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アムの意味
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西の空を満たす赤みの差した光は薄れて、研究室は随分と暗くなっていた。まもなく日没だ。
追加分の報告書のまとめを終えたアウファトは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
街には明かりが灯り始めている。
アウファトも机の上の燭台に明かりを灯す。ウィルマルトがくれた石の燭台は、火を使わなくて済むので重宝していた。
ジェジーニアの静かな寝息はずっと続いている。
掛けてやった毛布が、寝息に合わせてゆっくりと上下している。
静かな部屋に、扉を叩く乾いた音が響いた。
こんな時間にここを訪れる人間は少ない。アウファトは席を立つと戸口へと向かう。
「よお、首席殿。まだこっちにいたのか」
扉を開けると、ミシュアがいた。どうやら、一度宿舎を訪ねてからこちらへ来てくれたようだった。
「ミシュア、わざわざすまない」
「どうした、報告書で詰まったか?」
アウファトはミシュアを招き入れた。
ミシュアは慣れた様子で整ったアウファトの執務机の上に腰掛ける。まるで悪戯好きな子供のようだ。
アウファトは座っていた椅子に戻った。
「アムの意味、解釈について意見を聞きたい」
「それはお前の方が詳しいんじゃないか?」
「……頼む」
アウファトの縋るような目に、ミシュアは勿体ぶるようなことはしなかった。
「アム、の意味ね。護る、てのが主流だが、愛、愛する、という意味の地域もあるのは知っているだろう」
アウファトは頷く。
「お前の生まれた村の辺りの、果ての果てみたいなところには、まだアムを愛と解釈した史料やら文献があるだろ。口伝でもな。お前、あっちの出身だったよな。知らなかった訳じゃないだろうに」
もちろん知っていた。自分の生まれた村でも、アムは愛という意味で伝わっていた。
だが、王都での解釈は護るだった。悩んだが、アウファトは王都の解釈を優先した。
「こっちでは、護る、だったから……」
アウファトの歯切れの悪い言葉に、ミシュアは苦笑いを返す。
「お前の悪い癖だ。あらゆる解釈は選択肢として残しておけ」
ミシュアの声は諭すような響きだった。アウファトは返す言葉もない。
「何度も言っているだろう。お前を田舎者だと笑う奴なんて放っておけ。お前が一番誇りを持っていることは何だ。一番大切にしていることは何だ」
ミシュアの問いは、アウファトが迷うたびに投げかけられるものだった。
「真実に、到達すること」
「そうだろう?」
ミシュアはようやく笑った。
「ならば、その誇りはそのために使え。お前の魂は高潔だ。そう簡単に汚れたりしない」
ミシュアの澄んだ声は、アウファトに勇気をくれる。竜人の声には魔力があるというのも頷ける。不安の影が落ちたアウファトの胸に、光が灯された気がした。
部屋に沈黙が流れ、歌うような、柔らかな音が二人のもとに届いた。鈴の転がるような、美しい音色。
「なんの音だ?」
「竜人だ。北の遺跡で拾った。その、厳密に言えば黒き竜王の子だ」
「は、竜王だと?」
「ティスタリオ卿が、そうだと」
ミシュアの目が大きく見開かれる。アウファトの視線につられて、青緑の煌めきが応接席に向いた。毛布の端からは、四本角と長い尾が覗いている。
「四本角……黒い鱗……黒鱗の君か」
黒鱗の君。黒き竜王の別名だった。
「白い揺籠にいたのか?」
ミシュアの問いにアウファトが頷く。
ミシュアは顎をさする。
「本当に入れたのか」
「ああ」
「お前、白き花の一族なんじゃないのか。あの入口の宣誓文にある善なるものは、白き花の一族のことだろう」
「あれは、ただの伝承じゃないのか?」
「意味のない伝承はない」
ミシュアの言葉に、アウファトは息を呑んだ。
忘れていたわけではない。
背筋が冷えた気がしたのは、あの扉に刻まれた文を思い出したからだ。
誓約、呪詛、愛。そして、ランダリムの名の下にという言葉と、その意味。
「竜人の求愛の歌はわかるな?」
「あぁ」
竜人は、つがいに対して喉を鳴らして歌う。求愛の歌だ。愛していると、歌で伝える。それはアウファトも聞いたことがあった。
「竜王でも、それはおそらく同じ。あの子は、お前をつがいにするつもりでいる。いや、もうつがいになったという認識でいるのか」
思い出すのは、発情したジェジーニアの項を舐め、甘噛みするそぶり。ずっと囁かれる愛の言葉。歌うように鳴る喉。
