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虚妄の家 編
虚妄の家 編 第1話
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0 水底の都
虚空に揺れし君の袖。
汝、何故(なぜ)に泣く?
夢さがなく我愁うれう。
夢通わせた君憎し。
想いとどめし乙女が心の露(なみだ)。
哀しき愛の唄。
1 深娜月
ーーー何処ヘ風ハ行ク?
虚空を彩りながら風は、軽やかに優しく舞い踊り、彩雲へとその手を伸ばす。
鱗を模したような雲は所々朱みがかり、そして、時折、銀色金色に輝き流れ、暫しの荘厳な刻(とき)を創り出していた。
ーーー此処は何処かで見た景色。
いつもの帰り路を外れ、気まぐれにいつもとは違う路を行く。
学ランと学帽、黒塗りの鞄は、相変わらずの重たい色彩を放っている。
ーーー僕は、真っ赤に揺れる大きな残照の中に立っていた。
大きく揺らぎ燃え立つ赤い炎は、僕の影をアスファルトに焼き付け、昼間の暑い空気の流れの名残を教えていた。まるで、今の僕の心を映すように。
僕は、遠く黄昏の行く先を見つめた。脳裡を掠める蒼い影。せぴあ色の景色の中で揺れるキオク。
ーーー此処は初めて通る路。
なのになぜ?
この深い記憶の波は、いったい何処からやってくるのだろう。
見上げれば、崖の上に佇む大きな古い屋敷が見える。その崖の下には深い深い掘り。そこには清水が満々と湛えられ、ゾッとするほど碧く澄んでいた。
此処は常世(とこよ)と現世(うつしよ)の渡し沼。
此処を僕は知っている。
否、「僕」であって「僕」ではないーーーヒト。
これは魂に刻まれた「前世(かこ)」の記憶なのか?
ーーー判ラナイ。
唯、不思議な記憶の疼きが僕の脳裡を深い淵に沈めていった。
薄くゆらめく黄昏の中を一陣の風が吹き抜けた、仄かな甘酸い香りを漂わせて。
ーーー何かが来る。
僕はそんな不安に似た思いを抱えながら、風の向かう路の彼方をハッとして見つめた。
僕の瞳の先には、僕と瓜二つの男が着物姿で佇んでいた。
男は僕のほうをちょいっと振り返り、踵を返して歩みだし、そして路の彼方へと姿を消していった。
僕の足元で起こった風は何事も無かったように辺りを吹き染め、一舞すると、虚空へ逃げて行った。僕の脳裡にあの着物姿の男と白い蛇の幻影を残してーーー。
深く遥かな宵闇に町は沈んだ。
僕は自宅の門をくぐった。しかし玄関には向かわず、そのまま庭へ回って、風にあたりに行った。
高台に立つ僕の家からは、街の灯りに煌めく夜景が見下ろせる。耳を澄ますと、屋敷から一里ほど彼方とおくを走る列車の微かな音と秋虫の鳴き声が微妙な感覚で交じり合い、深め合い、宵闇の不思議な静を醸し出していた。
少し瞑想をしてから、僕は玄関へ戻り、薄明かりの灯る戸を静かに開けた。
「ただいま帰りました。」
ひっそりとした家の奥へと響く僕の声。
透き通る空気。
はた、はた、はた・・・。
忙(せわ)しく室内履(スリッパ)の音をたてながら、待っていたように手伝いの里子は、僕の立つ玄関へと小股走でやって来た。僕は右手で学ランのつめを外しながら里子に鞄を預けた。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ。」
里子はそう云って、腰を折りお辞儀をすると、満面にやわらかい笑みを浮かべながら僕の鞄を受け取った。
「ただ今戻ったよ。遅くなってしまってすまない。鞄を僕の部屋に置いといておくれ。」
そう云いかけて再び戸へ手を掛けた。奥へ行こうと踵を返しかけた里子はハッとしたように、僕を顧みた。
「坊ちゃま?このような時間にお出かけですか。一体どちらへ?」
驚いて呼び止めた里子に僕は、ニッと口の端を僅かに上げて笑って見せた。
「食事は後でいいよ。ちょっと、用事があるから外へ行って来る。」
僕は足早に玄関を後にした。
虚空に銀月が煌々と揺れていた。
生温く、纏わり付くような湿った風が、僕の足元を吹き抜けてゆく。
僕は裏木戸へ向かっていた。そこには、射干玉の夜に美しく浮かび上がる、細く白い女の影が一つ。
「裕柾・・・」
硝子細工のように壊れやすそうな程にか細く、優しく透き通った声。白く細い美しい彫刻のような指先が夜闇に彷徨った。
「深娜月(みなづき)さん」
深娜月という名の女の、雪のように白く儚げなが影が、静かにそっと僕を誘う。
僕は夢とも無い面持ちで、彼女の方へゆっくりとした足取りで近づいていった。このとき、僕の中の「理性」というものの一切がこの女によってかき消されてしまっていた。今、僕の中にあるものはこの魔性を秘めた美しい女、深娜月という名の女の存在以外、何も無い。僕の瞳は彼女以外の何ものも映すことはできなくなっていた。
しなやかな天女の腕が、ふわっと僕の首筋に絡み付いた。そして、耳元で囁く聲、熱く甘い吐息。
「祐柾、うちな、ずぅっと待っとったん。」
深娜月の、少し拗ねたような甘えた口調。砂糖菓子のように甘ったるくてなんて心地よい。まるで子守歌のようだった。
月影に浮かんだ玉虫色の唇が僕を誘う。僕は彼女の身体を両の腕で堅く抱き締め、そっと口づけを交わし合った。
人離れした美しい容貌(かたち)とその妖ういほどの危険でいて、そして透明な存在感。我を破滅へと導いてゆくような魔性の香りのする危険な女。
彼女を例えるならば蛇だ、そう、まさしく美しくぬめる白い蛇。風に残されたあの白い幻影ーーー。
ーーー彼女ハ「人」デハナイ。
心の端でそのような気すらしていた。
虚空に揺れし君の袖。
汝、何故(なぜ)に泣く?
夢さがなく我愁うれう。
夢通わせた君憎し。
想いとどめし乙女が心の露(なみだ)。
哀しき愛の唄。
1 深娜月
ーーー何処ヘ風ハ行ク?
虚空を彩りながら風は、軽やかに優しく舞い踊り、彩雲へとその手を伸ばす。
鱗を模したような雲は所々朱みがかり、そして、時折、銀色金色に輝き流れ、暫しの荘厳な刻(とき)を創り出していた。
ーーー此処は何処かで見た景色。
いつもの帰り路を外れ、気まぐれにいつもとは違う路を行く。
学ランと学帽、黒塗りの鞄は、相変わらずの重たい色彩を放っている。
ーーー僕は、真っ赤に揺れる大きな残照の中に立っていた。
大きく揺らぎ燃え立つ赤い炎は、僕の影をアスファルトに焼き付け、昼間の暑い空気の流れの名残を教えていた。まるで、今の僕の心を映すように。
僕は、遠く黄昏の行く先を見つめた。脳裡を掠める蒼い影。せぴあ色の景色の中で揺れるキオク。
ーーー此処は初めて通る路。
なのになぜ?
この深い記憶の波は、いったい何処からやってくるのだろう。
見上げれば、崖の上に佇む大きな古い屋敷が見える。その崖の下には深い深い掘り。そこには清水が満々と湛えられ、ゾッとするほど碧く澄んでいた。
此処は常世(とこよ)と現世(うつしよ)の渡し沼。
此処を僕は知っている。
否、「僕」であって「僕」ではないーーーヒト。
これは魂に刻まれた「前世(かこ)」の記憶なのか?
