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第1章 生きながらえの果てに
4.パンとサーカス◆
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『お待たせしました! どんどんいきましょう! 次の挑戦者は、ティエーラ属州から届いたばかりの活きのイイ戦争捕虜だァ~! 果たして、彼の刃は棘姫に届くのか!? それとも……』
場内に轟くのは、期待を込めた歓声か。はたまた盛大な野次か。ティルスは訳も分からぬまま、その渦中へと放り込まれた。
気が動転したままで、荷馬車に乗せられてからここへ来るまでの記憶が定まらない。いや、実際のところ、思案を巡らせる暇などなかったように思う。
養成所と呼ばれる建物からこの場所に至るまでが、あまりにも短すぎたからだ。
◆◆◆◆◆◆
ガランッと、無造作に投げつけられたのは──
二本の剣。
「ティエーラ人だし、お前も二刀流でいいだろ」
レグノヴァ人と思われる中年の男が、鞭を片手に嘲笑交じりに言い放つ。
言われるがまま、無我夢中で剣を手繰り寄せた。
(クソッ! 重い……!!)
確かに二刀流剣術はティエーラ王国特有の剣術だ。ティルスにとっても馴染み深いものであった。
しかし、ティエーラ人が扱うのはもっと小型の剣だ。与えられた剣は、使い慣れた得物より刃渡りが長く、故に重量もあった。
こんな長物を二本も振り回したのでは、すぐに体力を消耗し切ってしまうだろう。
(でも、なんとか戦わねえと!)
今、己の命を預けられる物は、二本の剣しかない!
ティルスは柄を強く握りしめた。
場内に色濃く漂う腐敗臭。そして砂地の至る箇所にしみ込んだ鮮血の跡。状況は飲みこめていないが、否応なしにでも分かること。
戦わなければ──目の前の少女に殺されるということだ。
ティルスと向かい合う少女──棘姫、と呼ばれた少女は、虚ろな瞳を湛えていた。覇気や殺気は感じとれない。
しかし、二本の剣を構える姿がやけに様になっている。佇まいにも隙が無く。そして何より、何とも言えない不気味な悲しさを纏っていた。
(油断すんな……たぶん強い)
ティルスは、棘姫がその可憐な姿とは裏腹に手練れの者であると踏んだ。見た目に惑わされてはいけない。
先んじて間合いを詰め始めたのは、棘姫の方だ。
じりじりと、棘姫との距離が狭まる。
お互いの顔つきが分かるほどになって、ティルスはハッとした。
(……この子“ティエーラ人 ”!?)
艶やかな黒髪に蒼色の瞳。ティエーラ王国では特段珍しくもない風貌。髪の色ははるか東方よりこの地にやってきた騎馬民族ティエーラ人の血を、青色系の瞳は山岳地帯に古くから居を構える【山の民】の血を引く者──だということが、外見から予測できた。
「ちょっと待て! お前……」
【碧湖守備隊】が守りたかった人々。同じ国の人かもしれない子を殺すなんてオレには──
思案は、突如振り下ろされた白刃によって強制的に打ち切られる。戦いの幕は切って落とされた。
「くッ……!」
ティルスは反射的に、右手に構えた長剣で棘姫の一撃を弾き返すと同時に、左手の剣を前方へ突き出した。疲労困憊の体でも対応できたのは、長年の剣稽古による動作が体に染みついていたからだ。
『おっ、初手から反撃するなんて、なかなか元気なヤツじゃねーか!』
『ははは! どこまで頑張れるかな、ティエーラ人~!!』
会場が下卑た笑いに満ち、突き出した剣は虚空を切る。
ティルスの攻撃は、難なく棘姫に躱された。
ティルスの言葉に、棘姫が動揺する素振りはまるで見られない。自分を攻撃する手にも、躊躇はまったく感じられなかった。──そもそも、“戦う相手のことを意識しているのかどうか”さえ感じ取れなかった。
棘姫が、すかさず間合いを詰める。彼女は間違いなく、ティルスを殺しにかかってきている。
(……話が通じる相手じゃなさそうだ)
ティルスは、抱いた雑念を振り払うようにかぶりを振った。
生き残るために、戦うしかない。たとえ彼女が、故国を同じくするティエーラ人だとしても!