心臓が強く脈打つ。
全部、竜人の求愛の行動と同じだ。
「どうした?」
「一昨日、ジェジーニアに、その」
アウファトは口籠る。あのことを話してもいいものか躊躇っていた。
「襲われた」
「は? なんだ、噛まれでもしたか?」
「いや、その」
気心の知れたミシュア相手とはいえ、こんな話をしてしまうのはどうかと思った。しかしながら、黙っているというのもなんだか気が引けて、何よりミシュアならこれに関して知恵を貸してくれないかという思いもあった。
「犯された」
「は? お前、が?」
ミシュアの反応は思ったよりも静かだった。もっと騒ぐかと思ったが、驚きすぎて声も出ないのだろうか。
「あぁ」
アウファトが躊躇いがちに頷くと、ミシュアは静かな声でアウファトに問う。
「竜人の嗅覚は鋭い。竜王となれば余計にだろう。仮にあの子がお前をつがいだと思っているとして、つがいの匂いが濃いところにいたらどうなると思う?」
ミシュアの言葉に首を捻るアウファト。
「これだから童貞は……発情だ。おそらく初めてだったんだろう。コントロールできなくてあの子も苦しかったはずだ。見たところ、まだ若そうだ。人間ならいいところ二十かそこらだろう。もしかしたらもう少し若いかもな」
ミシュアは続けた。
「成人した竜人はつがいの匂いが濃くなると発情する。まあ、生理現象みたいなもんだ。竜王も同じとは限らないが、上位の存在であればそれが強く現れることも考えられる。災難だったな。身体は大丈夫なのか」
「なんとか。あの子が、治してくれた」
「へぇ。治癒か……魔力酔いにはならなかったのか?」
「魔力酔い?」
「治癒なら魔力を送られるから、受ける側は相性が悪いと魔力酔いが出易い」
「あぁ、多分、大丈夫……」
流石に尻を舐められたなんて言えず、アウファトは口を噤んだ。
「そうか、相性がいいんだろうな」
ミシュアは目を細める。その表情はいつになく穏やかだ。
「だめ」
聞き慣れた声とともに身体を引き寄せられて、アウファトの視界がぐらついた。
「お目覚めか」
ミシュアの声は、アウファトの背後に向けられている。しっかりと腕を回されて、アウファトは身動きが取れない。
「あうは、おれのつがいだ」
アウファトを腕の中に閉じ込めて、ジェジーニアはぐるると喉を低く鳴らしてミシュアを睨め付ける。
ジェジーニアはまた、何か勘違いをしているようだった。
追加分の報告書のまとめを終えたアウファトは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
街には明かりが灯り始めている。
アウファトも机の上の燭台に明かりを灯す。ウィルマルトがくれた石の燭台は、火を使わなくて済むので重宝していた。
ジェジーニアの静かな寝息はずっと続いている。
掛けてやった毛布が、寝息に合わせてゆっくりと上下している。
静かな部屋に、扉を叩く乾いた音が響いた。
こんな時間にここを訪れる人間は少ない。アウファトは席を立つと戸口へと向かう。
「よお、首席殿。まだこっちにいたのか」
扉を開けると、ミシュアがいた。どうやら、一度宿舎を訪ねてからこちらへ来てくれたようだった。
「ミシュア、わざわざすまない」
「どうした、報告書で詰まったか?」
アウファトはミシュアを招き入れた。
ミシュアは慣れた様子で整ったアウファトの執務机の上に腰掛ける。まるで悪戯好きな子供のようだ。
アウファトは座っていた椅子に戻った。
「アムの意味、解釈について意見を聞きたい」
「それはお前の方が詳しいんじゃないか?」
「……頼む」
アウファトの縋るような目に、ミシュアは勿体ぶるようなことはしなかった。
「アム、の意味ね。護る、てのが主流だが、愛、愛する、という意味の地域もあるのは知っているだろう」
アウファトは頷く。
「お前の生まれた村の辺りの、果ての果てみたいなところには、まだアムを愛と解釈した史料やら文献があるだろ。口伝でもな。お前、あっちの出身だったよな。知らなかった訳じゃないだろうに」
もちろん知っていた。自分の生まれた村でも、アムは愛という意味で伝わっていた。
だが、王都での解釈は護るだった。悩んだが、アウファトは王都の解釈を優先した。
「こっちでは、護る、だったから……」
アウファトの歯切れの悪い言葉に、ミシュアは苦笑いを返す。
「お前の悪い癖だ。あらゆる解釈は選択肢として残しておけ」
ミシュアの声は諭すような響きだった。アウファトは返す言葉もない。
