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神婚 編
神婚編 第3話(最終話) 第3幕「ひとひらの花雪」
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1
それから約一年後、我は修行のために諸国遍歴の長い旅に出た。
杪冬の頃、懐かしき彼の屋敷の前を通りかかった。ふと立ち止まり、網代笠を左手でちょいと上げ、懐かしき屋敷を見上げる。
十余年ぶりの屋敷は、昔と何ら変わった気配もないままに、相変わらずひっそりとした佇まいを見せていた。白梅の花びらのような儚げに薄く輝く淡雪の中に静と浮かび上がっていた。
ーーー今も兄はこの家に住んでいるのだろか。
ひょっとしたらもう妻を迎え、子も居るかもしれないのではないだろうか。そしてまた、あの儀式はその子へ孫へと受け継がれ、永遠に繰り返されてゆくのだろう。
雪片の舞う中、前方から近づいてくる人影が見えた。
猫のように丸まった背中の見窄(みすぼら)らしい年老いの男が、左手で小枝の杖をついてよたよたとこちらへ歩いて来くる。男は、四つになるかならぬかの小さな少年の左手をしかと大事に右の手で握り締めている。その幼子は気遣いを見せながら男の手を引き、行く道を導くように寄り添っていた・・・男は盲(めし)いているようだ。
男は我に近づくと、何かの気配を感じたように恭しく頭を下げた。我もそっと頭を下げながら、ちらりと男の顔をのぞき込んだ。
刹那、息を飲む程の衝撃を受けた。
盲目の男は我の兄であったのだ。
その容貌は別人の如く変わり果て、昔のあの美しかった兄の面影はほとんどなかった。その顔は三十代前半の青年であるはずのそれではなく、老人のように皺だらけであった。
兄には幼い頃から右のこめかみに三つのイボ状の黒子があった。もし我がその右のこめかみの三つ黒子を見ていなかったならば兄だとは気が付かなかっただろう。それほど変貌していたのだ。
兄の後ろ姿を我は顧みた。兄の背はとても頼りないほどに小さく見えた。
ーーーなぜ?まさか、わたしのせいで?まさか・・・。
突如、兄ははっと何かに気付いたように我のほうを振り返った。そして一言。
「実亮(さねふさ)・・・なのか?」
呻くように我は固い声を漏らした。
「兄上?」
「やはり、お前なのか?何故、此の地へ戻って来たのだ?」
「兄上、申し訳ございませぬ。絶対に来まいと、そう心に誓っていた筈なのに、つい兄上の身が気になって・・・。父上や母上にはお変わりは?」
「母上は相変わらずだ。父上はもうこの世にはおられない。お前が家を出て、直ぐに亡くなられたのだ。そして私もこのとおり老いさらばえた姿となり、盲目となってしまっている。だが六年前に妻を迎え、今では三人の子の親だ。今連れているこの子は一番下で、この上に二人の姉がいるのだよ。」
兄は苦笑交じりに云った。我は青ざめて兄に問うた。
「まさか・・・父上も兄上も私の代わりに神罰を?」
「いや。それは違う。お前のせいでは決してないよ。」
兄上は優しく微笑んだ。
しかし、我には判る。あのとき、父上も兄上も自分たちの命を引き換えに我を助けたのだ。兄は真顔になって問うた。
「実亮、お前は今、幸せか?」
我は一瞬、戸惑いを感じながらはっきりと云った。
「はい。」
兄は心から満足そうな顔をして頷き、一言、
「そうか。」
再び、子を連れたって踵を返し屋敷の門の中へ姿を消していった。
2
我は独り灰色の虚空を瑟々と吹きすさぶ雪風を仰ぎながら、屋敷を背に踵を返し、再び皓然とした路に歩みを進めた。
我の手のひらに一片ひとひらのやわらかな小雪が舞い降りる。
冷たいはずのそれは、何故か、暖かく優しく感ぜられた。
ぎゅっとその手を握り締め、胸の奥底から熱く込み上げてくるものを必死に堪こらえた。
緩やかな時の流れは優しくて、それでいて残酷で・・・。
だが、あの時の兄の顔ーーー我が幸せであると答えたときの兄の顔は、多分、我が知っている限りの内では一番良い笑顔だったのかもしれぬ。
それだけが我の心の中で暖かいものとなって、我を支えている。
シャンシャンという錫杖の静かな音が、轟々たる吹雪の音に溶け込み、涅槃の境地へと旅立ち消えてゆくように、寂々と純白の清らかな世界へと響く。
人知れず涙が一筋、流れ落つーーー。
それは兄の相変わらずの暖かさに触れた懐かしさへの涙か、それともはかない一時の命である淡雪たちへの哀れみの涙か、それとも?
