或るインキュバスの純愛

はち

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 西に傾いた日差しが照り付けるアスファルトには陽炎が踊り、逃げ水が揺らめく。
 嵐のように無遠慮に降り注ぐ蝉の鳴き声は、建ち並ぶコンクリートの壁に反響してそのやかましさを増していた。
 真夏の昼下がり、茹だるような暑さの、要塞のような団地の一角。
 僕の耳は、ビーチサンダルの底がコンクリートを擦る気怠げな音をちゃんと捕まえた。僕の好きなひとの足音だ。

 真っ白いTシャツとネイビーのハーフパンツは僕のお気に入りの服だ。好きなひとに会うから、おしゃれしないと。ベースボールキャップを被ってサンダルを履いた僕は、偶然を装って玄関の金属の扉を押した。
 日陰になっている玄関先は、それでも茹だるような暑さだった。エアコンの効いた部屋から出てきたばかりの冷えた肌に、湿気を含んだ熱が染み込んでくる。

 表へ出て左を向いた僕の視線の先、隣の部屋の玄関先には、僕の好きなひとの姿があった。
 黒いTシャツにサンドベージュのハーフパンツ、ビーチサンダルとベースボールキャップ。
 裾から覗く手足には筋肉がの存在がわかる影が落ちている。
 髪は短くて、精悍で野生みのあるはっきりした顔立ち。顎と頬には無精髭が見える。少し強面だけど、その笑顔は優しいのを知ってる。
 今日もかっこいい。

「こんにちは」
「おう。こんにちは」

 低い、少し掠れた優しい声が挨拶を返してくれる。

「おじさん、今日はお休み?」
「ああ、夏休みだ」

 隣に住むおじさん。嶋田さん。仕事はゲンバカントクなんだって。
 奥さんとは別れて、今は一人暮らし。時々高校生くらいの息子さんが遊びに来ているのを見かける。
 日に焼けた肌、太い腕、ごつごつした手。割と筋肉質で、がっしりした肩と厚い胸。
 逞しい首筋には日焼けした肌を伝い落ちる汗の雫が見えて、僕の胸はさざなみみたいにざわめいた。
 身長は一八〇センチより少し高い。やっと一五〇センチを超えた僕よりもずっと大きい。
 見た目は完全に僕の好みで、初めて会った時に一目惚れ。ちょっと目つきが鋭いけど話したらすごく優しくていい人で、気が付いたら好きになってた。
 ずっと焦がれているひと。片想いの、僕の好きなひと。
 その姿を見るたびに、僕の胸は甘く騒ぐ。
 早く僕のものにしたいと、本能がざわめく。

 僕はハルト。インキュバスだ。パパもインキュバス、ママはサキュバス。
 黒い髪と時々紫に見える目はパパ譲り、中性的で細身の外見はママ譲りだ。
 品行方正な小学生のお坊ちゃんのふりをしているのは、その方が相手が油断してくれるから。
 おかげでおじさんもなんの警戒もなく僕に接してくれる。顔を合わせれば微笑んでくれるし、時々お菓子もくれる。

 おじさんが夏休みに入るのを待っていた。僕にしては、よく我慢したと思う。

 おじさんには、随分前から少しずつ僕の魔眼で催眠をかけていた。会うたびに、少しずつ。
 僕を拒めないように。
 おじさんの身体が、僕の望みにちゃんと応えてくれるように。
 もうずいぶん経つから、そろそろ準備はできたはず。
 僕はおじさんを見上げて、いつもの笑みを浮かべた。

「おじさん、僕と遊んでよ」
「はは、いいぞ、夕方までな」

 俺のおねだりに、おじさんは簡単に部屋に上げてくれた。
 今まで、誘いを断られたことはない。
 おじさんはいつもゲームを一緒にしてくれた。夕方までという約束で、夕方になると途中でも帰されてしまう。意外と真面目だ。
 今日はどうなるかな。

 カーテンの閉まったおじさんの部屋は薄暗くて蒸し暑い。うっすらと漂うおじさん匂いに、僕の鼓動は少しだけ早まった。
 眩い西陽は、カーテンに阻まれてここまでは届かない。日差しがない方が、僕には都合がいい。