「何度も言っているだろう。お前を田舎者だと笑う奴なんて放っておけ。お前が一番誇りを持っていることは何だ。一番大切にしていることは何だ」
ミシュアの問いは、アウファトが迷うたびに投げかけられるものだった。
「真実に、到達すること」
「そうだろう?」
ミシュアはようやく笑った。
「ならば、その誇りはそのために使え。お前の魂は高潔だ。そう簡単に汚れたりしない」
ミシュアの澄んだ声は、アウファトに勇気をくれる。竜人の声には魔力があるというのも頷ける。不安の影が落ちたアウファトの胸に、光が灯された気がした。
部屋に沈黙が流れ、歌うような、柔らかな音が二人のもとに届いた。鈴の転がるような、美しい音色。
「なんの音だ?」
「竜人だ。北の遺跡で拾った。その、厳密に言えば黒き竜王の子だ」
「は、竜王だと?」
「ティスタリオ卿が、そうだと」
ミシュアの目が大きく見開かれる。アウファトの視線につられて、青緑の煌めきが応接席に向いた。毛布の端からは、四本角と長い尾が覗いている。
「四本角……黒い鱗……黒鱗の君か」
黒鱗の君。黒き竜王の別名だった。
「白い揺籠にいたのか?」
ミシュアの問いにアウファトが頷く。
ミシュアは顎をさする。
「本当に入れたのか」
「ああ」
「お前、白き花の一族なんじゃないのか。あの入口の宣誓文にある善なるものは、白き花の一族のことだろう」
「あれは、ただの伝承じゃないのか?」
「意味のない伝承はない」
ミシュアの言葉に、アウファトは息を呑んだ。
忘れていたわけではない。
背筋が冷えた気がしたのは、あの扉に刻まれた文を思い出したからだ。
誓約、呪詛、愛。そして、ランダリムの名の下にという言葉と、その意味。
「竜人の求愛の歌はわかるな?」
「あぁ」
竜人は、つがいに対して喉を鳴らして歌う。求愛の歌だ。愛していると、歌で伝える。それはアウファトも聞いたことがあった。
「竜王でも、それはおそらく同じ。あの子は、お前をつがいにするつもりでいる。いや、もうつがいになったという認識でいるのか」
思い出すのは、発情したジェジーニアの項を舐め、甘噛みするそぶり。ずっと囁かれる愛の言葉。歌うように鳴る喉。
心臓が強く脈打つ。
全部、竜人の求愛の行動と同じだ。
「どうした?」
「一昨日、ジェジーニアに、その」
アウファトは口籠る。あのことを話してもいいものか躊躇っていた。
「襲われた」
「は? なんだ、噛まれでもしたか?」
「いや、その」
気心の知れたミシュア相手とはいえ、こんな話をしてしまうのはどうかと思った。しかしながら、黙っているというのもなんだか気が引けて、何よりミシュアならこれに関して知恵を貸してくれないかという思いもあった。
「犯された」
「は? お前、が?」
ミシュアの反応は思ったよりも静かだった。もっと騒ぐかと思ったが、驚きすぎて声も出ないのだろうか。
「あぁ」
アウファトが躊躇いがちに頷くと、ミシュアは静かな声でアウファトに問う。
「竜人の嗅覚は鋭い。竜王となれば余計にだろう。仮にあの子がお前をつがいだと思っているとして、つがいの匂いが濃いところにいたらどうなると思う?」
ミシュアの言葉に首を捻るアウファト。
「これだから童貞は……発情だ。おそらく初めてだったんだろう。コントロールできなくてあの子も苦しかったはずだ。見たところ、まだ若そうだ。人間ならいいところ二十かそこらだろう。もしかしたらもう少し若いかもな」
ミシュアは続けた。
「成人した竜人はつがいの匂いが濃くなると発情する。まあ、生理現象みたいなもんだ。竜王も同じとは限らないが、上位の存在であればそれが強く現れることも考えられる。災難だったな。身体は大丈夫なのか」
「なんとか。あの子が、治してくれた」
「へぇ。治癒か……魔力酔いにはならなかったのか?」
「魔力酔い?」
「治癒なら魔力を送られるから、受ける側は相性が悪いと魔力酔いが出易い」
「あぁ、多分、大丈夫……」
流石に尻を舐められたなんて言えず、アウファトは口を噤んだ。
「そうか、相性がいいんだろうな」
ミシュアは目を細める。その表情はいつになく穏やかだ。
「だめ」
聞き慣れた声とともに身体を引き寄せられて、アウファトの視界がぐらついた。
「お目覚めか」
ミシュアの声は、アウファトの背後に向けられている。しっかりと腕を回されて、アウファトは身動きが取れない。
「あうは、おれのつがいだ」
アウファトを腕の中に閉じ込めて、ジェジーニアはぐるると喉を低く鳴らしてミシュアを睨め付ける。
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