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白い嵐を越えて
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東の空が薄明かりに染まり始める頃、世界は耳の痛くなるような静寂に包まれていた。
夜明けがやってくる。
青白い薄明かりの中、アウファトは起き出した。行程二日目の始まりだった。
まだ夜の気配の残る丘の上で天幕を手早く片付ける。ひとり分の天幕は、片付けるのはさほど苦ではなかった。単純な骨組みと水を弾く生地で作られた簡単なつくりの天幕は、あっという間に畳まれ、荷物の中にしまわれた。
仰いだ東の空は薄明るいが、空には厚く大きな雲が多く見える。
今日は荒れるかもしれない。
アウファトは天候が大きく崩れないことを祈りながら荷物を背負い、丘を降りた。
二日目は、ひたすら街道を北に向かう。草地は徐々に枯れ始め、草地というより荒地といった方が相応しい有様だった。所々、残雪が見え始める。
白い柩へと近付いている証拠だ。
北へ進むにつれ、雲は厚くなり風の温度も下がる。
そして、ついに雪が降り始めた。
アウファトの願いも虚しく、天候はたちまち悪くなった。
風雪は弱まるような様子もなく、覚悟はしていたが、この時期にしては強い吹雪になった。
それはまるで、白い揺籠を暴こうとするアウファトが王都へ近付くのを拒んでいるようにも思えた。
何度も地図と方角を確認する。残りは真北へ向かうだけ。半日ほどの道のりだ。
アウファトは地図をしまい、その手に方位磁針を握った。初めての調査の時にミシュアがくれたもので、調査には必ず持ってくるお守りのようなものだった。
唸りを上げて容赦無く体温を奪う風は、本当に竜王の咆哮のようだった。
冷たい怒りは、体温とともに体力も奪っていく。
もはや道標となるものは何も見えず、足元にあるはずの石畳の感触も曖昧だった。
時間の感覚は死に、視界は白く閉ざされた。
吹き荒れる白い欠片は密度を増し、手にした磁針も朧げだった。
これで方位まで見失っては、アウファトに残されたのは死だけだ。
体温を全て奪われて、ただの冷たい肉になる。
背を冷たいものが這い上がり、アウファトは身震いした。
アウファトは厚い手袋越しの磁針の感触を確かめる。
もはやこれだけがアウファトを導くものだった。
懐に入れてあるウィルマルトがくれた温かな石に触れて、折れそうな心を奮い立たせる。
だが、石から手を離せば、指差しからは温もりとともに感覚が薄れていく。
容赦無く熱を奪う、白い嵐。
すぐそこに死があることをひしひしと感じる。
胸が恐れに染まり、縮み上がる。
アウファトの足が止まる。
足先もひどく冷たい。
進めと叱咤するが、動かそうとする足を風が押さえつける。
これ以上来るなとでも言うように。
「くそ」
アウファトは小さく唸った。誰に向けるでもなく、自らに向けたものだった。
進まなければ、死があるだけだ。
なのに、その足は動かない。悲しいくらいに、前に進んではくれなかった。
「ああ、困るよ。まだ、だめだ」
この緊迫した中、恐ろしく間延びした、穏やかな澄んだ男の声がアウファトの耳に届いた。
優しい声なのに、それは吹き荒れる風の音に掻き消されることもなくはっきりと聞こえた。
「は?」
思わず声を上げた。その声すら風が掻き消していくのに。まるで直接頭の中に響いているような、鮮明な、穏やかな男の声。
周りに人の気配はない。ただ吹き荒れる白い嵐があるだけだ。
幻聴などではない、吹き荒れる風の中でもはっきり聞こえる、すぐ隣にいるような声だった。
「君には、会わせたい子がいるのに」
何かが、磁針を握った手を掴んだ。目を凝らす。何も見えないが、手のような気がする。
それが手だと思うのは、うっすらと温もりがあるからだ。
「おいで。こちらだ」
強すぎず弱すぎず、その手からは明らかにアウファトをどこかに連れて行こうという意思が伺えた。
つられるように、足が動く。引きずられるようにして、アウファトは少しずつ歩みを進めた。
遺跡に幽霊が出るという噂はたびたび耳にするが、こんなところに幽霊が出るなんて話は聞いたことがなかったし、自分がそんなものに遭遇するとも思わなかった。
「はやく、目覚めさせてあげて。あの子もそれを待ってる」
何のことを言っているのかわからなかったが、不思議と恐怖はない。
子どもを諭すような、優しく穏やかな声。
「あんたは、誰だ」
アウファトの問いに答えはない。
一方的に聞こえてくるこの声は何なのか。
「今度はちゃんと、開けられるはずだよ」
今度は、ちゃんと、開けられる?