ーーー判ラナイ。
唯、不思議な記憶の疼きが僕の脳裡を深い淵に沈めていった。
薄くゆらめく黄昏の中を一陣の風が吹き抜けた、仄かな甘酸い香りを漂わせて。
ーーー何かが来る。
僕はそんな不安に似た思いを抱えながら、風の向かう路の彼方をハッとして見つめた。
僕の瞳の先には、僕と瓜二つの男が着物姿で佇んでいた。
男は僕のほうをちょいっと振り返り、踵を返して歩みだし、そして路の彼方へと姿を消していった。
僕の足元で起こった風は何事も無かったように辺りを吹き染め、一舞すると、虚空へ逃げて行った。僕の脳裡にあの着物姿の男と白い蛇の幻影を残してーーー。
深く遥かな宵闇に町は沈んだ。
僕は自宅の門をくぐった。しかし玄関には向かわず、そのまま庭へ回って、風にあたりに行った。
高台に立つ僕の家からは、街の灯りに煌めく夜景が見下ろせる。耳を澄ますと、屋敷から一里ほど彼方とおくを走る列車の微かな音と秋虫の鳴き声が微妙な感覚で交じり合い、深め合い、宵闇の不思議な静を醸し出していた。
少し瞑想をしてから、僕は玄関へ戻り、薄明かりの灯る戸を静かに開けた。
「ただいま帰りました。」
ひっそりとした家の奥へと響く僕の声。
透き通る空気。
はた、はた、はた・・・。
忙(せわ)しく室内履(スリッパ)の音をたてながら、待っていたように手伝いの里子は、僕の立つ玄関へと小股走でやって来た。僕は右手で学ランのつめを外しながら里子に鞄を預けた。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ。」
里子はそう云って、腰を折りお辞儀をすると、満面にやわらかい笑みを浮かべながら僕の鞄を受け取った。
「ただ今戻ったよ。遅くなってしまってすまない。鞄を僕の部屋に置いといておくれ。」
そう云いかけて再び戸へ手を掛けた。奥へ行こうと踵を返しかけた里子はハッとしたように、僕を顧みた。
「坊ちゃま?このような時間にお出かけですか。一体どちらへ?」
驚いて呼び止めた里子に僕は、ニッと口の端を僅かに上げて笑って見せた。
「食事は後でいいよ。ちょっと、用事があるから外へ行って来る。」
僕は足早に玄関を後にした。
虚空に銀月が煌々と揺れていた。
生温く、纏わり付くような湿った風が、僕の足元を吹き抜けてゆく。
僕は裏木戸へ向かっていた。そこには、射干玉の夜に美しく浮かび上がる、細く白い女の影が一つ。
「裕柾・・・」
硝子細工のように壊れやすそうな程にか細く、優しく透き通った声。白く細い美しい彫刻のような指先が夜闇に彷徨った。
「深娜月(みなづき)さん」
深娜月という名の女の、雪のように白く儚げなが影が、静かにそっと僕を誘う。
僕は夢とも無い面持ちで、彼女の方へゆっくりとした足取りで近づいていった。このとき、僕の中の「理性」というものの一切がこの女によってかき消されてしまっていた。今、僕の中にあるものはこの魔性を秘めた美しい女、深娜月という名の女の存在以外、何も無い。僕の瞳は彼女以外の何ものも映すことはできなくなっていた。
しなやかな天女の腕が、ふわっと僕の首筋に絡み付いた。そして、耳元で囁く聲、熱く甘い吐息。
「祐柾、うちな、ずぅっと待っとったん。」
深娜月の、少し拗ねたような甘えた口調。砂糖菓子のように甘ったるくてなんて心地よい。まるで子守歌のようだった。
月影に浮かんだ玉虫色の唇が僕を誘う。僕は彼女の身体を両の腕で堅く抱き締め、そっと口づけを交わし合った。
人離れした美しい容貌(かたち)とその妖ういほどの危険でいて、そして透明な存在感。我を破滅へと導いてゆくような魔性の香りのする危険な女。
彼女を例えるならば蛇だ、そう、まさしく美しくぬめる白い蛇。風に残されたあの白い幻影ーーー。
ーーー彼女ハ「人」デハナイ。
心の端でそのような気すらしていた。
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