道では叶わなくて。
(……隊長、アレリア、ごめん……)
ああ、こんな結末を。こんな結果を選んだ自分を。
隊長はなんて思うだろう。
分からない、分からないけれど。
ただ、どうしても。
ロシャナクを殺して、天上界で「よくやった」と言ってもらえる光景も。
この額を、温かな手で撫でてもらえる自信も。
ティルスは思い描くことができなかった。
「…………………」
それでも。
──だから、せめて。
◆◆◆◆◆◆
この夜、ティルスはついに解を得た。
真剣な眼差しを湛えたテンプルが、本題に切り込んできたのは、二日後の夜だった。
湿っぽい雪の匂いが懐かしい。
彼方に見えるは、美しい白化粧を施した山の頂。視界を遮る針葉樹は一本たりとも見当たらず、薄暗い空との近さに驚く。
ティルスは今、自分が森林限界をとうに超えた高さの雪山にいることを知った。
(…………)
どういう訳か、寒さは微塵も感じなかった。
この標高で、この季節としてはあり得ない。
雪の匂いこそするものの、鼻の奥が凍りつくような、ツンとした冬の空気が感じられないのだ。
(もしかしてオレ、死んだのか……?)
“天上界”──清らかなる体を持つ者が死後に導かれ、第二の生を得る場所。
(そうか、ここは母なる山!)
山頂に見覚えのある人影を認めて、ティルスは走り出した。
足は雪上だとは思えないほど軽やかに進み、ティルスの体はまるで飛んでいるかのようにぐんぐん前へと進んで行った。
「ゲルハルト隊長!! みんな!!」
嬉々とした声で呼びかけて、一斉に振り向いた彼らの顔に──背筋が凍った。
「え……?」
怒りとも失望ともとれる冷ややかな視線が、ティルスに注がれる。
固い表情のまま、ゲルハルト隊長が口を開いた。
「お前は、儂らより。会って一か月の奴の方が大事だったんだな」
「え…………?」
そう吐き捨てられて、ティルスは息が詰まった。
揺らぐ視線の中で、隊長の姿が、碧湖守備隊の仲間達の姿が遠ざかっていく。
違う! そうじゃない! 待ってくれ、オレは──
◆◆◆◆◆◆
「──はぁッ! はぁッ……!」
目を覚ますと、いつもの薄汚い石壁と鉄格子が視界に入った。
心臓が嫌な感じにどくどくと脈打つ。べったりとした汗が、額や首筋をつたって気持ち悪い。
「ゆ、夢……」
何かを叫んで目覚めた気がする。テンプルがいたら起こしてしまっていたかもしれない。
(そうだ、今日はアイツ)
テンプルは集団戦の打ち合わせのために、今夜は別の部屋で寝泊まりをしている。
思えば今日は、誰とも口をきかず早々に床へと潜ったのだった。
ティルスは上体を起こし、胸元にペンダントが在ることを右手でしっかりと確かめてから、ぎゅっと握った。
(……落ち着け、隊長がッ!)
──隊長が、あんなことを言うわけないじゃないか。
あれは自分の、心の不安が反映しただけだ。
きっと。きっと!
──懸命にそう、強く。己の心に強く言い聞かせても、胸の鼓動は治まるどころか、どんどん加速していった。
ティルスは深く息を吸った。胸が押し潰されそうに苦しい。
(もしかしたら、本当に)
ティルスは膝を抱えてうずくまった。
この夢は隊長の本心で。
隊長はロシャナクを殺せと──
「だ、大丈夫……? ですか……?」
「ぬわぁッ!?」
思わず奇声を上げてしまったが、この声は。
「ア、アレリア?」
「お、驚かせてごめんなさい。その……」
貴方が父の名を苦しそうに叫んでいたので、と壁の向こうで控えめな声が続けた。
「!! ごめん! 隊長の……夢を、見ていた……みたいだ」
夢の内容は明かさずに「こちらこそ驚かせてごめん」と伝えると、アレリアは静かに「ううん、大丈夫」とささやいた。なんとなく、壁越しにでもアレリアが寄り添ってくれている気がして、ティルスは次第に落ち着きを取り戻していった。
「……アレリア、も、戻ってきたんだな……」
ティルスは石壁に向かって、静かに問いかけた。
「あの、はい。今日の夕方に……」
「ど、どこ行ってたんだ? ラケルドに嫌なことされなかったか?」
そう口にしてから、答えにくい質問をしてしまったとティルスは独り顔をしかめた。
しかし意外にも、壁の向こうのアレリアはすぐに返答してくれた。
