2 / 63
竜王祭の夜
しおりを挟む
日は暮れ、王都メイエヴァードの街を照らす光は薄れていた。石造りの街並みは濃くなる夜の色に染まりつつあった。
夜が訪れてなお賑わいの絶えない通りには金色の灯りを灯す露店が連なり、街の賑わいに花を添えている。
人で溢れる通りを、息を切らせて走る青年の姿があった。並ぶ露店には目もくれず、真っ直ぐに前だけ見て走る足取りに迷いはない。
奥二重の瞼の下、くすんだ淡い青の瞳には少年のように純粋な光を湛えていた。
足取りに合わせて揺れる髪は顎の下辺りまでの長さで、灯りはじめた街の明かりが美しく照らす。
顔立ちは、美醜を言えば決して悪くはない。が、本人は自分の見た目には頓着がないようだった。髪は伸ばしっぱなし、公的な場に出ることがなければ髭も剃らない。現に今も顎や頬には無精髭が見える。
平均より少し高い背丈と細身の体躯のせいでひょろりとした印象を受ける彼は、よれたシャツに座りじわの目立つ脚衣という服装も相俟って、冴えない優男といった風体だった。
街を颯爽と駆ける彼が飛び込んだのは、外にまで賑わいの漏れてくる酒場だった。
夜の酒場は所狭しと人で溢れかえり、話し声と酒を求める声に満ちていた。
「いらっしゃい、アウファト。いつもの席は空けてあるよ」
カウンターの奥にいる店主の声に、アウファトと呼ばれた男は手を挙げて挨拶をすると、店の奥、窓際にあるの半個室のような席に向かう。
数多の声で賑わう店の中、その席だけ店内から切り取られたかのように静かな空気が流れていた。
少しばかり手狭なため好んで座るもののいない席は、ほとんど彼のための場所になっていた。
彼の名はアウファト・クイレム。歳は三十になる。くたびれた格好をしているが、国の機関で研究をしている学者である。
アウファトはこの店の常連だった。
席についたアウファトのもとに、よく通る声で不躾な言葉が飛んできた。
「真面目だな。俺にばかり構ってないで、たまには女でも抱いたらどうだ」
それが自分に向けて放たれたであろうことはその声を聞けばわかった。アウファトは指先を髪に絡め、わずかに苛立ちを滲ませてくすんだ青の瞳を声の主に向けた。
「そういう気分じゃない」
低く唸るように声を上げたアウファトは俯きがちな顔を持ち上げ、眉を寄せて声の主を睨んだ。
「よお、主席殿」
アウファトの苛立ちなどどこ吹く風で、男は悪びれた様子もなく右手を挙げ挨拶をした。アウファトの視線の先、声の主は青と緑を混ぜた綺麗な色の瞳を持った美しい男だった。頬の辺りまでの長さの灰色がかった淡い茶色の髪は、襟足だけ肩のあたりまで伸びている。
少年のような幼さの残る顔立ちのせいか、アウファトよりも少し若く見える。
不躾な物言いはいつものことだった。いちいち腹を立てている方が時間の無駄だとさすがに学習したが、毎回手を変え品を変え揶揄ってくる男に、アウファトはいつも振り回されていた。
「酒場にいる時点で十分不真面目だろ、ミシュア」
ミシュアと呼ばれた男は笑みを浮かべてアウファトの正面に座り、宝石のように澄んだ瞳を真っ直ぐにアウファトに向ける。
「なんだよ、ご機嫌斜めだな。酒は飲んでないのか?」
張りのある声は若々しく、アウファトに対して遠慮は見えない。ミシュアはアウファトの古い馴染みだった。アウファトとは学者仲間であり、アウファトの先輩で師匠でもあった。
年齢よりも若く見えるミシュアだが、アウファトよりも五つ年上だ。
ご機嫌斜めなのはお前のせいだと言ってやりたいのを堪えて、アウファトは静かな声で応えた。
「飲んでない。今来たところだ」
アウファトを見て薄く笑うと、ミシュアは店内を忙しなく駆け回る店員に声をかけた。
「すまない、酒をくれ。一番うまいやつ」
「お茶も」
「あいよ」
アウファトもミシュアに便乗してお茶を頼んだ。
「酒じゃないのか」
「ああ」
アウファトは酒が得意ではなかった。特に近頃は飲んでもすぐに酔ってしまって、人と話をするどころではなくなってしまう。そのため、余程のことがない限りは酒場に来ても飲むのは冷たいお茶にしていた。
「お前、そんなに弱かったか?」
「言うほど強くもない」
アウファトがミシュアを呼び出したのはこんな他愛ない話をするためではなかった。ミシュアもそれはわかっているのか、話を聞き出そうと身を乗り出した。
「で、何があったんだ?」
青緑色の宝石のような瞳を期待に煌めかせるミシュアは、少年のようだった。その視線は真っ直ぐにアウファトに向く。
期待に満ちた視線に若干気圧されながらも、勿体ぶる話でもないのでアウファトは本題を切り出した。
「白い柩の単独調査が決まった」
アウファトの抑揚の少ない声に、ミシュアはその瞳が零れそうなくらい目を見開いた。こころなしか頰も赤みが差している。
アウファトが口にした言葉は、ミシュアを高揚させるのには十分なもののようだった。
アウファトのもとに国王から白い柩の単独調査の許可が下りたのは、三日前のことだった。
夜が訪れてなお賑わいの絶えない通りには金色の灯りを灯す露店が連なり、街の賑わいに花を添えている。
人で溢れる通りを、息を切らせて走る青年の姿があった。並ぶ露店には目もくれず、真っ直ぐに前だけ見て走る足取りに迷いはない。
奥二重の瞼の下、くすんだ淡い青の瞳には少年のように純粋な光を湛えていた。