聞こえた言葉を反芻する。
アウファトの頭の中にあるのは一つだけだった。
白い揺籠のことだ。
「ゼジニア?」
口をついて出たその単語に、アウファトも驚いていた。
白く塗りつぶされた視界に、振り返る人影と微笑みが見えた気がした。揺れる白い髪に、赤い瞳。それが細められ、笑った気配がした。
それに、どういうわけか勇気付けられた。
優しく手を引く何かに導かれるまま、アウファトは引き摺るように足を進める。
そうやってどれくらい進んだかわからない。不意に目の前が開けた。
途端に手を引くものがなくなり、よろめいたアウファトは薄く雪の積もった石畳の上に転がった。
慌てて身体を起こし周りを見回すが、誰もいない。そばには取り落とした磁針が転がっていた。
極限状態で、幻覚でも見たのだろうか。
会わせたい子、とは、何なのか。
今の声は誰だったのか。
白い揺籠に関係のある、誰かなのか。
アウファトの問いに答えないまま、アウファトを導いてくれた気配は、もう跡形もない。
釈然としないまま、アウファトは取り落とした磁針を拾い上げる。
何はともあれ、白い嵐を越えたようだった。アウファトはもう一度辺りを見回す。
荒れ狂う吹雪を抜けて到達したのは、かつての王都リウストラ。
アウファトのたどり着いたそこは、粉のような雪が積もった、広場の入り口のようだった。
向こうには、霞んだ王宮、白い柩が見える。
王宮の前の広場は地吹雪が起こり、アウファトの背丈よりもずっと高い氷柱がひとつ、墓標のように聳えていた。
そこは、かつての王都の中央広場だった。まっすぐ進めば、白い柩、リウストラの王宮がある。
ここが、王が処刑されたと言われる広場だった。
王の最後の地であること、王宮が白い石でできていることから、白い柩と呼ばれている。
アウファトは静かに立ち上がる。目的地はすぐそこだ。
夜明けがやってくる。
青白い薄明かりの中、アウファトは起き出した。行程二日目の始まりだった。
まだ夜の気配の残る丘の上で天幕を手早く片付ける。ひとり分の天幕は、片付けるのはさほど苦ではなかった。単純な骨組みと水を弾く生地で作られた簡単なつくりの天幕は、あっという間に畳まれ、荷物の中にしまわれた。
仰いだ東の空は薄明るいが、空には厚く大きな雲が多く見える。
今日は荒れるかもしれない。
アウファトは天候が大きく崩れないことを祈りながら荷物を背負い、丘を降りた。
二日目は、ひたすら街道を北に向かう。草地は徐々に枯れ始め、草地というより荒地といった方が相応しい有様だった。所々、残雪が見え始める。
白い柩へと近付いている証拠だ。
北へ進むにつれ、雲は厚くなり風の温度も下がる。
そして、ついに雪が降り始めた。
アウファトの願いも虚しく、天候はたちまち悪くなった。
風雪は弱まるような様子もなく、覚悟はしていたが、この時期にしては強い吹雪になった。
それはまるで、白い揺籠を暴こうとするアウファトが王都へ近付くのを拒んでいるようにも思えた。
何度も地図と方角を確認する。残りは真北へ向かうだけ。半日ほどの道のりだ。
アウファトは地図をしまい、その手に方位磁針を握った。初めての調査の時にミシュアがくれたもので、調査には必ず持ってくるお守りのようなものだった。
唸りを上げて容赦無く体温を奪う風は、本当に竜王の咆哮のようだった。
冷たい怒りは、体温とともに体力も奪っていく。
もはや道標となるものは何も見えず、足元にあるはずの石畳の感触も曖昧だった。
時間の感覚は死に、視界は白く閉ざされた。
吹き荒れる白い欠片は密度を増し、手にした磁針も朧げだった。
これで方位まで見失っては、アウファトに残されたのは死だけだ。
体温を全て奪われて、ただの冷たい肉になる。
背を冷たいものが這い上がり、アウファトは身震いした。
アウファトは厚い手袋越しの磁針の感触を確かめる。
もはやこれだけがアウファトを導くものだった。
懐に入れてあるウィルマルトがくれた温かな石に触れて、折れそうな心を奮い立たせる。
だが、石から手を離せば、指差しからは温もりとともに感覚が薄れていく。
