仰ぎ見るは宝石の瞳

はち

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 朝、重い瞼を擦りながら朝日の差し込む廊下を歩く。
 全然眠れなかった。気を抜くとあくびが出て瞼が落ちてくるけれど、遅くなると朝食が食べられない。朝食を抜くのは嫌で、僕は食堂へと急いだ。

 食堂には、もうサフィアスの姿があった。

「おはようございます、ルカ先輩」
「おはよう」

 朝食の後、サフィアスは本を持って僕の部屋にやってきた。
 僕は机に向かって課題の魔術書を読む。
 だけどいつの間にか、僕の意識は睡魔にさらわれていた。

「ルカ先輩?」
「んあ」

 サフィアスの声に呼ばれて机の上に突っ伏していたことに気がつく。どうやら寝てしまっていたらしい。

 慌てて身体を起こす。まだ上がりきらない瞼は朝よりもいくらか軽くなった。

「お昼、行きましょうか」
「あ、うん」

 サフィアスの笑みが僕を覗き込んでいる。
 寝顔を見られただろうか。頬が熱いのを気付かれてしまいそうで、僕は俯いた。

 昼食の後も、サフィアスは僕の部屋でずっと本を読んで課題をしていた。
 同じ部屋に、彼の姿がある。
 誰もが憧れる天才魔法使いが、僕のそばで夏休みの課題をやっている。
 なんだか落ち着かなくて、課題はあまり進まなかった。

 翌日も、その翌日も、サフィアスは飽きることなく部屋にやってきた。
 朝、食堂で顔を合わせて、部屋で一緒に過ごして、夕飯を食べて、別れる。そんなことを続けて数日が経った。
 夕食を終えて、いつもなら別れて部屋に戻るのに、サフィアスに呼び止められた。なんだろう。明日は何かあるのかな。そんなことを考えていると。

「星を見にいきませんか」

 思いもしないサフィアスからの誘いに、僕は首を傾げた。

「星?」
「星見の課題。一緒にしませんか? いい場所を知ってるんです」

 そういうことか。僕にも星見の課題は出ている。一人でやるよりは楽しいかもと思って僕は首を縦に振る。

「ん、いいよ」

 いつも課題は一人でやっていたから、誰かとやるのは新鮮だった。
 しかも、相手はサフィアスだ。
 サフィアスの案内で宿舎を出て、講義棟を抜けて長い階段を登って、辿り着いたのは南の時計塔の管理室だった。
 学校で、一番高い場所。周りに邪魔する建物もなくて、空がよく見える。

「こんなところ、よく知ってたな」
「最近見つけた、俺のお気に入りの場所なんです。先輩は、星見は得意ですか?」
「あんまり。星が覚えられなくて」
「僕もです」
「嘘」

 そんなわけない。だって、天才魔法使いなのに。信じられないものを見るような目を向ける僕に、サフィアスは眉を下げて端正な顔立ちを綻ばせた。

「本当。あの赤い星の名前もわからない」

 サフィアスが仰いだ先、白く烟り天を横切る川の中に、一際目立つ赤い煌めきがあった。

「あれは、蠍の星だよ。蠍の心臓。これは覚えてるんだ。それぞれの星に物語があって、それで覚えてる」
「ふふ、それなら俺も覚えられそう」

 美しい瞳が楽しげに細められた。深い紫に見える瞳に星が映っている。そこにも星空があるみたいで、吸い込まれそうだ。
 空いっぱいに満ちた星々が降らせるのは青白い星明かりで、その中で見上げる整った顔立ちは神々しくて、ひどく美しいものに見えた。

 天才と言われるサフィアスにも、苦手なものがあって、できないことがあるなんて。
 こんなふうに近くで過ごすことがなかったら知らなかった。
 完璧じゃないサフィアス。だけど、僕の憧れはそれくらいでは潰えたりしない。美しい横顔も、優しい笑顔も、僕の目に映るものは変わらず綺麗で眩しくて。
 今も変わらず、彼は僕の憧れだ。

 惚けた顔で見上げていると、サフィアスと目が合った。星を映していた瞳が僕を映して細められる。

「ルカ先輩、僕の部屋に来ませんか」

 僕の心臓は痛いくらいに跳ね、思考は止まる。
 憧れの、サフィアスの部屋。
 考えるまでもない。僕は頷いた。



 サフィアスの部屋は、僕の部屋よりも物が少ないせいか広く見えた。
 サフィアスの匂いがして、僕の鼓動は跳ね上がる。

「こっちへどうぞ」

 入り口に立ち尽くしていた僕は、柔らかな笑顔に誘われて部屋の中へ進む。

「ようこそ、ルカ先輩」

 サフィアスの穏やかな笑顔に引き寄せられるまま、僕はサフィアスの目の前までやってきた。

「どうしてついてきちゃったの」

 サフィアスの声は、どこか僕を責めるような響きだった。
 その言葉の理由がわからないでいる僕は、気がつけばサフィアスの腕の中にいた。サフィアスの逞しい腕が、僕をしっかりと捉えて離さない。

