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白い街灯が静かに煌めく夜の裏通り。喧騒の遠い裏道は、仕事帰りの疲れた心と身体に心地好い静かさだった。
秋は少しずつ深まり、空気からは少しずつ温もりが削げ落ちて、昨日よりも少しだけ鋭くなった夜風が頬を撫でていく。
スーツ姿の男の丸まった背中で、しっかりした作りのリュックが揺れる。微かに引きずるような足音とともにどこかくたびれた雰囲気を漂わせるのは、会社員の松田曜太だ。
松田にとっては、会社の行き帰りに通るこの道が癒しになっていた。二十八歳。会社では中堅と呼ばれるような立場になり、責任もそれなりにある。技術職の松田にとってはいい刺激ではあるが、ストレスも多かった。
松田が通勤でいつも通る裏通りには、隠れ家のようなバーやレストラン、カフェや小さなセレクトショップがひっそりと並ぶ。入りこそしないが、松田にとってはそれを横目に眺めることが日々の癒しだった。
小洒落た店の中でも一際目を引くのが、窓際に赤いハイヒールの飾られた小さな靴屋だった。
マンションの一階にある、工房を併設した、こじんまりとしていて小綺麗な店構え。白い壁に、暗い色の木でできた扉と、店の中が見える大きな窓。店の前には『Aschenputtel』と書かれた控えめな看板が置かれている。
窓際に置かれた赤いハイヒールは、松田の目を引いた。普段は履こうとも思わないのに、目にすると言いようのない高揚感を感じる。松田のお気に入りだった。
ハイヒールの飾られた大きな窓からは、店内に併設された工房が見える。店主だろうか。靴職人と思われる男が一人いるだけだ。松田と同じくらいか、少し年上だろう。
いつも奥の作業台に向かって作業をしている後ろ姿が見えた。
肩につくくらいの黒髪を一つにまとめ、白いトップスに、エプロンをつけた背中。時々見える横顔は凛として、綺麗な顔をしているのを知った。
彼が、あの赤いハイヒールを作ったのだろうか。
答え合わせは、まだできていない。
松田が意を決してその店へ足を踏み入れたのは、金曜の仕事帰りだった。
仕事を早めに切り上げて、定時で帰った松田は緊張した面持ちで店の前にやってきた。
表には控えめな置き看板が出ている。看板に書かれた閉店時間まではあと三十分ほどある。今からなら、少し覗いても迷惑にはならないだろう。
夜の帳が下りた通りに、大きな窓から店の明かりが漏れてくる。窓辺には変わらず赤いハイヒールが飾られていた。
騒ぐ鼓動と高揚感に背中を押され、松田はおそるおそる扉を開けた。
内側へと開くドアにはベルがついていて、涼やかな金属音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは静かな低音と、革の匂いだった。
店主は何度か姿を見たことがある、肩の辺りまでの黒髪の男だった。
今日は髪を下ろしている。今日も白いシャツを着て、袖は腕まくりしている。ボトムはチノパン、靴は皮のサンダルを履いていた。
ちゃんと顔を見るのは初めてだった。
髭はなく、清潔感のある端正な顔立ちの、自分よりも少し年上の男だ。
「オーダーの方ですか?」
「あ、いえ、その……」
特に目的もなく、なんとなくやってきてしまった松田は口籠る。こんなことならよく調べてから来ればよかったと後悔した。
迎えてくれた人の良さそうな穏やかな笑みに、松田の胸には苦い罪悪感がへばりつく。
店主は松田の様子に気がついたのか、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。
「ああ、すみません、見ていくだけでも歓迎です。気になるものがあれば仰ってください」
「ありがとうございます」
店主の男は、店舗の中央を仕切るカウンターの向こうで作業に戻った。
松田は店内を見回す。六畳ほどだろうか。店舗が半分、工房が半分といった様子だった。店の奥の壁には、ビジネスマン向けの革靴が並んでいる。松田向けなのはこの辺りだが、松田の意識はずっと窓辺の赤い靴に向いていた。