◆◆◆◆◆◆
少しの間、お互いが決定打を繰り出せないままの打ち合いが続いた。
ティルスの予想通り、棘姫も二刀流剣術の使い手だった。腕は立つ。だが腕力はあまりないことに救われた。男に比べると攻撃が格段に軽い。同じ型のため攻撃の予測がしやすいことも相まって、次々と繰り出される棘姫の白刃を、ティルスは払いのけ続けることができた。
(でも油断できねぇ!!)
二刀流剣術に、この子なりのクセか、もしくは他の者から手ほどきを受けた経歴があるのだろうか。時々予測できない、独特の一撃が織り交ぜられている。
(ってか、早く決着つけねーと……)
攻撃を払いのけるのは容易いとはいえ、このまま長々と打ち合いを続けるわけにはいかない。
腕がすでにしびれている。息もあがってきた。おそらく彼女は待っているのだ。
ティルスの体力が消耗し切るのを。
ならばその前に、早く彼女を止めなければ。
「ッ!!」
横方向から予想外の剣さばき。水平に切り込まれそうになる既の所で、体をかがめて躱した。
(この程度なら問題ねぇ!)
疲れ切った体でも棘姫の動きに後れをとっていない。攻撃の仕方もおおよそ見切った。
ティルスは防戦から、攻撃に転じることにした。
素早く上体を起こすと同時に、渾身の斬撃を棘姫へ打ち込むのだ。
(よし! 行ける!)
その時だった。
グラリッと体が傾き、目前へ迫ったのは地面。
「あッ……!?」
ティルスは前のめりに倒れ込んだ。
(クソッ!!)
体を無我夢中で動かす。しかし、あがけばあがくほどに、立ち上がることができない。
起き上がらなければ。早く!
(ヤバイ! 脚に力が入らな……)
棘姫は絶好の機会を逃さなかった。
ティルスは己の背中めがけて、死の切っ先が迫りくることを感じ取った。
ああ、こんな所で。こんな形で。
苦い砂を噛みながら。
(──死ぬ…………)
「まだ殺すな!」
串刺しになる寸前で、ピタリと切っ先が止まったことが気配で分かった。
ほどなくして、棘姫が剣を引いたことも。
(……なんだ?)
ティルスはかろうじて体を起こした。すぐさま棘姫の所在と、声の主を確認する。
彼女の視線の先は、少し離れた所。闘技場の壁際、──紫色の髪をした少年に向けられていた。
「お前何度言ったら分かんだよ? “まだ”だろ。もう少し“弄んで”から殺せ!」
苛立ちを隠すことなく、少年は鞭で砂地を削る。
「…………申し訳ございません……ラケルド様」
初めて聞いた少女の声は、剣術とは正反対の、とても弱々しい蚊の鳴くような声だった。
怒号に体を震わせ、心なしか怯えているようにも見える。
(あいつの指示を受けて戦っているのか?)
この二人がどういう関係かは分からないが、棘姫が従順にならざるを得ない立場のようだ。
「──それと。次はもう少し“本気”を出してやれ」
“ラケルド様”と呼ばれた少年の指示に、こくり、と棘姫は頷いた。
棘姫の瞳に、暗い色が宿る。
彼女の踏み込みで、死闘が再び幕を開ける。刃と刃が火花を散らす。
「──ッ!?」
間合いを詰められると同時に振り下ろされた一太刀を受け止めた右腕が、じん、としびれた。
重い。先程とは段違いの力に瞠目せざるを得ない。なんだこれは。
考える間もなく、斬撃の雨に襲われる。防ぐことが精一杯なほどの。
(クソ! 速い!!)
