路地裏のアシェンプテル

はち

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 それから。
 会社帰りに店の前を通った松田が遠巻きに店を覗くと、作業中の小宮の姿が見えた。温かな灯りの中、靴と向かい合う真剣な横顔が見えて、穏やかだったはずの鼓動が跳ねた。
 店の外から眺めるだけなのに、彼の姿が見えるたびに、松田の胸はざわめいた。

 そして、また週末がやってきた。定時で上がった松田の足は、自然と小宮の店に向いた。
 ドアを開けると、ベルの音とともにあの声が迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「お久しぶりです」

 小宮はにこやかに迎え入れてくれた。
 松田はまだ少し緊張していた。鼓動が騒いで落ち着かない。バレないように深呼吸をして、小宮に向き合う。

「あの、オーダーを、してみたくて。今の靴も、もうくたびれてきたから……」

 今履いている靴も、もうずいぶん長いこと履いている。まだ履けはするが、そろそろ新しいものを買ってもいいかもと思っていた。

「そうでしたか。ご予算はありますか?」

 貯金に回すばかりのボーナスはあるが、正直、靴にいくらかけるのが正解なのかわからなかった。十万しても出すには出せるが、そんな大層なものが自分に似合うかどうかもわからない。

「どれくらいのものかよくわからなくて。やっぱり、十万とか出した方がいいんですか?」
「そうですね、それくらい見ていただけるといいものはお作りできます。ですが、いきなりそれだけの金額を出すのも躊躇われると思います。なので、初めての方には三万から五万くらいのをおすすめしています」

 インターネットで検索はしてみたが、店によってまちまちで今ひとつ参考にはならなかった。上を見始めたらきりがないのはなんとなくわかっていた。小宮が良心的な値段を提示してくれて、松田は内心で胸を撫で下ろした。

「じゃあ、五万で、お願いします」
「かしこまりました。今日は、お時間はありますか? 足の採寸をしたいんですが。今日が難しければ次回でも構いません」
「じゃあ、今日、お願いできますか」
「かしこまりました。用意をしますので、お掛けになって、素足になってお待ちください」

 松田はスツールに腰掛けて、靴を脱いで待つ。
 採寸のための道具を持ってきた小宮が松田の前に跪く。素足になった松田の足を見るなり、小宮は目を細めた。

「綺麗な足の形をしていますね」

 手入れの行き届いた、職人にしては綺麗な指先がそっと足の甲を撫でた。
 その仕草に、松田の心臓が跳ねた。どうして小宮は、自分の足をこんなにも褒めてくれるのか。もちろん客だからだろうが、松田は男だ。足が綺麗だと褒められたことなんてなかった。だから、こんなに小宮に熱っぽい言葉を投げかけられるとどう反応していいかわからなかった。

「では、一度立ってみていただけますか。立った状態と座った状態で、足のサイズを測るので」
「わかりました」

 言われるまま、松田は立ち上がる。小宮は手慣れた様子で採寸を進め、メモを取っていく。

「こうやって、測るんですね」
「ええ」

 松田の足元には、名前も知らない道具がある。それで足の採寸をするのだろう。松田に名前がわかるのはメジャーくらいだった。
 小宮は手際良く松田の足の寸法を測っていく。
 採寸をしてもらいながらも、松田の意識はあの赤い靴へと向いていた。

「もう座っていただいて大丈夫ですよ」

 どうやら立った状態の採寸は終わったようだった。
 スツールに掛けた松田は、メジャーを手にして真剣な面持ちで松田の足に視線を落とす小宮を眺める。
 その視線を独り占めしているみたいで、なんだか胸がくすぐったかった。

「あの靴も、お手本にした足があるんですか」

 ずっと気になっていたことだった。
 松田の問いに帰ってきたのは、はにかんだような小宮の声だった。

「ええ。僕の、理想の足です」
「理想の……」

 理想の足の持ち主は、どんな人だろう。松田の意識はたちまち理想の足の持ち主のことしか考えられなくなった。
 自分が履けるくらいだ。男なのだろうか。
 モデルだろうか。
 日本人? 外国人?
 小宮は靴職人だ。海外に修行に行った先の人かもしれない。
 ヒールが似合う足だ。きっと色白で華奢な、綺麗な足だろう。
 足のサイズが同じくらいと言うことは、背丈も同じくらいだろうか。
 松田の思考は、小宮の理想の足を描くのに必死だった。勝手に、頭の中に理想の足の持ち主を作り上げていく。
 華奢な足で、身体もすらりとしていて、背筋も伸びていて。それはきっと、美しい人なのだろう。

 松田の心を掴んで離さなかった赤いハイヒールは、松田の知らない、誰かのためのものだった。小宮の理想の、誰か。きっと自分なんか足元にも及ばない、美しい、誰か。
 なんだか失恋でもしたみたいな気分だった。

「松田さん」
「あ、は、はい」

 呼ばれて、終わりのない物思いに耽っていた松田は現実に引き戻された。
 小宮の澄んだ茶色の目が自分を見上げていて、松田は居た堪れない気持ちになる。

「お待たせしました。これで採寸は終わりです。あとは革……素材はどうしますか」
「あ……お任せします。スーツに合わせやすいのがいいです」
「かしこまりました。僕の方で選びますね」

 小宮の声に、松田は上の空で返事をする。

「気になりますか、あの靴」

 松田は曖昧に頷く。今となってはあの靴よりも、あの靴の元になった足の持ち主の方が気になっていた。しかし、おいそれと聞いていいものではない気がして、松田は口を噤んだ。

 あれは、誰かを想って作った靴だった。
 それに、たまたま自分の足が合っただけだ。
 なんだか浮かれてしまった自分が恥ずかしい。

「できたら、連絡しますね……松田さん?」
「あ、いえ、なんでもないです。楽しみにしてます」

 そうは言ったが、言葉とは裏腹に松田の心は深く落ち込んでいた。
 舞い上がった後の落胆は、ひどく重たく松田にのしかかる。
 手を振って小宮と別れ、一人になった途端に深いため息が漏れた。
 いつになく足が重い。履き慣れたはずの革靴の底を擦るように、松田は覚束ない足取りで家までの道を辿った。
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