どの靴を見ても上の空で、松田は勇気を出して店主に声をかけた。
「あの、窓のところにある、赤いやつ……」
松田がおずおずと指差すと、顔を上げて松田を見た店主は少しだけ目を見開いた。
ヒールに興味を示すなんて気持ち悪いと思われただろうか。
そう思った松田だったが、店主からは予想もしていなかった言葉が返ってきた。
「履いてみますか?」
「え」
「見たところサイズは合いそうなので、嫌でなければ」
女性用だと思っていた。だから、まさか自分が履けるなんて思いもしなかった。それに、見ただけでサイズがわかるのだろうか。
「っ、いいんですか」
胸が躍って、思わず声が上擦る。
松田に、店主は柔らかな笑みを返した。
「ええ。今靴下を用意します。そこに掛けていてください」
店の隅にあった木のスツールに掛けていると、店主は作業場の引き出しから靴下を取り出した。
「どうぞ、こちらの靴下で」
大きな手のひらから手渡されたのは、さらりとした生地の薄手の靴下だった。
松田は履いていたくたびれた靴下を脱いで、言われるままに渡された靴下に履き替える。少し締め付け感のある、タイトな黒い靴下だった。
靴下を履き終えた松田の前に、赤いハイヒールを持った店主が静かに跪いて、松田の鼓動が跳ねた。長めの黒髪が揺れて、花のようないい香りがする。それが余計に鼓動を早めた。
松田の逸る鼓動など知らない店主は、松田の足に手を添えた。
松田の目は、真っ直ぐに店主の手元へと向く。
骨張った大きな手が恭しく右足を持ち上げて、赤い靴がつま先にかかる。そのまま足の裏に沿うようにして、松田の足が収まっていく。土踏まずの曲線に沿うようにして中敷がフィットする。不思議と窮屈さはない。そして、最後に踵が収まった。
左足も、店主の手は丁寧に履かせてくれた。
「ふふ、やっぱり。ぴったりだ」
嬉しそうな店主の声に、松田も胸が温かくなる。
両足に履いた不慣れな赤い靴は、驚くほど松田の足にぴったりだった。
「立てますか?」
「あ、はい」
店主にそっと手を取られ、おそるおそる立ち上がる。
いつもよりも視界が高い。なんだか背筋も伸びた気がする。
十センチは上がった視界に映ったのは、美しい男の笑みだった。
十センチ上がったというのにそれでもまだ少し見上げなければならないその笑みは、赤いハイヒール以上に松田の心を鷲掴みにした。
「よくお似合いです。痛いところはないですか」
言われるまま視線を落とす。
痛みはない。覚悟していた圧迫感もなく、それどころか、包むような優しさすら感じる。
女性ですら苦労して履いているという話を聞くのに。こんなにも優しく包まれるようなハイヒールがあるなんて。
足元のラグのことを抜いても、履き心地は良かった。
「ない、です」
呆然と答えた松田に、彼は続けた。
「よかった。素敵です。ずっと履いていて欲しいくらい」
「え……」
「ああ、すみません。男性には普段使いし辛いですよね」
確かに、普段は履かない。だけど、ずっと憧れのように眺めていた靴が自分のために用意されていたみたいにぴったりで、なんだか無性に、この靴が愛おしく思えてしまった。
「これ、売り物なんですか」
「いえ、サンプルというか、この店のアイコンになればいいと思って、作ったんです」
非売品だった。しかも、店のアイコンなんて、看板と同じようなものだ。店にとって大事なものなのに。
どうしてこの男は、そんな大切なものを自分に履かせたのか。どうして。松田の胸には疑問が次々に生まれてくる。
戸惑う松田の胸の内など知るはずもない店主は、どこか熱の籠った目で松田を見た。
「でも、あなたに履いて欲しい」
「そんな大切なものを……」
そんなに簡単に、自分なんかが履いていいのか。松田は視線を彷徨わせた。
店主は真っ直ぐに松田を見つめている。居た堪れなくて、目も合わせられない。
温かな手に両手を握られて、すぐそこに綺麗な顔がある。慣れない状況に、松田の鼓動は落ち着いてはくれない。心なしか頬も熱い。