 フローリングの床を裸足で歩く、ぺたぺたという音が響く。

「今日も暑いな」
「そうだね」

 おじさんは脱いだキャップで扇ぎながらエアコンをつけた。おじさんの額にかかる短い黒髪が汗で濡れている。
 エアコンからはすぐに冷たい風が吹き出す。まとわりつく熱気は少しずつ薄れて、汗が肌から攫われていく。
 薄暗くて、心地好い涼しさの部屋。いけないことをするにはうってつけだ。

「麦茶でいいか」
「うん」

 僕をローテーブルのそばに座らせて、おじさんは冷蔵庫から麦茶を出してくれた。
 ブルーのくたびれた座布団の上が僕の定位置になっていた。
 テーブルの上に、グラスに注がれた麦茶が並ぶ。いつもおじさんが出してくれる麦茶だ。でも、今日はそれには手をつけない。
 僕はキャップを脱いで脇に置いた。

「でも、麦茶より、おじさんがいいな」

 僕は手を伸ばして、天井の照明から垂れる長い紐を掴もうとするおじさんの手を握った。
 きょとんとしたおじさんと目が合う。
 おじさんはまだ、僕の意図に気が付いてないみたいだ。それならそれで都合がいいから構わない。
 僕は魔眼の催眠を強めた。

「おい、はる、と」

 慌てて手を引っ込めたおじさんは、バランスを崩して尻餅をついた。

「っ、なんだ?」

 ふふ、気づいてないんだ。そうだよね。人間にはわからない。僕の魔眼の催眠は、自覚症状のない病気みたいなものだ。
 もう、おじさんにはだいぶ深くまで僕の魔眼の催眠がかかっているはず。もう、僕には抵抗できない。
 自我を完全に奪ってしまうとつまらないから、少しだけ残してある。
 本当はまっさらなおじさんとしたい。でも、それは叶わない。僕の片想いだから。
 僕が静かに立ち上がると、おじさんは何が起きたのかわかっていないみたいで、惚けた顔で僕を見上げた。

「大丈夫。気持ちいいことしかしないよ」
「あ、え……?」

 僕がそっと肩を押すと、おじさんの身体が支えを失ったみたいにフローリングの床の上に仰向けに倒れる。普通ならこうはいかない。催眠が効いてる証拠だ。

「ふふ、ずっとこうしたかったんだ」

 僕は横たわったおじさんのお腹の上に跨った。筋肉の凹凸を感じるお腹は、僕が乗ったくらいじゃびくともしない。

「おい……」

 おじさんのTシャツを捲り上げると、うっすらと汗の匂いが舞い上がった。おじさんの汗の匂いに反応して、僕のおなかが熱くなる。
 本能を揺り起こす匂いに喉が鳴る。嬉しくて、自然に頬が緩んでしまう。
 ずっとこうしたかったんだ。仕方ないよね。

 僕は背中を丸めて、両手でおじさんのざらついた頬を包んだ。覗き込んだ茶色の瞳は戸惑いの色を浮かべて揺れた。
 手のひらに当たる無精髭の感触に、鼓動が早まる。
 ああ、こうやっておじさんに触れられるなんて夢みたいだ。話をできるようになって、家にあげてもらえるようになって、やっとだ。
 僕はまた少し催眠を強めた。
 少しずつ強くしていかないと、人間はすぐに壊れてしまうから。
 おじさんを壊したくない。おじさんのことは大切にしたい。だから、壊さないように細心の注意を払う。

 おじさんの表情が、少し蕩けた。

「キスしようか」
「ん、う」

 返事を待たずに唇を重ねる。
 触れるだけじゃ足りなくて、僕は舌でおじさんの薄い唇をこじ開けた。
 うっすらとお酒の匂いがする。昨日も飲んだのかな。おじさんの家の冷蔵庫は、いつもお酒が入っている。おじさんのご褒美なんだって。
 僕は長い舌で、縮こまったおじさんの舌を絡めとる。舌を擦り合わせて溢れる涎を混ぜるたびにおじさんの味がして、またおなかが疼いた。
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