「……闘技大会の宣伝のために、帝都から少し離れた街をまわっていたの」
「そう……だったのか……」
「対戦相手の男の人が、親切で……」
「?」
「その人があたしのことを常に気にかけてくれたから……」
──ラケルド様に嫌なことはされなかった、と可憐な声が囁いた。
(よ、よかった……)
ティルスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「そうか……。た、対戦相手って?」
「………………………」
しばし沈黙が訪れる。
やがて壁越しにでも、アレリアがすすり泣いていることが分かった。
やはり何か嫌なことが──嫌な思いでもしたのだろうか。
(クソッ! こういう時なんて言えば……)
「あたし、二週間後の大会に出場するんだけど、あたしはこの男の人を、ころ、殺さなきゃいけないから……」
「!!」
聞けば、アレリアとその対戦相手──別の養成所の剣奴は、【ティエーラ属州完全平定記念大会】における一番の目玉勝負として、大々的に取り上げられているらしい。大会の周知のために、アレリア、対戦相手、ラケルド、その他大会運営に関わる何人かで地方都市を巡回し、『注目の二人』はたどり着いた先々で民衆に向かって手を振ったり、貴族達の前で模擬戦のようなものを披露したりした、とのことだ。行動を共にすることが多かった対戦相手の男性が、どうやら実直で、親切な人柄だったようである。
ティルスはただ茫然と、アレリアのか細い声に耳を傾けるしかなかった。
自分に良くしてくれた相手を殺さなければいけない悲しみは、今なら痛いほど分かる。
けれども自分は、その“痛み”に対する答えを、未だ持ち合わせてはいない。
故に、アレリアにかける言葉が見つからなかった。
「……で、でも、頑張らなきゃ、いけ、ないよね……」
「え?」
ティルスの返答を待たず、アレリアは泣きながら言葉を紡いだ。
「だって、そうじゃないと──今まであたしが命を奪ってしまった人や、あたしのために命を投げ出した人に、申し訳が……たっ……でも……」
でも、でも、と悲痛な声が、石壁を伝ってティルスの心を締め付けた。
今まで命を奪ってしまった人、という言葉が、心に重くのしかかる。
(…………)
ティルスは、いつかの夜にテンプルが“棘姫”について話していた内容を思い出した。
『あの子は闘技場で何人も殺してるし強いからな』
(…………)
そういえば、アレリアはいつからこの養成所に囚われているのだろう。ティエーラ王国の首都陥落時に奴隷となっていれば、約一年半前から剣奴になっている計算だ。
「……なぁアレリア」
こんなこと訊いてもよいのだろうかと思いつつ、ティルスは口ごもりながら尋ねた。
「アレリア、お、お前って、何回、勝った?」
「……はち、回」
八回。
確かロシャナクが言っていた。十回ぐらい勝利を収めれば、“解放される”と。
それなら、あと二回勝てば、奴隷身分解放じゃないか──と少しだけ心が湧きたったところで、無情にもアレリアが続けた言葉に、高揚した気持ちは泡と化した。
「ラケルド……様の、お父様、ボントゥス……様に、十五回勝利を収めたらティエーラ王国への帰還を。『お父さんのところに君を返してあげる』って言われていたけれど……」
ここまで一息に言葉を紡いでから、アレリアはわぁっと声を上げて泣き出した。
「でもっ……っもうっあたしには、帰る場所も、お父さんもっ──……そもそも、こんな罪を重ねた身で、死んだって帰る場所はっ……っ……」
──自分は、お父さんと同じ場所には逝けない。
「──ッ!!」
嗚咽に、胸が締め付けられる。
壁越しに伝ってくる深い悲しみと絶望に、ティルスは完全にかける言葉を失った。
と同時に、強い後悔の念が体中を駆け巡る。
自分がもたらした情報は、彼女にとっては絶望でしかなかったこと。
そして。
養成所のこともろくに知りもせず。アレリアの事情も聴かないうちに。
ましてや今、己の命など投げ出してしまおうかと自問自答している分際で!
(どうして……)
どうして自分は、彼女と初めて会った日に『頑張ろう』なんて、無責任な言葉をかけたんだ──。
『騒がしいな? なんかあったのか?』
(──ッ!? ラケルド!? クソッ!!)