「いいんです。あなたにこんなによく似合うのは、何かの運命でしょう。もし、気に入っていただけたのなら、どうか貰っていただけませんか。その方が、この靴もきっと幸せだ」
「そんな」
低く甘やかな声にそんなに熱っぽく説かれては、松田に返せる言葉はなかった。逃げ出したい気持ちで俯くと、店主の彼が笑った気配があった。
「ああ、すみません。無理に、とは言いません。これは僕のエゴだ。貴方に、とても似合っていたから……」
おそるおそる顔を上げると、眉を下げた穏やかな笑みがあった。
綺麗で優しい笑みに、松田の鼓動は一際大きく、甘やかに刻まれる。
「……少し、考えさせてください」
鼓動がうるさく喚いて、松田はそう言うので精一杯だった。
「ええ」
店主の静かな声に、感じたのは安堵だった。
松田を支えてくれた大きな手がそっと離れていくのはなんだか寂しかった。スツールに座って、ハイヒールと靴下を脱ぐ。魔法のようだとぼんやり思いながら靴下を履き替え、自分の靴を履く。
脱いだハイヒールと靴下を店主に渡すと、笑みとともに受け取ってくれた。
「すみません、遅くまで引き留めてしまって」
「いえ、こちらこそ、こんな遅くまで」
時計を見れば、とっくに閉店時間を過ぎていた。
「構いませんよ。支度はもう大丈夫ですか」
「はい」
「外までお送りしますね」
身支度を終えた松田が立ち上がると、店主はドアを開けてくれた。店を出たところで振り返ると、穏やかな笑みが見えた。
「よかったら、またいらしてください」
「はい」
店主はショップカードと、名刺をくれた。名刺には『小宮貴由』と書かれていた。
「小宮貴由と言います。お名前を伺っても?」
「松田曜太です」
「松田さん、今日はありがとうございました」
「いえ」
「じゃあ、また。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
優しい声に送られて、松田は帰路についた。
まだ足に残る、つま先立ちのような感覚。いつもは丸まりがちな背が、少しだけ伸びた気がした。
ずっと気になっていた赤い靴を履いただけなのに。高揚感はずっと魔法のように松田の胸に居座っていた。
秋は少しずつ深まり、空気からは少しずつ温もりが削げ落ちて、昨日よりも少しだけ鋭くなった夜風が頬を撫でていく。
スーツ姿の男の丸まった背中で、しっかりした作りのリュックが揺れる。微かに引きずるような足音とともにどこかくたびれた雰囲気を漂わせるのは、会社員の松田曜太だ。
松田にとっては、会社の行き帰りに通るこの道が癒しになっていた。二十八歳。会社では中堅と呼ばれるような立場になり、責任もそれなりにある。技術職の松田にとってはいい刺激ではあるが、ストレスも多かった。
松田が通勤でいつも通る裏通りには、隠れ家のようなバーやレストラン、カフェや小さなセレクトショップがひっそりと並ぶ。入りこそしないが、松田にとってはそれを横目に眺めることが日々の癒しだった。
小洒落た店の中でも一際目を引くのが、窓際に赤いハイヒールの飾られた小さな靴屋だった。
マンションの一階にある、工房を併設した、こじんまりとしていて小綺麗な店構え。白い壁に、暗い色の木でできた扉と、店の中が見える大きな窓。店の前には『Aschenputtel』と書かれた控えめな看板が置かれている。
窓際に置かれた赤いハイヒールは、松田の目を引いた。普段は履こうとも思わないのに、目にすると言いようのない高揚感を感じる。松田のお気に入りだった。
ハイヒールの飾られた大きな窓からは、店内に併設された工房が見える。店主だろうか。靴職人と思われる男が一人いるだけだ。松田と同じくらいか、少し年上だろう。
いつも奥の作業台に向かって作業をしている後ろ姿が見えた。
肩につくくらいの黒髪を一つにまとめ、白いトップスに、エプロンをつけた背中。時々見える横顔は凛として、綺麗な顔をしているのを知った。
彼が、あの赤いハイヒールを作ったのだろうか。
答え合わせは、まだできていない。
松田が意を決してその店へ足を踏み入れたのは、金曜の仕事帰りだった。
仕事を早めに切り上げて、定時で帰った松田は緊張した面持ちで店の前にやってきた。
表には控えめな置き看板が出ている。看板に書かれた閉店時間まではあと三十分ほどある。今からなら、少し覗いても迷惑にはならないだろう。
夜の帳が下りた通りに、大きな窓から店の明かりが漏れてくる。窓辺には変わらず赤いハイヒールが飾られていた。
騒ぐ鼓動と高揚感に背中を押され、松田はおそるおそる扉を開けた。
内側へと開くドアにはベルがついていて、涼やかな金属音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは静かな低音と、革の匂いだった。
店主は何度か姿を見たことがある、肩の辺りまでの黒髪の男だった。
今日は髪を下ろしている。今日も白いシャツを着て、袖は腕まくりしている。ボトムはチノパン、靴は皮のサンダルを履いていた。
ちゃんと顔を見るのは初めてだった。
髭はなく、清潔感のある端正な顔立ちの、自分よりも少し年上の男だ。
「オーダーの方ですか?」
「あ、いえ、その……」
特に目的もなく、なんとなくやってきてしまった松田は口籠る。こんなことならよく調べてから来ればよかったと後悔した。
迎えてくれた人の良さそうな穏やかな笑みに、松田の胸には苦い罪悪感がへばりつく。
店主は松田の様子に気がついたのか、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。
「ああ、すみません、見ていくだけでも歓迎です。気になるものがあれば仰ってください」
「ありがとうございます」
店主の男は、店舗の中央を仕切るカウンターの向こうで作業に戻った。
松田は店内を見回す。六畳ほどだろうか。店舗が半分、工房が半分といった様子だった。店の奥の壁には、ビジネスマン向けの革靴が並んでいる。松田向けなのはこの辺りだが、松田の意識はずっと窓辺の赤い靴に向いていた。
どの靴を見ても上の空で、松田は勇気を出して店主に声をかけた。
「あの、窓のところにある、赤いやつ……」
松田がおずおずと指差すと、顔を上げて松田を見た店主は少しだけ目を見開いた。
ヒールに興味を示すなんて気持ち悪いと思われただろうか。
そう思った松田だったが、店主からは予想もしていなかった言葉が返ってきた。
「履いてみますか?」
「え」
「見たところサイズは合いそうなので、嫌でなければ」
女性用だと思っていた。だから、まさか自分が履けるなんて思いもしなかった。それに、見ただけでサイズがわかるのだろうか。
「っ、いいんですか」
胸が躍って、思わず声が上擦る。
松田に、店主は柔らかな笑みを返した。
「ええ。今靴下を用意します。そこに掛けていてください」
店の隅にあった木のスツールに掛けていると、店主は作業場の引き出しから靴下を取り出した。
「どうぞ、こちらの靴下で」
大きな手のひらから手渡されたのは、さらりとした生地の薄手の靴下だった。
松田は履いていたくたびれた靴下を脱いで、言われるままに渡された靴下に履き替える。少し締め付け感のある、タイトな黒い靴下だった。
靴下を履き終えた松田の前に、赤いハイヒールを持った店主が静かに跪いて、松田の鼓動が跳ねた。長めの黒髪が揺れて、花のようないい香りがする。それが余計に鼓動を早めた。
松田の逸る鼓動など知らない店主は、松田の足に手を添えた。
松田の目は、真っ直ぐに店主の手元へと向く。
骨張った大きな手が恭しく右足を持ち上げて、赤い靴がつま先にかかる。そのまま足の裏に沿うようにして、松田の足が収まっていく。土踏まずの曲線に沿うようにして中敷がフィットする。不思議と窮屈さはない。そして、最後に踵が収まった。
左足も、店主の手は丁寧に履かせてくれた。
「ふふ、やっぱり。ぴったりだ」
嬉しそうな店主の声に、松田も胸が温かくなる。
両足に履いた不慣れな赤い靴は、驚くほど松田の足にぴったりだった。
「立てますか?」
「あ、はい」
店主にそっと手を取られ、おそるおそる立ち上がる。
いつもよりも視界が高い。なんだか背筋も伸びた気がする。
十センチは上がった視界に映ったのは、美しい男の笑みだった。
十センチ上がったというのにそれでもまだ少し見上げなければならないその笑みは、赤いハイヒール以上に松田の心を鷲掴みにした。
「よくお似合いです。痛いところはないですか」
言われるまま視線を落とす。
痛みはない。覚悟していた圧迫感もなく、それどころか、包むような優しさすら感じる。
女性ですら苦労して履いているという話を聞くのに。こんなにも優しく包まれるようなハイヒールがあるなんて。
足元のラグのことを抜いても、履き心地は良かった。
「ない、です」
呆然と答えた松田に、彼は続けた。
「よかった。素敵です。ずっと履いていて欲しいくらい」
「え……」
「ああ、すみません。男性には普段使いし辛いですよね」
確かに、普段は履かない。だけど、ずっと憧れのように眺めていた靴が自分のために用意されていたみたいにぴったりで、なんだか無性に、この靴が愛おしく思えてしまった。
「これ、売り物なんですか」
「いえ、サンプルというか、この店のアイコンになればいいと思って、作ったんです」
非売品だった。しかも、店のアイコンなんて、看板と同じようなものだ。店にとって大事なものなのに。
どうしてこの男は、そんな大切なものを自分に履かせたのか。どうして。松田の胸には疑問が次々に生まれてくる。
戸惑う松田の胸の内など知るはずもない店主は、どこか熱の籠った目で松田を見た。
「でも、あなたに履いて欲しい」
「そんな大切なものを……」
そんなに簡単に、自分なんかが履いていいのか。松田は視線を彷徨わせた。
店主は真っ直ぐに松田を見つめている。居た堪れなくて、目も合わせられない。
温かな手に両手を握られて、すぐそこに綺麗な顔がある。慣れない状況に、松田の鼓動は落ち着いてはくれない。心なしか頬も熱い。
「いいんです。あなたにこんなによく似合うのは、何かの運命でしょう。もし、気に入っていただけたのなら、どうか貰っていただけませんか。その方が、この靴もきっと幸せだ」
「そんな」
低く甘やかな声にそんなに熱っぽく説かれては、松田に返せる言葉はなかった。逃げ出したい気持ちで俯くと、店主の彼が笑った気配があった。
「ああ、すみません。無理に、とは言いません。これは僕のエゴだ。貴方に、とても似合っていたから……」
おそるおそる顔を上げると、眉を下げた穏やかな笑みがあった。
綺麗で優しい笑みに、松田の鼓動は一際大きく、甘やかに刻まれる。
「……少し、考えさせてください」
鼓動がうるさく喚いて、松田はそう言うので精一杯だった。
「ええ」
店主の静かな声に、感じたのは安堵だった。
松田を支えてくれた大きな手がそっと離れていくのはなんだか寂しかった。スツールに座って、ハイヒールと靴下を脱ぐ。魔法のようだとぼんやり思いながら靴下を履き替え、自分の靴を履く。
脱いだハイヒールと靴下を店主に渡すと、笑みとともに受け取ってくれた。
「すみません、遅くまで引き留めてしまって」
「いえ、こちらこそ、こんな遅くまで」
時計を見れば、とっくに閉店時間を過ぎていた。
「構いませんよ。支度はもう大丈夫ですか」
「はい」
「外までお送りしますね」
身支度を終えた松田が立ち上がると、店主はドアを開けてくれた。店を出たところで振り返ると、穏やかな笑みが見えた。
「よかったら、またいらしてください」
「はい」
店主はショップカードと、名刺をくれた。名刺には『小宮貴由』と書かれていた。
「小宮貴由と言います。お名前を伺っても?」
「松田曜太です」
「松田さん、今日はありがとうございました」
「いえ」
「じゃあ、また。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
優しい声に送られて、松田は帰路についた。
まだ足に残る、つま先立ちのような感覚。いつもは丸まりがちな背が、少しだけ伸びた気がした。
ずっと気になっていた赤い靴を履いただけなのに。高揚感はずっと魔法のように松田の胸に居座っていた。
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