それは自身にも判らなかった。
唯、ただ風が、冷たい風が何かを訴え掛けるかのように心に焼き付けられた傷痕へ痛切となって滲みるのである。
淡雪は静かに黙したまま、兄と少年のそして我の薄い足跡を次々と白くかき消してゆく。そして我は錫杖の震える音と新しい足跡を落としてゆくのである。
雪は月に照らし出されて蒼く輝いていた。
まるで月の雫が大地へ溶け込んでいったかのように。
それから約一年後、我は修行のために諸国遍歴の長い旅に出た。
杪冬の頃、懐かしき彼の屋敷の前を通りかかった。ふと立ち止まり、網代笠を左手でちょいと上げ、懐かしき屋敷を見上げる。
十余年ぶりの屋敷は、昔と何ら変わった気配もないままに、相変わらずひっそりとした佇まいを見せていた。白梅の花びらのような儚げに薄く輝く淡雪の中に静と浮かび上がっていた。
ーーー今も兄はこの家に住んでいるのだろか。
ひょっとしたらもう妻を迎え、子も居るかもしれないのではないだろうか。そしてまた、あの儀式はその子へ孫へと受け継がれ、永遠に繰り返されてゆくのだろう。
雪片の舞う中、前方から近づいてくる人影が見えた。
猫のように丸まった背中の見窄(みすぼら)らしい年老いの男が、左手で小枝の杖をついてよたよたとこちらへ歩いて来くる。男は、四つになるかならぬかの小さな少年の左手をしかと大事に右の手で握り締めている。その幼子は気遣いを見せながら男の手を引き、行く道を導くように寄り添っていた・・・男は盲(めし)いているようだ。
男は我に近づくと、何かの気配を感じたように恭しく頭を下げた。我もそっと頭を下げながら、ちらりと男の顔をのぞき込んだ。
刹那、息を飲む程の衝撃を受けた。
盲目の男は我の兄であったのだ。
その容貌は別人の如く変わり果て、昔のあの美しかった兄の面影はほとんどなかった。その顔は三十代前半の青年であるはずのそれではなく、老人のように皺だらけであった。
兄には幼い頃から右のこめかみに三つのイボ状の黒子があった。もし我がその右のこめかみの三つ黒子を見ていなかったならば兄だとは気が付かなかっただろう。それほど変貌していたのだ。
兄の後ろ姿を我は顧みた。兄の背はとても頼りないほどに小さく見えた。
ーーーなぜ?まさか、わたしのせいで?まさか・・・。
突如、兄ははっと何かに気付いたように我のほうを振り返った。そして一言。
「実亮(さねふさ)・・・なのか?」
呻くように我は固い声を漏らした。
「兄上?」
「やはり、お前なのか?何故、此の地へ戻って来たのだ?」
「兄上、申し訳ございませぬ。絶対に来まいと、そう心に誓っていた筈なのに、つい兄上の身が気になって・・・。父上や母上にはお変わりは?」
「母上は相変わらずだ。父上はもうこの世にはおられない。お前が家を出て、直ぐに亡くなられたのだ。そして私もこのとおり老いさらばえた姿となり、盲目となってしまっている。だが六年前に妻を迎え、今では三人の子の親だ。今連れているこの子は一番下で、この上に二人の姉がいるのだよ。」
兄は苦笑交じりに云った。我は青ざめて兄に問うた。
「まさか・・・父上も兄上も私の代わりに神罰を?」
「いや。それは違う。お前のせいでは決してないよ。」
兄上は優しく微笑んだ。
しかし、我には判る。あのとき、父上も兄上も自分たちの命を引き換えに我を助けたのだ。兄は真顔になって問うた。
「実亮、お前は今、幸せか?」
我は一瞬、戸惑いを感じながらはっきりと云った。
「はい。」
兄は心から満足そうな顔をして頷き、一言、
「そうか。」
再び、子を連れたって踵を返し屋敷の門の中へ姿を消していった。
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我は独り灰色の虚空を瑟々と吹きすさぶ雪風を仰ぎながら、屋敷を背に踵を返し、再び皓然とした路に歩みを進めた。
我の手のひらに一片ひとひらのやわらかな小雪が舞い降りる。
冷たいはずのそれは、何故か、暖かく優しく感ぜられた。
ぎゅっとその手を握り締め、胸の奥底から熱く込み上げてくるものを必死に堪こらえた。
緩やかな時の流れは優しくて、それでいて残酷で・・・。
だが、あの時の兄の顔ーーー我が幸せであると答えたときの兄の顔は、多分、我が知っている限りの内では一番良い笑顔だったのかもしれぬ。
それだけが我の心の中で暖かいものとなって、我を支えている。
シャンシャンという錫杖の静かな音が、轟々たる吹雪の音に溶け込み、涅槃の境地へと旅立ち消えてゆくように、寂々と純白の清らかな世界へと響く。
人知れず涙が一筋、流れ落つーーー。
それは兄の相変わらずの暖かさに触れた懐かしさへの涙か、それともはかない一時の命である淡雪たちへの哀れみの涙か、それとも?
それは自身にも判らなかった。
唯、ただ風が、冷たい風が何かを訴え掛けるかのように心に焼き付けられた傷痕へ痛切となって滲みるのである。
淡雪は静かに黙したまま、兄と少年のそして我の薄い足跡を次々と白くかき消してゆく。そして我は錫杖の震える音と新しい足跡を落としてゆくのである。
雪は月に照らし出されて蒼く輝いていた。
まるで月の雫が大地へ溶け込んでいったかのように。
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