容赦無く熱を奪う、白い嵐。
すぐそこに死があることをひしひしと感じる。
胸が恐れに染まり、縮み上がる。
アウファトの足が止まる。
足先もひどく冷たい。
進めと叱咤するが、動かそうとする足を風が押さえつける。
これ以上来るなとでも言うように。
「くそ」
アウファトは小さく唸った。誰に向けるでもなく、自らに向けたものだった。
進まなければ、死があるだけだ。
なのに、その足は動かない。悲しいくらいに、前に進んではくれなかった。
「ああ、困るよ。まだ、だめだ」
この緊迫した中、恐ろしく間延びした、穏やかな澄んだ男の声がアウファトの耳に届いた。
優しい声なのに、それは吹き荒れる風の音に掻き消されることもなくはっきりと聞こえた。
「は?」
思わず声を上げた。その声すら風が掻き消していくのに。まるで直接頭の中に響いているような、鮮明な、穏やかな男の声。
周りに人の気配はない。ただ吹き荒れる白い嵐があるだけだ。
幻聴などではない、吹き荒れる風の中でもはっきり聞こえる、すぐ隣にいるような声だった。
「君には、会わせたい子がいるのに」
何かが、磁針を握った手を掴んだ。目を凝らす。何も見えないが、手のような気がする。
それが手だと思うのは、うっすらと温もりがあるからだ。
「おいで。こちらだ」
強すぎず弱すぎず、その手からは明らかにアウファトをどこかに連れて行こうという意思が伺えた。
つられるように、足が動く。引きずられるようにして、アウファトは少しずつ歩みを進めた。
遺跡に幽霊が出るという噂はたびたび耳にするが、こんなところに幽霊が出るなんて話は聞いたことがなかったし、自分がそんなものに遭遇するとも思わなかった。
「はやく、目覚めさせてあげて。あの子もそれを待ってる」
何のことを言っているのかわからなかったが、不思議と恐怖はない。
子どもを諭すような、優しく穏やかな声。
「あんたは、誰だ」
アウファトの問いに答えはない。
一方的に聞こえてくるこの声は何なのか。
「今度はちゃんと、開けられるはずだよ」
今度は、ちゃんと、開けられる?
聞こえた言葉を反芻する。
アウファトの頭の中にあるのは一つだけだった。
白い揺籠のことだ。
「ゼジニア?」
口をついて出たその単語に、アウファトも驚いていた。
白く塗りつぶされた視界に、振り返る人影と微笑みが見えた気がした。揺れる白い髪に、赤い瞳。それが細められ、笑った気配がした。
それに、どういうわけか勇気付けられた。
優しく手を引く何かに導かれるまま、アウファトは引き摺るように足を進める。
そうやってどれくらい進んだかわからない。不意に目の前が開けた。
途端に手を引くものがなくなり、よろめいたアウファトは薄く雪の積もった石畳の上に転がった。
慌てて身体を起こし周りを見回すが、誰もいない。そばには取り落とした磁針が転がっていた。
極限状態で、幻覚でも見たのだろうか。
会わせたい子、とは、何なのか。
今の声は誰だったのか。
白い揺籠に関係のある、誰かなのか。
アウファトの問いに答えないまま、アウファトを導いてくれた気配は、もう跡形もない。
釈然としないまま、アウファトは取り落とした磁針を拾い上げる。
何はともあれ、白い嵐を越えたようだった。アウファトはもう一度辺りを見回す。
荒れ狂う吹雪を抜けて到達したのは、かつての王都リウストラ。
アウファトのたどり着いたそこは、粉のような雪が積もった、広場の入り口のようだった。
向こうには、霞んだ王宮、白い柩が見える。
王宮の前の広場は地吹雪が起こり、アウファトの背丈よりもずっと高い氷柱がひとつ、墓標のように聳えていた。
そこは、かつての王都の中央広場だった。まっすぐ進めば、白い柩、リウストラの王宮がある。
ここが、王が処刑されたと言われる広場だった。
王の最後の地であること、王宮が白い石でできていることから、白い柩と呼ばれている。
アウファトは静かに立ち上がる。目的地はすぐそこだ。
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