ティルスは悟った。斬撃を躱せていたのではない。棘姫はまったく本気を出していなかった。疲労困憊の体でも余裕だと、一瞬でも思い上がったことが恥ずかしい。体力の消耗を待つどころか、“遊ばれて”いたのだと。
「ぐはッ………!?」
腹に渾身の蹴りを入れられる。ティルスの体は勢いよく後方へと転がった。そのまま激しく壁に背中を打ち付ける。攻撃は見事に、急所であるみぞおちを捉えていた。
「かはッ………」
息が詰まる。苦しい。全身に激痛が走る。
(体が動かない……)
ティルスはその場でうずくまった。先程の転倒と同様に、体に力が入らない。
早く立ち上がらなければと思うほどに、視界は揺らいだ。額に脂汗がにじむ。
──限界だった。
食事も満足に食べておらず、常に鎖に繋がれたままの体は、とうに悲鳴をあげていたのだ。
『カッコわり~早く起き上がれよ~』
『あ~、かわいそうだけどここまでかぁ』
『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』
『チッ! もうちょっと楽しめると思ったのに、弱ぇ奴! つまんね~』
頭上に降り注ぐのは、幾重もの悪意―嘲笑。
体は鈍りのように重いくせに、会場に満ちる嘲り声や罵詈雑言は、何故か一言一句聞き取れた。
それはさざ波のように、グワングワンとティルスの頭に響いた……。
「ッ……」
かろうじて上体を起こしたところで、喉元に突きつけられるは剣。生殺与奪の権は、棘姫に。
──否。棘姫の視線の先、ラケルドに握られている。
「……フンッ」
ラケルドは反応を探るかのように、ぐるりと観客達を見回した。
闘技場内は、異様な高揚感に満ちていた。これから始まる殺戮ショーに心躍る者達の、血に飢えた叫びと熱気だった。彼らの熱狂を確かめた後、ラケルドは感心したように言い放った。
「 “属州総督サマ ”がくれたゴミ同然の玩具にしては、意外と盛り上がったな」
(え……?)
ティルスの脳裏に、忘れもしないあの日、あの瞬間が蘇る。
紫色の凍てついた瞳に見下されながら、確か同じようなことを言われなかったか。
『──玩具はキミだけだな』
「──アレリア、もういい。いつものように殺せ」
(そうか、オレは玩具か)
自分ただ一人が生き残った理由。その生の意義が。
きっと何か、とても大切な意味があるのだと思っていた。
(でも……)
そんなものなど、おそらくなかったのだ。
いや、あるとすれば。
自分は笑いながら殺されるために、こんな場所まで連れてこられて、わざわざ生かされたのだ──。
滑稽な奴隷、戦争捕虜として。
悲しくても、苦しくても、どんなに辛くても、汗水流して耐え忍んで、今日なんとかここまで生きながらえた、その果てがこれか。
その瞬間、これまで張り詰めていた心のすべてが、プツリと切れる音がした。
みぞおちの痛みが引いていくと同時に、全身から力が抜けるような感覚に陥る。
(ああ、疲れたなぁ……)
ティルスは握りしめていた剣を、静かに離した。
手放してしまえば、なんて軽いことだろう。
もっと早くこうしていれば良かったのかな、という感情さえ湧き上がってくる。
──こんな狂った国に勝てるワケがない。
ティルスは胸元のペンダントをそっと取り出した。
(ゲルハルト隊長ごめんなさい。碧湖守備隊の皆、ごめん)
帝国に一矢報いることさえできなかった。
何も成せなかった。誰も助けられなかった。
ティルスは瞳を閉じた。涙が幾重にも流れ落ちる。無念だ。
(そうだ、オレも早く、皆のところへ逝こう)
清らかなる体を持つ者は死後、母なる山の頂にある天上界へと召され、第二の生を得るのだという。山の民に伝わる古き神々の伝承に影響を受けた、ティエーラ人の多くが信ずる世界観だ。ティルスは、まもなく自分もその場所へと赴き、皆と再会できることを思えば、死の瞬間の恐怖など取るに足らないことのように感じた。レグノヴァ帝国の侵攻を受けて王都が陥落してから約一年半、苦しい思いばかりだった。でも、これでやっと。そうだ、やっと。
(楽になれる、か……)
なかなか振り下ろされない刃に、業を煮やしてティルスは言った。
「……もういい。早く、トドメ、させよ」
「………………………」
長い沈黙。棘姫は瞳を丸くし、ティルスを凝視していた。
(…………?)