足取りに合わせて揺れる髪は顎の下辺りまでの長さで、灯りはじめた街の明かりが美しく照らす。
顔立ちは、美醜を言えば決して悪くはない。が、本人は自分の見た目には頓着がないようだった。髪は伸ばしっぱなし、公的な場に出ることがなければ髭も剃らない。現に今も顎や頬には無精髭が見える。
平均より少し高い背丈と細身の体躯のせいでひょろりとした印象を受ける彼は、よれたシャツに座りじわの目立つ脚衣という服装も相俟って、冴えない優男といった風体だった。
街を颯爽と駆ける彼が飛び込んだのは、外にまで賑わいの漏れてくる酒場だった。
夜の酒場は所狭しと人で溢れかえり、話し声と酒を求める声に満ちていた。
「いらっしゃい、アウファト。いつもの席は空けてあるよ」
カウンターの奥にいる店主の声に、アウファトと呼ばれた男は手を挙げて挨拶をすると、店の奥、窓際にあるの半個室のような席に向かう。
数多の声で賑わう店の中、その席だけ店内から切り取られたかのように静かな空気が流れていた。
少しばかり手狭なため好んで座るもののいない席は、ほとんど彼のための場所になっていた。
彼の名はアウファト・クイレム。歳は三十になる。くたびれた格好をしているが、国の機関で研究をしている学者である。
アウファトはこの店の常連だった。
席についたアウファトのもとに、よく通る声で不躾な言葉が飛んできた。
「真面目だな。俺にばかり構ってないで、たまには女でも抱いたらどうだ」
それが自分に向けて放たれたであろうことはその声を聞けばわかった。アウファトは指先を髪に絡め、わずかに苛立ちを滲ませてくすんだ青の瞳を声の主に向けた。
「そういう気分じゃない」
低く唸るように声を上げたアウファトは俯きがちな顔を持ち上げ、眉を寄せて声の主を睨んだ。
「よお、主席殿」
アウファトの苛立ちなどどこ吹く風で、男は悪びれた様子もなく右手を挙げ挨拶をした。アウファトの視線の先、声の主は青と緑を混ぜた綺麗な色の瞳を持った美しい男だった。頬の辺りまでの長さの灰色がかった淡い茶色の髪は、襟足だけ肩のあたりまで伸びている。
少年のような幼さの残る顔立ちのせいか、アウファトよりも少し若く見える。
不躾な物言いはいつものことだった。いちいち腹を立てている方が時間の無駄だとさすがに学習したが、毎回手を変え品を変え揶揄ってくる男に、アウファトはいつも振り回されていた。
「酒場にいる時点で十分不真面目だろ、ミシュア」
ミシュアと呼ばれた男は笑みを浮かべてアウファトの正面に座り、宝石のように澄んだ瞳を真っ直ぐにアウファトに向ける。
「なんだよ、ご機嫌斜めだな。酒は飲んでないのか?」
張りのある声は若々しく、アウファトに対して遠慮は見えない。ミシュアはアウファトの古い馴染みだった。アウファトとは学者仲間であり、アウファトの先輩で師匠でもあった。
年齢よりも若く見えるミシュアだが、アウファトよりも五つ年上だ。
ご機嫌斜めなのはお前のせいだと言ってやりたいのを堪えて、アウファトは静かな声で応えた。
「飲んでない。今来たところだ」
アウファトを見て薄く笑うと、ミシュアは店内を忙しなく駆け回る店員に声をかけた。
「すまない、酒をくれ。一番うまいやつ」
「お茶も」
「あいよ」
アウファトもミシュアに便乗してお茶を頼んだ。
「酒じゃないのか」
「ああ」
アウファトは酒が得意ではなかった。特に近頃は飲んでもすぐに酔ってしまって、人と話をするどころではなくなってしまう。そのため、余程のことがない限りは酒場に来ても飲むのは冷たいお茶にしていた。
「お前、そんなに弱かったか?」
「言うほど強くもない」
アウファトがミシュアを呼び出したのはこんな他愛ない話をするためではなかった。ミシュアもそれはわかっているのか、話を聞き出そうと身を乗り出した。
「で、何があったんだ?」
青緑色の宝石のような瞳を期待に煌めかせるミシュアは、少年のようだった。その視線は真っ直ぐにアウファトに向く。
期待に満ちた視線に若干気圧されながらも、勿体ぶる話でもないのでアウファトは本題を切り出した。
「白い柩の単独調査が決まった」
アウファトの抑揚の少ない声に、ミシュアはその瞳が零れそうなくらい目を見開いた。こころなしか頰も赤みが差している。
アウファトが口にした言葉は、ミシュアを高揚させるのには十分なもののようだった。
アウファトのもとに国王から白い柩の単独調査の許可が下りたのは、三日前のことだった。
16
お気に入りに追加
137
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】冷血孤高と噂に聞く竜人は、俺の前じゃどうも言動が伴わない様子。
N2O
BL
愛想皆無の竜人 × 竜の言葉がわかる人間
ファンタジーしてます。
攻めが出てくるのは中盤から。
結局執着を抑えられなくなっちゃう竜人の話です。
表紙絵
⇨ろくずやこ 様 X(@Us4kBPHU0m63101)
挿絵『0 琥』
⇨からさね 様 X (@karasane03)
挿絵『34 森』
⇨くすなし 様 X(@cuth_masi)
◎独自設定、ご都合主義、素人作品です。
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる