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ウツホシ編
ウツホシの花嫁
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そこは、寂れた漁師町だった。
海水浴客で賑わう夏が終われば、観光客の姿はほとんど見えない。地元の漁師や住人が疎らに出歩く、そんな夏の終わりの夕方。
「おい兄ちゃん、この時期は磯には入るなよ」
初老の漁師が声を上げた。色褪せたキャップに草臥れたTシャツ、ハーフパンツにサンダル姿で、首元には年季の入ったタオルが掛けられている。その視線は、堤防の上に立っている細身の青年に向けられていた。
漁港近くの堤防に立って、眼下に広がる磯を眺める青年の姿があった。青年はその声に振り返る。背丈は一七〇センチほど。ひょろりとした痩せ型の体躯だが半袖シャツとハーフパンツから覗く手足はうっすらと筋肉を纏っているのが見て取れる。年齢は二十代前半くらいだろうか。金に近い茶髪は頬の長さで整えられ、耳にはいくつものピアスが見える。固く引き結ばれた唇は薄く、若さを感じさせる血色を帯びていた。サングラスの下に見えるのは二重瞼に気の強そうな薄い茶色の瞳だった。
「は、なんで」
不服そうな響きの声とともに振り返った青年を見て、漁師は笑った。
「イソガミサマに食われちまうぞ」
「イソガミサマ?」
「そう。今夜は満月だからな。今の時分は誰も近寄らねえ。気をつけろよ」
まるで子供を諭すような口調で青年に言うと、漁師はゆっくりとした足取りで去っていった。
「ふぅん」
盆を過ぎるとクラゲが流れてくる、そういった類のものだろうかと青年はぼんやりと考えた。
外洋からの荒波が打ち寄せる岩場を一瞥すると、青年は堤防から降り、港の方へと歩いていった。
その夜は、美しい月夜だった。日が暮れると美しい満月が昇り、夜空を明るく照らしていた。
密漁者は夜にやってくる。
ウェットスーツに身を包んだ青年がゴムボートを止めた。港の堤防で磯を眺めていた青年だった。
青年はゴムボートに積まれた網いっぱいにサザエなりアワビなりウニなりを取ってこいと言われていた。
青年の名前はシュンといった。シュンはフリーターだった。年齢は二十二。漁の許可など持っていない。所謂密漁者だが、彼は自分の意思でここにいる訳ではなかった。なぜこんな真夜中に密漁をさせられているのかというと、マッチングアプリでヤクザの情婦に手を出して、それをヤクザに見たかったからだった。所謂美人局というやつだった。
シュンは金の無いフリーターだ。金など払えないと言ったら、海に連れてこられた。それでやっと、密漁の人手欲しさに嵌められたのだと気が付いた。
ヤクザには、密漁の手伝いをしたら見逃してやる、と言われた。シュンは従わざるを得ない。でなければきっとバラされて海に捨てられておしまいだ。相手は三十代の男二人。格闘技の心得も無いシュンがどう足掻いても太刀打ちできるとは思えない。命は惜しかった。
今夜の獲れ高によって放免となるか、更に罰が課せられるかが決まる。
ゴムボートの上。夜の海は静かだった。遠く波音が聞こえるばかりで、そのほかの音はない。
沖には、プレジャーボートが待っている。さっさと済ませて戻らなくてはならない。素潜りは何度かしたことがあった。
今夜は明るい月夜で、透明度の高い海はライトなんてなくても海底の岩場までよく見えた。
支度をするシュンの耳に、波の音に混じって何か声が聞こえた気がした。辺りを見回しても、まわりに緩やかに波打つ水面以外には何もない。
気のせいかと思っていると、パシャ、と背後で水音がした。
魚かと思って振り返ると。身体に絡みつく黒い何かに捕まえられた。それは、タコかイカか、そういった類のものの足のようだった。
シュンの記憶は、そこで途切れた。
海水浴客で賑わう夏が終われば、観光客の姿はほとんど見えない。地元の漁師や住人が疎らに出歩く、そんな夏の終わりの夕方。
「おい兄ちゃん、この時期は磯には入るなよ」
初老の漁師が声を上げた。色褪せたキャップに草臥れたTシャツ、ハーフパンツにサンダル姿で、首元には年季の入ったタオルが掛けられている。その視線は、堤防の上に立っている細身の青年に向けられていた。
漁港近くの堤防に立って、眼下に広がる磯を眺める青年の姿があった。青年はその声に振り返る。背丈は一七〇センチほど。ひょろりとした痩せ型の体躯だが半袖シャツとハーフパンツから覗く手足はうっすらと筋肉を纏っているのが見て取れる。年齢は二十代前半くらいだろうか。金に近い茶髪は頬の長さで整えられ、耳にはいくつものピアスが見える。固く引き結ばれた唇は薄く、若さを感じさせる血色を帯びていた。サングラスの下に見えるのは二重瞼に気の強そうな薄い茶色の瞳だった。
「は、なんで」
不服そうな響きの声とともに振り返った青年を見て、漁師は笑った。
「イソガミサマに食われちまうぞ」
「イソガミサマ?」
「そう。今夜は満月だからな。今の時分は誰も近寄らねえ。気をつけろよ」
まるで子供を諭すような口調で青年に言うと、漁師はゆっくりとした足取りで去っていった。
「ふぅん」
盆を過ぎるとクラゲが流れてくる、そういった類のものだろうかと青年はぼんやりと考えた。
外洋からの荒波が打ち寄せる岩場を一瞥すると、青年は堤防から降り、港の方へと歩いていった。
その夜は、美しい月夜だった。日が暮れると美しい満月が昇り、夜空を明るく照らしていた。
密漁者は夜にやってくる。
ウェットスーツに身を包んだ青年がゴムボートを止めた。港の堤防で磯を眺めていた青年だった。
青年はゴムボートに積まれた網いっぱいにサザエなりアワビなりウニなりを取ってこいと言われていた。
青年の名前はシュンといった。シュンはフリーターだった。年齢は二十二。漁の許可など持っていない。所謂密漁者だが、彼は自分の意思でここにいる訳ではなかった。なぜこんな真夜中に密漁をさせられているのかというと、マッチングアプリでヤクザの情婦に手を出して、それをヤクザに見たかったからだった。所謂美人局というやつだった。
シュンは金の無いフリーターだ。金など払えないと言ったら、海に連れてこられた。それでやっと、密漁の人手欲しさに嵌められたのだと気が付いた。
ヤクザには、密漁の手伝いをしたら見逃してやる、と言われた。シュンは従わざるを得ない。でなければきっとバラされて海に捨てられておしまいだ。相手は三十代の男二人。格闘技の心得も無いシュンがどう足掻いても太刀打ちできるとは思えない。命は惜しかった。
今夜の獲れ高によって放免となるか、更に罰が課せられるかが決まる。
ゴムボートの上。夜の海は静かだった。遠く波音が聞こえるばかりで、そのほかの音はない。
沖には、プレジャーボートが待っている。さっさと済ませて戻らなくてはならない。素潜りは何度かしたことがあった。
今夜は明るい月夜で、透明度の高い海はライトなんてなくても海底の岩場までよく見えた。
支度をするシュンの耳に、波の音に混じって何か声が聞こえた気がした。辺りを見回しても、まわりに緩やかに波打つ水面以外には何もない。
気のせいかと思っていると、パシャ、と背後で水音がした。
魚かと思って振り返ると。身体に絡みつく黒い何かに捕まえられた。それは、タコかイカか、そういった類のものの足のようだった。
シュンの記憶は、そこで途切れた。
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