「おい! アレリア! さっさとそいつを殺せ!」
同じく業を煮やしたラケルドが、鞭をしならせながら棘姫に詰め寄る。
「ラ、ラケルド様……で、できません!」
「は?」
予想外の一言に、感傷的になっていた心が瞬時に現実へと引き戻される。
(な、なに言ってるんだこいつ──!?)
「早く殺せ!」
「で、できませ……うっ」
ラケルドは鞭で棘姫を痛めつけ始めた。
棘姫はただ体を小さくして、その痛みにひたすら耐えている。
自分にトドメを刺さないせいで、少女が痛い目に遭っている。
(なんで? 何がどうなってんだ……?)
ラケルドが鞭ではなく、拳を振り上げる。
今度は棘姫を殴りつけるのだろうか、と思ったところで、ティルスは信じがたい行為を目にした。
「い、いやッ……!」
あろうことか、ラケルドが棘姫の乳房を鷲掴みにしたのである。
「このクソが! 従わねぇなら、前居たところに戻すぞ!」
「っ……や、やめて……」
耐え切れず嗚咽し始める棘姫。ラケルドはまるで愉しむように、下卑た笑いを浮かべた。
その瞬間、ティルスの全身に強い強い虫唾が走った。
そして考えるよりも先に、体が動いた。
この少女を助ける義理なんてない。それでも!
起き上がることもできずにいた身体は、自分でも驚くほど俊敏に怒りの対象へと向かっていった。
「やめろ!! 嫌がってるだろ!!」
「なんだテメー……ゴフッ!?」
怒りと勢いに任せて、ティルスは握りしめた拳を
──ラケルドの顔面めがけてぶち込んだ。
場内に轟くのは、期待を込めた歓声か。はたまた盛大な野次か。ティルスは訳も分からぬまま、その渦中へと放り込まれた。
気が動転したままで、荷馬車に乗せられてからここへ来るまでの記憶が定まらない。いや、実際のところ、思案を巡らせる暇などなかったように思う。
養成所と呼ばれる建物からこの場所に至るまでが、あまりにも短すぎたからだ。
◆◆◆◆◆◆
ガランッと、無造作に投げつけられたのは──
二本の剣。
「ティエーラ人だし、お前も二刀流でいいだろ」
レグノヴァ人と思われる中年の男が、鞭を片手に嘲笑交じりに言い放つ。
言われるがまま、無我夢中で剣を手繰り寄せた。
(クソッ! 重い……!!)
確かに二刀流剣術はティエーラ王国特有の剣術だ。ティルスにとっても馴染み深いものであった。
しかし、ティエーラ人が扱うのはもっと小型の剣だ。与えられた剣は、使い慣れた得物より刃渡りが長く、故に重量もあった。
こんな長物を二本も振り回したのでは、すぐに体力を消耗し切ってしまうだろう。
(でも、なんとか戦わねえと!)
今、己の命を預けられる物は、二本の剣しかない!
ティルスは柄を強く握りしめた。
場内に色濃く漂う腐敗臭。そして砂地の至る箇所にしみ込んだ鮮血の跡。状況は飲みこめていないが、否応なしにでも分かること。
戦わなければ──目の前の少女に殺されるということだ。
ティルスと向かい合う少女──棘姫、と呼ばれた少女は、虚ろな瞳を湛えていた。覇気や殺気は感じとれない。
しかし、二本の剣を構える姿がやけに様になっている。佇まいにも隙が無く。そして何より、何とも言えない不気味な悲しさを纏っていた。
(油断すんな……たぶん強い)
ティルスは、棘姫がその可憐な姿とは裏腹に手練れの者であると踏んだ。見た目に惑わされてはいけない。
先んじて間合いを詰め始めたのは、棘姫の方だ。
じりじりと、棘姫との距離が狭まる。
お互いの顔つきが分かるほどになって、ティルスはハッとした。
(……この子“ティエーラ人 ”!?)