「え」
「ずっと、気になってたんだ。かわいい人。先輩が居残り組だって聞いて、俺も残ったんだ」

 そんなの、初めて聞いた。だいたい、どうしてサフィアスが僕のことを。

「なん、で」

 喉が渇いて、声が掠れた。

「覚えてないよね。俺が入学してすぐ、先輩に会ったの。図書館で」

 自嘲気味な声に図書館と言われて、僕は記憶を掘り返す。図書館で、サフィアスに会ったことがあっただろうか。
 良く図書館には行くけど、誰かに会った記憶なんて。ページを捲るように記憶を探って、僕は見つけた。

 声をかけられて、本のある場所に案内した。見慣れない銀髪に葡萄色の綺麗な瞳と、真新しい制服。新入生だとすぐにわかった。
 彼が探していたのは宝石魔術の本だ。苦手だからと言われて、誰だって苦手なものはある、この本ならわかりやすいよって、一番易しい教本を教えてあげた。僕が宝石魔術を覚えるために読んだ本だった。
 あれが、サフィアスだったのか。

「あんなこと、で」

 僕でさえ言われるまで忘れていたのに、サフィアスは覚えていた。それは僕には特別なことではなくて、息をするのに近い、自然と出た行動だった。

「先輩にはあんなことでも、俺にはすごく嬉しかったんだ」

 サフィアスの胸元には僕があげた石がある。いつの間にペンダントにしたんだろう。長い指が、そっと石の輪郭を撫でた。

「これは、俺の宝物。先輩の目と同じ色の、俺と先輩で作った石」

 うっとりとした声だった。なぜ彼がそんなことを言うのか、僕には理由がわからない。
 だって、僕は落ちこぼれの魔法使いで、彼は僕なんて到底及ばない天才魔法使いで。
 そんな目を向けられるような人間じゃないのに。彼の瞳は、ひどく熱を持っていた。

「ルカ先輩。ずっと、こうしたかった」
「っ、ぁ」
「おれ、先輩のこと……」
「ま、待って!」

 僕は慌ててサフィアスの胸板を押し返していた。サフィアスの顔が見られなくて、顔が上げられない。
 心臓がうるさくて頭の中の整理ができない。

「っ、僕、その……」

 なんて言ったらいいのかわからなくて僕は俯いて目を閉じた。
 僕のサフィアスへの想いは、憧れというものだったはずだ。完璧で、眩しくて、美しくて、優しいサフィアスに向けた想いは。

「……っ、ごめん」

 サフィアスを押し退けて、僕は逃げ出した。
 部屋を飛び出して、音のしない廊下を駆け抜ける。
 心臓が爆発するんじゃないかと思うくらいにうるさく鳴っていた。

 部屋に駆け込んで、ベッドに飛び込んだ。
 うるさい鼓動が止まらないのは、走ってきたからじゃない。
 サフィアスの声がずっと頭の中に響いている。
 遠くから眺めるだけでよかったはずなのに。気がつけば笑みを見て心臓が震え、声にときめき、星を見上げる瞳に見惚れて。
 たくさん彼を知って、僕の中には新しい気持ちが芽生えていた。

 彼に触れたい。触れられたい。流れ込んでくる甘やかな魔力がもっとほしい。そんな浅ましい感情を彼に対して抱くことに罪悪感を感じるのに。
 それでも胸の底からは飢餓感ように絶えず湧いてくる。

 サフィアスが欲しい。

 こんな気持ちは初めてだった。
 ぐるぐると巡る思考と不確かな想いを抱えて、眠れないまま夜を明かした。
 朝が来てもベッドから動けなくて、それからも浅い眠りを繰り返して、気がついたら夕方になっていた。
 課題は何もやってない。見た星のことも忘れてしまった。
 陽は大きく西に傾いて、カーテンの隙間から夕焼けの色が漏れてくる。起き出しても何もする気が起きなくてぼんやりしていると、ドアをノックする音が響いた。
 誰が来たのか、思い当たるのは一人しかいない。

「どうぞ」

 ドアが開いてサフィアスが入ってきた。

「先輩、大丈夫ですか」
「うん」
「きのうは、すみませんでした」
「ん」

 僕は曖昧な返事を返すしかできなかった。

「食事、してないでしょ。これ、よかったら食べてください」
「ありがとう」

 昨日のことを、なんて言えばいいかわからない。机に食事を置いたてくれたサフィアスに、僕は感謝を述べるしかできない。他に、なんでいえばいいのかわからなかった。

「それじゃ」

 静かな声が僕の中に呼び起こしたのは、行ってほしくないという気持ちだった。

「行かないで」

 咄嗟にこぼれた僕の声に、サフィアスは足を止めてくれた。振り返る赤紫の煌めきが僕を映す。

「……部屋、行っていい?」

 僕の問いにサフィアスが返したのは、とろけるような甘い笑みだった。
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