かみうみ異譚

はち

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かみうみのそのあと1

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 彼は、夜明けのような水辺にいた。

 ずっと遠くに見える空の果ては深い黒から濃紺、青へと変わり、やがて金色になり、淡い赤に変わっている。

 いつからここにいるのかわからない。ずっとここにいるような気もするし、ついさっきここへやってきたような気もする。
 聞こえる音は不規則に打ち寄せる波の音だけだった。

 水の中に揺蕩っていたはずが、いつのまにか器に据えられていた。図らずも得た器に魂が少し馴染んだのか、二本の足先に水の冷たさを感じた。足の裏には、冷たい砂の感触がある。

 そして彼は自分に姿形があることを、足元に触れる水で知った。
 ゆらゆらと波打つ水面に映ったのは、昏い空に溶けそうな黒い身体に、赤く波打つ髪と、金色の目だった。少年とも青年ともつかない痩せたその姿を見て、ただこれが自分の姿なのだと理解した。

 揺れる水面をぼんやりと見つめる彼の後ろで、微かに音がした。

「やっと見つけた、マガツヒ」

 甘く澄んだ音色の囁きが聞こえ、背後から真白い腕に抱かれた。
 温かな腕だった。

 マガツヒ。美しい声で呼ばれ、それが自分の名だと理解した。その意味も、役割も、その名を戴いた自分が何者なのかも、何をするでもなく勝手に、胸の内にあぶくのように湧いてきた。

 マガツヒは、イザナギから剥がれ落ちた黄泉の穢れより生まれた、厄災の神。穢れと厄災を齎す者だ。

 それなのに、その白い腕は離れることはなく、彼の黒い身体を容易く抱き上げた。



 初めて目にした自分以外の誰かは、真っ白で、温かくて、美しかった。
 朝日のように眩い金色の瞳がゆらりと細められる。そこにはまだ、夜のように深い黒が映っていた。

「きみの金色の目は、わたしとお揃いだね」

 朝焼けが滲んだような色の唇が言葉を紡いだ。そこから届く優しく澄んだ響きは胸に染み込み、熱となって腹の底に溜まっていく。

 真っ白い、美しい指を目で追う。視界はどこもかしこも彼の真白い色に埋め尽くされている。
 指先が頬を撫でる。
 真白い彼の名前は知らない。何もわからない。それなのに、たまらなく懐かしい。

「マガツヒ」

 優しく澄んだ声に呼ばれてマガツヒの胸が締め付けられる。
 黄泉の穢れから生まれたこの身体に、彼は何の躊躇いもなく触れ、大事に大事に抱き上げる。大きな身体は容易くマガツヒを抱き上げ、膝に乗せた。

 夜のように深い色の身体に、真白い指が這う。
 眩い白い指が血の河のような長い髪を、毛先まで丁寧に梳かしていくと、波打つ髪はとろりと素直になった。
 朝焼けの色をとって差したような唇が、夜の色の身体に、何度も触れる。

 温かくてくすぐったくて、マガツヒは彼の膝の上で身を捩る。

「マガツヒ」

 身体を撫でる白い手は、腰を撫で、双丘の間に息づく窄まりに触れた。

「あ……」

 声が漏れる。ひどく掠れた声だった。
 身体がその場所に触れられるのを拒む。まだ馴染んでいない身体だが、そこに触れられたくないことだけはわかった。

「マガツヒ」

 彼はその美しい唇で、美しい声で、何度も呼んだ。乞うように、甘えるように。

「だめ」

 唇を震わせ首を横に振る。彼が汚れてしまう。それだけは避けなければならない。彼のことなど何もわからないのに、不思議とそう思った。

「おれは、汚い、から、だめ。あなたが、汚れてしまう」

 ざらざらな声が震えて、聞くに耐えない声だというのに、彼は目を細めた。嬉しそうに微笑む、その理由がわからなかった。

「汚くないよ、マガツヒ」

 甘く穏やかな響きが染み込んでくる。身体中に染み込んで、胎の中が熱くなる。

「きみは、わたしから生まれたんだから」

 その言葉の意味を反芻する間もなく、熱の籠った吐息を吹き込まれ、勝手に声が漏れる。

「あ、う」

 唇を吸われる。美しい色の唇が自分に触れるだけで、まだ馴染みの浅い身体は簡単に熱を募らせる。
 優しく甘く口を吸われ、柔らかな内側まで掻き混ぜられる。

「っん、む」

 この美しい存在に愛されて、うれしい。眦からは温かな涙が溢れた。

「ほら、マガツヒ。きみの涙はこんなに綺麗だ」
「あ……」

 舌が、涙を舐め上げた。

「わたしのマガツヒ。もう何処へもやらないよ」

 白い腕が、強く抱き寄せる。自分を包み込む白い腕の強さにため息が漏れる。

「マガツヒ、きみの胎に、入らせて」

 美しく柔らかな声が吹き込まれ、身体が震える。
 胎に、このひとが入ってくる。それがどういうことかもわからないのに、身体はまた少し熱くなった。

 胎の中が、じゅくじゅくと湿って気持ちが悪い。
 自分の身体なのに、何が起きているのかちっともわからない。マガツヒは縋るように彼を見上げた。真白い彼は穏やかな笑みを浮かべているだけだった。

「はら、に……」

 譫言のように、マガツヒは彼の言葉を繰り返す。

「そう、きみの胎に、わたしを」

 白く指先が腹を撫でた。
 誘われるように、マガツヒは視線を落とす。
 白い彼の腹の下、天を仰ぐ逞しい肉槍がその存在を見せつけるように揺れた。
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