艶やかな黒髪に蒼色の瞳。ティエーラ王国では特段珍しくもない風貌。髪の色ははるか東方よりこの地にやってきた騎馬民族ティエーラ人の血を、青色系の瞳は山岳地帯に古くから居を構える【山の民】の血を引く者──だということが、外見から予測できた。
「ちょっと待て! お前……」
【碧湖守備隊】が守りたかった人々。同じ国の人かもしれない子を殺すなんてオレには──
思案は、突如振り下ろされた白刃によって強制的に打ち切られる。戦いの幕は切って落とされた。
「くッ……!」
ティルスは反射的に、右手に構えた長剣で棘姫の一撃を弾き返すと同時に、左手の剣を前方へ突き出した。疲労困憊の体でも対応できたのは、長年の剣稽古による動作が体に染みついていたからだ。
『おっ、初手から反撃するなんて、なかなか元気なヤツじゃねーか!』
『ははは! どこまで頑張れるかな、ティエーラ人~!!』
会場が下卑た笑いに満ち、突き出した剣は虚空を切る。
ティルスの攻撃は、難なく棘姫に躱された。
ティルスの言葉に、棘姫が動揺する素振りはまるで見られない。自分を攻撃する手にも、躊躇はまったく感じられなかった。──そもそも、“戦う相手のことを意識しているのかどうか”さえ感じ取れなかった。
棘姫が、すかさず間合いを詰める。彼女は間違いなく、ティルスを殺しにかかってきている。
(……話が通じる相手じゃなさそうだ)
ティルスは、抱いた雑念を振り払うようにかぶりを振った。
生き残るために、戦うしかない。たとえ彼女が、故国を同じくするティエーラ人だとしても!
◆◆◆◆◆◆
少しの間、お互いが決定打を繰り出せないままの打ち合いが続いた。
ティルスの予想通り、棘姫も二刀流剣術の使い手だった。腕は立つ。だが腕力はあまりないことに救われた。男に比べると攻撃が格段に軽い。同じ型のため攻撃の予測がしやすいことも相まって、次々と繰り出される棘姫の白刃を、ティルスは払いのけ続けることができた。
(でも油断できねぇ!!)
二刀流剣術に、この子なりのクセか、もしくは他の者から手ほどきを受けた経歴があるのだろうか。時々予測できない、独特の一撃が織り交ぜられている。
(ってか、早く決着つけねーと……)
攻撃を払いのけるのは容易いとはいえ、このまま長々と打ち合いを続けるわけにはいかない。
腕がすでにしびれている。息もあがってきた。おそらく彼女は待っているのだ。
ティルスの体力が消耗し切るのを。
ならばその前に、早く彼女を止めなければ。
「ッ!!」
横方向から予想外の剣さばき。水平に切り込まれそうになる既の所で、体をかがめて躱した。
(この程度なら問題ねぇ!)
疲れ切った体でも棘姫の動きに後れをとっていない。攻撃の仕方もおおよそ見切った。
ティルスは防戦から、攻撃に転じることにした。
素早く上体を起こすと同時に、渾身の斬撃を棘姫へ打ち込むのだ。
(よし! 行ける!)
その時だった。
グラリッと体が傾き、目前へ迫ったのは地面。
「あッ……!?」
ティルスは前のめりに倒れ込んだ。
(クソッ!!)
体を無我夢中で動かす。しかし、あがけばあがくほどに、立ち上がることができない。
起き上がらなければ。早く!