ティルスはあわてて、ぼろ布にくるまり全身を隠した。勝手に部屋を移動している上に、アレリアと接触している。このことを咎められるのが自分だけならよいが、ラケルドの気に障り、アレリアにまで危害が及んでしまったら最悪だ。
近づく足音。おそらく天井の鉄格子から、ラケルドが自分を見下ろしている。
(…………ッ)
早くどっかへ行け。ティルスは息を殺して、厄災が過ぎ去るのを待った。
『なんだ、“お姫様”が泣いてるだけか』
監視兵らしき男達とそう笑い合いながら、ラケルドの耳障りな声と足音は遠ざかって行った。
(危なかった……)
ティルスは静かに身を起こすと、再び小さな声で石壁に向かって話しかけた。
「アレリア……何も、言えなくて、してやれなくて、ごめん」
「…………っ、っ」
「おやすみ……アレリア」
「…………」
何の慰めにもならない、陳腐な言葉しか出てこない自分を浅ましく思う。
──当然ながら、彼女の返事はなかった。
鉄格子から漏れる松明の灯りが消えた頃。
せめてもの想いで石壁に寄り添い、アレリアのすすり泣きが止むのを待ってから。
ティルスはまぶたを閉じた。
◆◆◆◆◆◆
当然、眠りにつけるわけはなく。
ティルスは茫然と、寝床の上で膝を抱えていた。
( “頑張らなきゃいけない”か……)
アレリアの気持ちは揺れていたし、泣いてこそいたが、彼女はある種の覚悟を決めているのだ、とティルスは感じ取っていた。アレリアは、たとえどんな形であれ、自分が奪ってしまった命に対する責任を強く感じ、重く受け止めている。詳細は分からなかったが、おそらく彼女はその事実や想いに何かしら報いるために、──今回の大会でも対戦相手を殺すのだろう。繊細な心を、痛めながらも。
(…………なんで、だろうな)
涙が頬をつたう。
こんな話を聴いたら、自分も頑張ろう、やるしかないと。
思わなければいけないのに。どうして。どうして。
漆黒の闇の中、ティルスは両手でペンダントを握った。
ティエーラ王国を追われ、剣奴になってからの、怒涛の日々を思い返す。
(ああ、そうだ。オレが死んだら……)
ペンダントを託してくれたゲルハルト隊長の想いも。
アレリアが必死にラケルドに抵抗した勇気も。
すべて無駄になるんだ。
そう思うと、胸にぽっかりと穴があいたような、虚しい気持ちが広がる。
報いなきゃいけない、と思う。
託されたのなら。
託されたのだからこそ。
(でも……)
それは。
その想いを持ってして、“ロシャナクを殺していい”と断じられるものなのだろうか。
その想いは、ロシャナクの命を奪うに値することなのだろうか。
「…………」
(その想いは……)
絶望の淵にいた自分に、一時の生きる力を与えてくれた友人を殺してまで、守り抜くべきものなのだろうか?
ロシャナクを殺したら、今度はその決意にも報いなければならない。
──そう、今のアレリアのように。
じゃあ次は誰を殺す? アルクと当たったら? テンプルと当たったら?
よく知らない剣奴だったらマシなのか?
そうやって血塗れた先で。
自分は。自分は、何者になれる?
心の中で自問自答を繰り返した後、ティルスは先ほど見た夢──雪山での隊長の姿を、もう一度思い出した。
(もしかしたら、あの夢は……)
隊長に唯一の心残りがあるとすれば。
それは自分のことではなく。
「…………ッ」
ティルスは両手で顔を覆った。
声を押し殺して、咽び泣く。
(ああ、きっとそうだ)
心の奥と向き合った結果、ある一つの“解”が、ティルスの心に浮かび始めていた。
「…………」
ティルスは石壁にもたれかかった。
壁の向こうの、アレリアを想う。
初めて会った日の、闘技場での出来事を思い返す。
ラケルドに触れられ、動けず涙を流すだけだった彼女を。
(アレリア…………)
考えたくはなかったが、もしかしたら彼女は日常的に、あのような暴力を受けているのではないだろうか? 男の自分でさえ、奴隷に身をやつしてからというもの、身体に危害を加えられる機会は決して少なくなかった。女性であれば尚更、それが性的な内容に及ぶことは、想像に難くなかった。
(そうだよな、アレリアはきっと、一人で立ち向かうのは……)
難しいだろうな、とティルスはぎゅっと目をつむった。彼女の受けてきたであろう傷や痛みを思うと、胸が張り裂けそうになる。
(ごめんな、アレリア。“オレ”がずっと側で守ってやれれば)
でも、それは──。
たった今、自分が決めた道では叶わなくて。
(……隊長、アレリア、ごめん……)
ああ、こんな結末を。こんな結果を選んだ自分を。
隊長はなんて思うだろう。
分からない、分からないけれど。
ただ、どうしても。
ロシャナクを殺して、天上界で「よくやった」と言ってもらえる光景も。
この額を、温かな手で撫でてもらえる自信も。
ティルスは思い描くことができなかった。
「…………………」
それでも。
──だから、せめて。
◆◆◆◆◆◆
この夜、ティルスはついに解を得た。
真剣な眼差しを湛えたテンプルが、本題に切り込んできたのは、二日後の夜だった。
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