(ヤバイ! 脚に力が入らな……)
棘姫は絶好の機会を逃さなかった。
ティルスは己の背中めがけて、死の切っ先が迫りくることを感じ取った。
ああ、こんな所で。こんな形で。
苦い砂を噛みながら。
(──死ぬ…………)
「まだ殺すな!」
串刺しになる寸前で、ピタリと切っ先が止まったことが気配で分かった。
ほどなくして、棘姫が剣を引いたことも。
(……なんだ?)
ティルスはかろうじて体を起こした。すぐさま棘姫の所在と、声の主を確認する。
彼女の視線の先は、少し離れた所。闘技場の壁際、──紫色の髪をした少年に向けられていた。
「お前何度言ったら分かんだよ? “まだ”だろ。もう少し“弄んで”から殺せ!」
苛立ちを隠すことなく、少年は鞭で砂地を削る。
「…………申し訳ございません……ラケルド様」
初めて聞いた少女の声は、剣術とは正反対の、とても弱々しい蚊の鳴くような声だった。
怒号に体を震わせ、心なしか怯えているようにも見える。
(あいつの指示を受けて戦っているのか?)
この二人がどういう関係かは分からないが、棘姫が従順にならざるを得ない立場のようだ。
「──それと。次はもう少し“本気”を出してやれ」
“ラケルド様”と呼ばれた少年の指示に、こくり、と棘姫は頷いた。
棘姫の瞳に、暗い色が宿る。
彼女の踏み込みで、死闘が再び幕を開ける。刃と刃が火花を散らす。
「──ッ!?」
間合いを詰められると同時に振り下ろされた一太刀を受け止めた右腕が、じん、としびれた。
重い。先程とは段違いの力に瞠目せざるを得ない。なんだこれは。
考える間もなく、斬撃の雨に襲われる。防ぐことが精一杯なほどの。
(クソ! 速い!!)
ティルスは悟った。斬撃を躱せていたのではない。棘姫はまったく本気を出していなかった。疲労困憊の体でも余裕だと、一瞬でも思い上がったことが恥ずかしい。体力の消耗を待つどころか、“遊ばれて”いたのだと。
「ぐはッ………!?」
腹に渾身の蹴りを入れられる。ティルスの体は勢いよく後方へと転がった。そのまま激しく壁に背中を打ち付ける。攻撃は見事に、急所であるみぞおちを捉えていた。
「かはッ………」
息が詰まる。苦しい。全身に激痛が走る。
(体が動かない……)
ティルスはその場でうずくまった。先程の転倒と同様に、体に力が入らない。
早く立ち上がらなければと思うほどに、視界は揺らいだ。額に脂汗がにじむ。
──限界だった。
食事も満足に食べておらず、常に鎖に繋がれたままの体は、とうに悲鳴をあげていたのだ。
『カッコわり~早く起き上がれよ~』
『あ~、かわいそうだけどここまでかぁ』
『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』
『チッ! もうちょっと楽しめると思ったのに、弱ぇ奴! つまんね~』
頭上に降り注ぐのは、幾重もの悪意―嘲笑。
体は鈍りのように重いくせに、会場に満ちる嘲り声や罵詈雑言は、何故か一言一句聞き取れた。
それはさざ波のように、グワングワンとティルスの頭に響いた……。
「ッ……」
かろうじて上体を起こしたところで、喉元に突きつけられるは剣。生殺与奪の権は、棘姫に。
──否。棘姫の視線の先、ラケルドに握られている。
「……フンッ」
ラケルドは反応を探るかのように、ぐるりと観客達を見回した。
闘技場内は、異様な高揚感に満ちていた。これから始まる殺戮ショーに心躍る者達の、血に飢えた叫びと熱気だった。彼らの熱狂を確かめた後、ラケルドは感心したように言い放った。
「 “属州総督サマ ”がくれたゴミ同然の玩具にしては、意外と盛り上がったな」
(え……?)
ティルスの脳裏に、忘れもしないあの日、あの瞬間が蘇る。
紫色の凍てついた瞳に見下されながら、確か同じようなことを言われなかったか。
『──玩具はキミだけだな』
「──アレリア、もういい。いつものように殺せ」
(そうか、オレは玩具か)
自分ただ一人が生き残った理由。その生の意義が。
きっと何か、とても大切な意味があるのだと思っていた。
(でも……)
そんなものなど、おそらくなかったのだ。
いや、あるとすれば。
自分は笑いながら殺されるために、こんな場所まで連れてこられて、わざわざ生かされたのだ──。
滑稽な奴隷、戦争捕虜として。
悲しくても、苦しくても、どんなに辛くても、汗水流して耐え忍んで、今日なんとかここまで生きながらえた、その果てがこれか。
その瞬間、これまで張り詰めていた心のすべてが、プツリと切れる音がした。
みぞおちの痛みが引いていくと同時に、全身から力が抜けるような感覚に陥る。
(ああ、疲れたなぁ……)
ティルスは握りしめていた剣を、静かに離した。
手放してしまえば、なんて軽いことだろう。
もっと早くこうしていれば良かったのかな、という感情さえ湧き上がってくる。
──こんな狂った国に勝てるワケがない。
ティルスは胸元のペンダントをそっと取り出した。
(ゲルハルト隊長ごめんなさい。碧湖守備隊の皆、ごめん)
帝国に一矢報いることさえできなかった。
何も成せなかった。誰も助けられなかった。
ティルスは瞳を閉じた。涙が幾重にも流れ落ちる。無念だ。
(そうだ、オレも早く、皆のところへ逝こう)
清らかなる体を持つ者は死後、母なる山の頂にある天上界へと召され、第二の生を得るのだという。山の民に伝わる古き神々の伝承に影響を受けた、ティエーラ人の多くが信ずる世界観だ。ティルスは、まもなく自分もその場所へと赴き、皆と再会できることを思えば、死の瞬間の恐怖など取るに足らないことのように感じた。レグノヴァ帝国の侵攻を受けて王都が陥落してから約一年半、苦しい思いばかりだった。でも、これでやっと。そうだ、やっと。
(楽になれる、か……)
なかなか振り下ろされない刃に、業を煮やしてティルスは言った。
「……もういい。早く、トドメ、させよ」
「………………………」
長い沈黙。棘姫は瞳を丸くし、ティルスを凝視していた。
(…………?)
「おい! アレリア! さっさとそいつを殺せ!」
同じく業を煮やしたラケルドが、鞭をしならせながら棘姫に詰め寄る。
「ラ、ラケルド様……で、できません!」
「は?」
予想外の一言に、感傷的になっていた心が瞬時に現実へと引き戻される。
(な、なに言ってるんだこいつ──!?)
「早く殺せ!」
「で、できませ……うっ」
ラケルドは鞭で棘姫を痛めつけ始めた。
棘姫はただ体を小さくして、その痛みにひたすら耐えている。
自分にトドメを刺さないせいで、少女が痛い目に遭っている。
(なんで? 何がどうなってんだ……?)
ラケルドが鞭ではなく、拳を振り上げる。
今度は棘姫を殴りつけるのだろうか、と思ったところで、ティルスは信じがたい行為を目にした。
「い、いやッ……!」
あろうことか、ラケルドが棘姫の乳房を鷲掴みにしたのである。
「このクソが! 従わねぇなら、前居たところに戻すぞ!」
「っ……や、やめて……」
耐え切れず嗚咽し始める棘姫。ラケルドはまるで愉しむように、下卑た笑いを浮かべた。
その瞬間、ティルスの全身に強い強い虫唾が走った。
そして考えるよりも先に、体が動いた。
この少女を助ける義理なんてない。それでも!
起き上がることもできずにいた身体は、自分でも驚くほど俊敏に怒りの対象へと向かっていった。
「やめろ!! 嫌がってるだろ!!」
「なんだテメー……ゴフッ!?」
怒りと勢いに任せて、ティルスは握りしめた拳を
──ラケルドの顔面めがけてぶち込んだ。
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